七生報国がなぜ右翼のスローガンとなったのか?言葉の由来から真の意味を考える

大東亜戦争中「七生報国」という言葉が盛んに使われ、現在では七生報国は右翼団体のスローガンとなっています。しかし、七生報国はもともと軍国主義の言葉ではありませんでした。七生報国の言葉の由来やその真の意味とは?楠木正成が残した「七生報国」の意味を探ります。

この記事をかいた人

わかりやすく読みやすい記事の執筆を心掛けています。

「七生報国」の意味とは?

jamie_nakamura / Pixabay

現在あまり使われることのなくなった「七生報国」ですが、この四字熟語は、そもそもどういう意味なのでしょうか?まず初めに、「七生報国」の意味をここで理解し、この先の項目を読み進めて頂けたら幸いです。

「七生報国」とは「楠木正成」が残した言葉!

出典:PhotoAC

この言葉は、日本史における「軍事的天才」との呼び声高い、「楠木正成(くすのき・まさしげ)」が残した言葉であると言われています。この一文からでも、少し保守的な言葉なのかもしれないことは、窺えるでしょう。

「七生報国」とは「国の恩に報いる」という意味

出典:PhotoAC

「七生報国(しちしょうほうこく)」とは、七回この世に生まれ変わって、国に忠実に、誠を尽くすことを指します。「七生」とは仏教用語で、「何度も」生まれ変わることを示し、「報国」は、国から受けた恩に報い、尽くすことを言うのです。

「七生報国」は右翼のスローガン

出典:PhotoAC

「七生報国」は、その言葉自体が含む意味が、保守的な思想であると言えるからです。大東亜戦争…今では太平洋戦争と言われていますが、当時から軍隊を鼓舞する言葉として掲げられていました。その印象が、現在まで引き継がれているのです。

「七生報国」と言った「楠木正成」ってどんな人物?

Samueles / Pixabay

次に、「楠木正成」とはどのような人物かを、いくつかの歴史的背景を絡めながら、紹介していきます。はじめこそ悪党と呼ばれるも、革新的な「軍事思想家」とも称された楠木正成の功績を、解説していきます。

楠木正成は鎌倉幕府討幕をけん引した名武将

出典:PhotoAC

楠木正成は、鎌倉時代の末期から、南北朝時代に活躍した武将です。後醍醐天皇に召喚されるまでは、河内と和泉を本拠地とした悪党として名を馳せていました。悪党時代から、農民たちと良好な関係を築いていたことでも知られています。

楠木正成「赤坂城の戦い」

13smok / Pixabay

「赤坂城の戦い」とは、鎌倉時代末期の、1331(元弘元)年9月11日に起きた戦いです。正成の軍と、幕府軍全4軍との戦いでした。赤坂城に籠もり、勝利したことで知られています。兵糧攻めに遭い、1か月後に城は陥落しましたが、正成は上手く逃げ切ることができ、しばらく身をくらませました。

楠木正成「赤坂城の奪還」

出典:PhotoAC

1332(元弘2)年4月3日、正成軍は赤坂城に潜入し、襲撃します。食糧の少なかった赤坂城では、毎晩兵士が出入りして、食糧を運んでいました。正成はその兵士をまず捕らえ、自軍の兵士と入れ替え、潜入を成功させました。内部から侵食された赤坂城内の湯浅宗藤は、一戦を交えることなく降伏しました。

楠木正成「千早城の戦い」

tmooyy / Pixabay

1333(元弘3)年4月3日、幕府軍が、討幕を企てる後醍醐天皇に忠臣する正成を討伐しようと、正成軍は千前後に対し、幕府軍は万単位の軍を編成し乗り込んだ、包囲戦です。正成軍は、敵を引き付けては大岩を投石したり、弓矢を一斉に襲撃したりと、幕府軍を返り討ちにしました。戦力が持たないと悟った幕府軍は、戦法を切り替えます。

またもや兵糧攻めをし、城への水源も断ち、持久戦に持ち込みました。しかし、正成が日頃から結んでいた農民と強い信頼関係により、食糧が尽きることはありませんでした。そして、水も十分に城内へ貯められていたため、飢えることはありませんでした。反対に幕府軍の側が飢えで苦しむ事態に陥ったのでした。

楠木正成が「七生報国」と残した経緯

出典:PhotoAC

「千早城の戦い」における幕府軍敗北の一報は、すぐさま全国へと広まりました。幕府の権威は一気に落ち、倒幕への機運が高まっていました。そして1333(元弘3)年5月22日、新田(源)義貞により鎌倉幕府は滅ぼされました。

時世は後醍醐天皇から足利尊氏へ

出典:PhotoAC

1333年6月、後醍醐天皇の「建武の新政」が開始されます。はじめこそ上手くいっていた後醍醐天皇の政治ですが、その政策は、徐々に武家のヘイトを買うものになります。民衆の不満は尊氏に反映されました。

楠木正成、無念の「湊川の戦い」

出典:PhotoAC

反旗を翻した足利尊氏・直義軍に対抗するため、後醍醐天皇は正成を頼ります。1336(建武3)年5月25日のことでした。日本史上、もっとも激しい戦であったと云われます。当初より、正成は「敗戦」を予感します。

そのため、後醍醐天皇に降伏すべきだと助言しますが、取り合ってもらえないどころか、侮辱されてしまいます。また、足利軍の側も、正成の実力を認めていたため、殺すのは惜しいと考え、再三降伏を訴えていました。

楠木正成自刃、「七生報国」を残す

DianaraSHERRY / Pixabay

NEXT 楠木正成自刃、「七生報国」を残す