ルーシーブラックマン殺害事件とは?
近年に起こったこの衝撃的な事件に関して聞き覚えのある方も少なくないかもしれません。当時このニュースでは、残忍な殺人事件として、世の中を震撼させました。実際、いつ頃に起こった事件で、どのような人が犠牲になったのかについて述べていきます。また、殺害後の状況はどのような状態で発見されたのかについて迫っていきます。
2000年に起こった強姦殺人事件
神奈川県の逗子市で起こった外国人女性が、強姦されて殺されてしまいました。事件発覚当時、連日ニュースで報道され、被害者が外国人ということもあり海外で騒がれて話題になった事件です。しかも、当時日本はとても安全な国として世界でも有名だったので、世の中の日本へのイメージを変える事件の一つとしてあげられた事件でもあります。
被害者はイギリス人女性ルーシーブラックマン
後の項目でも彼女がどんな人だったのか詳しくご紹介しますが、英国出身の女性で六本木でホステスとして働いていました。
ところで、日本ではさまざまな凶悪な強姦殺人がありましたが、栗田源蔵という殺人鬼をご存知でしょうか。この男は、常軌を逸した犯行を繰り返した、サイコパスとしても有名です。こちらの記事で詳しい詳細がのっていますので、関心のある方はこちらもどうぞご覧ください。
遺体はバラバラの状態で発見された
行方不明になってから、半年が経ち事件が進展しました。疑いのあった重要参考人としてあがっていた織原が住んでいた場所の近くの海岸のあたりで、バラバラの遺体として発見されることになりました。そして、事件はこれを起点に急速に進展していき、次々と凶行も世間に明るみになっていきました。
ルーシーブラックマン事件の流れ
ここでは、一連のこの痛ましい事件についての経緯についてご説明していきます。いつ被害者が行方不明になり、どのようにして捜査が本格的に始まったのかについて言及していきます。また、加害者の逮捕についての詳細についても述べていきます。そして、最終的にいつごろ遺体がが発見されることになったかについても解説していきます。
2000年7月1日に被害者が行方不明になる
行方不明になり最後の接触をもった知人は彼女の友人でした。接触とといっても7月1日に電話で友人に連絡をしたという形です。その後7月3日、ルーシーさんの電話に謎の男から連絡がかってきました。その電話を怪しいと感じた友人は、警察に捜索願を出しました。友人が不審に思ったのが事の発端になりました。
同年8月22日被害者妹が記者会見を開き捜査本格化
ルーシーさんの妹が記者会見を開きました。内容は、1万ポンド(当時で言えば、160万円になります。)の懸賞金をかけて、有力な情報を募りました。9月の下旬になると、ルーシーさんが働いていたお店の常連客の不動産管理会社社長の男性が重要な参考人として、警視庁捜査一課の麻布署の手によって捜査されていることが明らかになりました。
同年10月12日織原城二が別件で逮捕される
10月に入るとルーシーさんの事件とは別件で逮捕されることになりました。逮捕内容は、準強制わいせつ罪でした。そして、彼の所有するマンションの一室、モータボートがある付近の海岸などの捜索が行われました。彼の部屋からは白人女性をレイプしてるビデオテープやたくさんの薬物、プリペイド式の携帯電話などが見つかりました。
織原城二再逮捕!他にも様々な事件が発覚
10月の27日はカナダ人女性に対して準婦女暴行罪を働き再び逮捕されました。捕まった段階では合意の上だったと主張し犯行を否定していたが、押収されたビデオに基づいて逮捕されました。言葉巧みに女性を誘い込み、睡眠の効果がある薬物をお酒などに混ぜて、意識を失わせうえで、最終的に被害者に対して乱暴はたらいた疑いをかけられました。
2001年ルーシーブラックマンの遺体発見
