もっとも単純で、昔から行われてきた火刑は、まず柱に罪人を縛り付け、その足元に薪をくべて、これに火をつけるというやり方でした。タイヤネックレスには、このような従来の火刑とは違い、対象者により大きい苦痛を与える要素があります。
なんと、この処刑方法は、火であぶり殺すだけでなく、同時に首を絞めて窒息させるという、「絞首刑」の役割も持っているのです。首にかかったゴムのタイヤが、そのポイントとなります。
タイヤが火で熱されゴムが縮み首を絞める
なぜタイヤに火をつけるのか。対象者の首を絞めるためというのが、その理由の一つです。ゴムは、熱を受けると縮む性質を持っています。首にかけられたゴムタイヤは、火をつけられると急速に縮まり、皮膚を焼きながら、対象者の首をぐんぐん締め上げていきます。重さ約5kgのゴムの塊が首にまとわりつけば、もはやどんなに暴れても無駄です。
タイヤのゴムが溶け熱されたゴムが肌に垂れていく
ゴムタイヤを用いる理由の二つ目は、火傷の苦痛を全身に与えるためです。上半身に装着されてたタイヤが熱せられれば、溶けたゴムは重力に従い、たれ落ちます。高温の液体が、肌を伝って下半身に向かって流れていく状態になるのです。この刑を受けた人間は、首から上だけでなく、全身が焼けただれてしまうのです。
タイヤネックレスという私刑の背景
このおぞましい刑は、いったいどのような背景で生み出されたのでしょうか?そこには、南アフリカにおける、人種間での差別と軋轢によって生じたいがみ合いという、大きな歴史的事象が関わっていました。
タイヤネックレスはアパルトヘイトの「負の遺産」
タイヤネックレスが行われ始めたのは、1980年代の南アフリカからと言われています。当時の南アフリカは「アパルトヘイト」への反発として、人種間での対立が激化し、暴力的な運動が巻き起こる国内は、混沌の様相を呈していました。
そんな南アフリカ社会の中で暮らす、民衆の怒りや不安の発露として、この処刑法は生まれたと言えます。結果として運動は実を結びましたが、争いの中で生まれた残虐行為であるタイヤネックレスは、現代にも受け継がれてしまったため「負の遺産」と呼ばれるのです。
アパルトヘイトとは
日本語で「人種隔離政策」と呼ばれる、この制度・政策は、南アフリカ共和国で1991年まで続いていました。少数の白人が、大多数の有色人種を差別し、隔離し、支配するための仕組みです。
黒人などの有色人種は、白人と関わることを許されず、地位や身分は常に白人より下とされ、参政権も与えられていませんでした。この状況に耐えかねた民衆が運動を起こし、ついにアパルトヘイトの政策は撤廃されるのです。
タイヤネックレスのターゲットは白人側の黒人
アパルトヘイトをめぐって、白人と黒人との対立はいがみ合いに、いがみ合いはやがて戦闘へと発展していきました。そして、1980年代中ごろ、そんな戦闘が激しさを増す中で、この刑が実行されました。
場所は政策により隔離された、非白人の居住区。ターゲットとなったのは白人側に加担したとされる黒人です。彼らは同じ黒人である住民から「裏切者」とみなされ、見せしめとしてタイヤネックレスの刑を受けました。
世界が目撃した最初のタイヤネックレス
タイヤネックレスの存在は、ある衝撃的なニュースがきっかけで、全世界の知るところとなりました。それは、反アパルトヘイトの戦いの中で起きた事件であり、実行したのは差別主義に立ち向かった英雄と呼ばれる人々、犠牲となったのはまだ若い24歳の女性でした。
1985年マキ・スコサナ(24歳)の生処刑
1985年7月20日、南アフリカのハウテン州ドゥドゥザの町で手りゅう弾による爆破事件が起こりました。この爆発により、反アパルトヘイトの活動家の青年4人が亡くなります。当時24歳だったマキ・スコサナさんという女性は、この4人の葬儀に参列していました。
その葬儀の真っ最中に、彼女は自警団に引きずり出され、報道陣のカメラの前でタイヤをかけられ、そのまま処刑されたのです。当時この様子は、テレビの生中継で伝えられました。
手りゅう弾による爆破テロ事件に関わった疑い
自警団は、彼女が爆破テロに関わった、白人側のスパイだとみなしました。そして、周りにいた大勢の人がそれに同調し、公開処刑に参加したのです。後に、スコサナさんは無実であったことがわかりました。