翌年の初めに、ルーシーさんのご遺体が発見されることになりました。織原城二のマンションから遠くない場所で遺体が発見されました。場所は、神奈川県の南東に位置する三浦市の中にある洞窟になります。しかもバラバラに切断された状態で、地面に埋められている浴槽の中に遺棄されていました。この事件の非道さを物語る証拠が露わになりました。
ルーシーブラックマン殺害事件の裁判は?下された衝撃の判決
結論から言うと裁判は、非常に難航しました。果たして、どのくらいの時間をかけて裁判が行われたでしょうか。さらに、最初の裁判ではどのような判決がくだっていたのかについても見ていきます。最終的に、無期懲役に至るわけですが、そこでもショッキングな判決が下っています。最後に、犯人はどのような態度であったかについても触れいきます。
60回以上に及ぶ長期裁判となった
殺人鬼によくある例にもれず織原城二もいろいろな奇行を行いました。一例をあげると、全裸で部屋に引きこもるなどしたり、裁判を拒否する行動を行ったりしたせいで、裁判は非常に長引いてしまいました。裁判の合計は、なんと60回を超えてしまいました。この事件が注目させれ、ニュースでも話題にあがるのはこのようなことにも起因しています。
第1審では無罪判決
ルーシーさん以外の9人への強姦は認定され、うちオーストラリア人の一人の女性の殺害についても認定されました。しかし、ルーシーさんの件に関しては証拠が不十分として無罪という判決が出てしまいました。当然のように周囲の人々はざわめきました。織原は知人の関与を語ったが、自分は関係がないとルーシーさんに関する犯行は否定しました。
最高裁にて無期懲役が確定した
2008年12月の控訴審ではついに、わいせつ目的誘拐、準強姦未遂、死体損壊、死体遺棄の罪について有罪の認定がされることとなりました。しかし準強姦致死罪に関しては一向に認定されることはありませんでした。判決を不服としたため最高裁までもつれ込みましたが、2010年12月7日付けで最高裁にて織原城二の無期懲役が確定しました。
犯人に反省の様子は皆無だった
この凶悪な強姦魔は自作自演の冤罪キャンペーンを行ったりもしていました。しまいには、刑を軽くしようとするため、オーストラリアの人女性の遺族に見舞金を贈ったりなど罪の意識が感じられない行動をしていました。そして、その見舞金を「お悔み金」と称してオーストラリア人女性の殺害には自身は関与してないという主張まで始める始末でした。
ルーシーブラックマンはどのような人物だったのか
被害者女性のルーシーブラックマンさんはどのような人だったでしょうか。どのようなルックスをして、どんな能力に秀でていたのかなどについても述べていきます。以前はどのような職業についていて、来日後彼女の能力を生かし従事していた仕事についてご解説していきます。また、亡くなったのは何歳の時だったのかについても迫っていきます。
元英国航空客室乗務員
ブロンドの容姿端麗な女性で、もともとはイギリスの航空会社のスチュワーデスをしておりました。しかし、借金があったとの噂もあります。その借金とはイギリスで車をクレジットカードで購入した時の借金とされていて、返済はまだしてなかったようです。ホステスとして日本で働くようになったのは高額なお金が手に入れるためという話もあります。
来日後は六本木のホステスとして勤務
プラックマンさんは、日本に来てから亡くなるまで約2ヶ月日本に住んでいました。多くの外国人女性が働く六本木でホステスとして働いていました。ルックスもとても美しい女性であり、接客などの会話スキルに秀でていました。かつ、人に注目されることに慣れていたので、織原城二が好むようなターゲットの条件としてとても当てはまっていました。
21歳という若さで亡くなった
ティーンネージャーの時代を卒業してまもない若干21歳という、人生もこれからという時に殺されてしまいました。
ところで、少女が拉致され凄惨のリンチの末殺害されたたいへん痛ましい事件をご存知でしょうか。それは日本全土を震撼させたコンクリート殺人事件です。こちらも日本で起きた事件なのですが、関心のある方は合わせてご覧ください。
ルーシーブラックマン殺害の犯人「織原城二(金聖鐘)」とは
加害者の織原城二は、どのような人物だったかについて述べていきます。実は、恐ろしいことに被害者はルーシーブラックマンさんだけではなく、さまざまな事件に関わっていました。また、日本人のような名前であり、国籍は日本なのですが、実は他国にゆかりのある人物でした。また、今の彼はどのような環境にあるのかについても触れていきます。
ルーシーさん以外にも多くの事件に関与
前述でも少し触れましたが、裁判として裁かれた事件よる織原城二の犠牲者は10人にもやります。しかし、これは氷山の一角で織原が起こした犯罪は訴えられてない事件はたくさんあると言われています。レイプという犯罪の性質上、被害者が訴え出にくく、しかも不法滞在者などの場合は、訴え出ないケースもあるのではという憶測があがっています。
日本国籍を持つ韓国人
実は彼はもともとは日本人ではなかったようです。以前は、韓国籍であり名前を金聖鐘というそうです。時を経て日本に帰化をして織原城二を名乗る様になったと言われています。しかしこの事実は当時日本のテレビや新聞では報道されませんでした。2005年になって、ようやくイギリスの新聞社のタイムズ紙を初め各国が報道するようになりました。
現在は無期懲役で服役中
まるで更生の兆しが見えないこの犯罪者の現在は、判決どおり今もなお刑務所にて無期懲役の刑で服役をしています。
ところで、無期懲役の判決がでた、犯罪者として有名な三上静男という人物をご存知でしょうか。頭脳明晰な、サイコパス的な犯罪者だったとも言われている恐ろしい人物です。関心のある方は、こちらの記事もあわせてご覧ください。
強姦殺人の凶悪犯罪者・織原城二の奇妙な生い立ち
次に、織原城二の人生の歩みについて迫っていきます。彼の親はどのような人物でどうやって日本へやってきたのか、そして父親は日本でどのように生きてきたのかについて述べていきます。また、父の死には黒い噂もあります。犯罪者ではありますが、彼は優秀な経歴を持っていました。そして、経済的な面でもとても恵まれた環境にあったといえます。
両親は韓国人の密入国者
犯人の両親は、日本に密入国してきた韓国人の移民だったと言われています。最初は貧しい生活からスタートしましたが、戦後の混乱期に、不動産業に着手して、パタクシーで働いたり、チンコ産業で成功して財を得たとという噂があります。そして、大阪で1952年にこの両親のもとに金聖鐘(キム・スンジョン)という名でこの世に生を受けました。
父親が仕事で財産を築き、貧困からエリートへ
父親の仕事にはきな臭い噂がつきまとっていました。一代で貧困な状態から莫大な財を築き上げましたが、実のところ犯罪まがいの行いに手を染めて、大きくなっていったとも言われています。現に犯人の父親の亡くなり方にも、いわくがあります。世間ではヤクザなどの裏の組織とのいざこざによって、香港で命を落としたという情報まで流れています。
15歳で慶應義塾大学へ入学
当時から名門の大学としても名を馳せている慶應義塾大学の高等学校に入学しました。犯人は一人で上京し、高級住宅街でもある田園調布に家政婦とともに一軒家に住んでいました。高校を卒業した後は、慶応大学の推薦を辞退して、駒沢大学へ籍をおいていました。その後3年間アメリカやスウェーデンなどを遊学し、最終的に慶応大学へ入学しました。
17歳の頃父が他界。莫大な財産を得る
若干17歳の時に織原城二の父親が亡くなり一生働かなくても生活できるほどの莫大な財産を相続しました。そして21歳になる頃には日本国籍を所得しました。30代になった頃には、駐車場の経営や不動産などでさらに財を増やし総資産の額は40億円まで膨れ上がっていました。しかしこの事件で逮捕される頃にはすでに事業で失敗をしていました。