「七生報国」の意味とは?
現在あまり使われることのなくなった「七生報国」ですが、この四字熟語は、そもそもどういう意味なのでしょうか?まず初めに、「七生報国」の意味をここで理解し、この先の項目を読み進めて頂けたら幸いです。
「七生報国」とは「楠木正成」が残した言葉!
この言葉は、日本史における「軍事的天才」との呼び声高い、「楠木正成(くすのき・まさしげ)」が残した言葉であると言われています。この一文からでも、少し保守的な言葉なのかもしれないことは、窺えるでしょう。
「七生報国」とは「国の恩に報いる」という意味
「七生報国(しちしょうほうこく)」とは、七回この世に生まれ変わって、国に忠実に、誠を尽くすことを指します。「七生」とは仏教用語で、「何度も」生まれ変わることを示し、「報国」は、国から受けた恩に報い、尽くすことを言うのです。
「七生報国」は右翼のスローガン
「七生報国」は、その言葉自体が含む意味が、保守的な思想であると言えるからです。大東亜戦争…今では太平洋戦争と言われていますが、当時から軍隊を鼓舞する言葉として掲げられていました。その印象が、現在まで引き継がれているのです。
「七生報国」と言った「楠木正成」ってどんな人物?
次に、「楠木正成」とはどのような人物かを、いくつかの歴史的背景を絡めながら、紹介していきます。はじめこそ悪党と呼ばれるも、革新的な「軍事思想家」とも称された楠木正成の功績を、解説していきます。
楠木正成は鎌倉幕府討幕をけん引した名武将
楠木正成は、鎌倉時代の末期から、南北朝時代に活躍した武将です。後醍醐天皇に召喚されるまでは、河内と和泉を本拠地とした悪党として名を馳せていました。悪党時代から、農民たちと良好な関係を築いていたことでも知られています。
楠木正成「赤坂城の戦い」
「赤坂城の戦い」とは、鎌倉時代末期の、1331(元弘元)年9月11日に起きた戦いです。正成の軍と、幕府軍全4軍との戦いでした。赤坂城に籠もり、勝利したことで知られています。兵糧攻めに遭い、1か月後に城は陥落しましたが、正成は上手く逃げ切ることができ、しばらく身をくらませました。
楠木正成「赤坂城の奪還」
1332(元弘2)年4月3日、正成軍は赤坂城に潜入し、襲撃します。食糧の少なかった赤坂城では、毎晩兵士が出入りして、食糧を運んでいました。正成はその兵士をまず捕らえ、自軍の兵士と入れ替え、潜入を成功させました。内部から侵食された赤坂城内の湯浅宗藤は、一戦を交えることなく降伏しました。
楠木正成「千早城の戦い」
1333(元弘3)年4月3日、幕府軍が、討幕を企てる後醍醐天皇に忠臣する正成を討伐しようと、正成軍は千前後に対し、幕府軍は万単位の軍を編成し乗り込んだ、包囲戦です。正成軍は、敵を引き付けては大岩を投石したり、弓矢を一斉に襲撃したりと、幕府軍を返り討ちにしました。戦力が持たないと悟った幕府軍は、戦法を切り替えます。
またもや兵糧攻めをし、城への水源も断ち、持久戦に持ち込みました。しかし、正成が日頃から結んでいた農民と強い信頼関係により、食糧が尽きることはありませんでした。そして、水も十分に城内へ貯められていたため、飢えることはありませんでした。反対に幕府軍の側が飢えで苦しむ事態に陥ったのでした。
楠木正成が「七生報国」と残した経緯
「千早城の戦い」における幕府軍敗北の一報は、すぐさま全国へと広まりました。幕府の権威は一気に落ち、倒幕への機運が高まっていました。そして1333(元弘3)年5月22日、新田(源)義貞により鎌倉幕府は滅ぼされました。
時世は後醍醐天皇から足利尊氏へ
1333年6月、後醍醐天皇の「建武の新政」が開始されます。はじめこそ上手くいっていた後醍醐天皇の政治ですが、その政策は、徐々に武家のヘイトを買うものになります。民衆の不満は尊氏に反映されました。
楠木正成、無念の「湊川の戦い」
反旗を翻した足利尊氏・直義軍に対抗するため、後醍醐天皇は正成を頼ります。1336(建武3)年5月25日のことでした。日本史上、もっとも激しい戦であったと云われます。当初より、正成は「敗戦」を予感します。
そのため、後醍醐天皇に降伏すべきだと助言しますが、取り合ってもらえないどころか、侮辱されてしまいます。また、足利軍の側も、正成の実力を認めていたため、殺すのは惜しいと考え、再三降伏を訴えていました。
楠木正成自刃、「七生報国」を残す
戦いでボロボロになった正成と弟の正季は、とある民家で最期を迎えます。そのときの描写は『太平記』巻16、「正成兄弟討死事」に記されています。正成は、死の間際、正季に「何か思う所はあるか」と尋ねます。すると正季は、「七回、同じ人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい」と答えます。
正成はそれを聴いて、嬉しそうに笑い、「罪深い考えだが、同じ想いだ。次も同じように生まれ、願いを達成させよう」と伝えます。そして二人は互いに刺し違え、自害しました。今でこそ「七生報国」と言われますが、当時は「七生滅賊」の語が当てられていました。
「七生報国」に感銘を受けた水戸の黄門様
正成の首は一度晒されたあと、故郷へと帰されるという異例の配慮がなされました。死してもなお、惜しい武将だったのですね。正成の伝承は、後世にも影響を与えました。江戸時代に生きる徳川光圀もまた、その一人です。
室町時代から江戸時代初期まで忘れられていた「楠木正成」
足利尊氏が京都に幕府をひらき、室町時代に突入してから、一旦は「楠木正成」の存在は影を潜めました。室町時代は、武士と公家の文化が融合を果たし、商業も娯楽文化も栄えた、奇跡の時代だったと云われます。
水戸光圀『大日本史』編纂中「楠木正成」の墓碑を建立
「水戸黄門」として広く名が知られる徳川光圀は、常陸水戸藩の第二代藩主です。『大日本史』編纂のために、1657(明暦3)年に江戸に「史書編纂所」をかまえ、史書を編み始めます。編纂の道中で、光圀は、すっかり荒廃した「正成の墓」を発見します。
光圀は、正成の墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓碑を立てます。1692(元禄5)年のことです。正成の墓のある場所には、1872(明治5)年に神社が建てられました。それが現在の兵庫県神戸市にある、湊川神社です。
水戸光圀「楠木正成」を「忠君の鏡」と讃える
光圀は、楠木正成について「忠勇節烈」で、国の誰も比較対象になれないほど、優れた人であると称賛しています。国のために自分自身を顧みず、犠牲になることを恐れなかった正成の像は、湊川神社だけでなく、千代田区の皇居外苑にも建てられています。
いつでも駆け付けられるように、二重橋前、皇居が見える位置に建てられています。ちなみに、正成の墓の発見のきっかけとなった『大日本史』自体は、1906(明治39)年、水戸徳川の第13代当主である徳川圀順の手により、完成しました。
学生右翼団体「帝大七生社」
大正期においても、「七生報国」の精神は受け継がれます。1925(大正14)年2月に結成した「帝大七生社(ていだいしちせいしゃ)」も、その一つです。結社名からも窺えるように、「七生報国」の精神に由来し、名が付けられました。
「帝大七生社」とは?
東京帝国大学内で、当時同大の教授であった上杉慎吉を指導者として結成された、「学生右翼団体」です。1920(大正9)年に発足した左翼学生思想団体「新人会」に対抗するかたちで出現しました。「至誠一貫」「報国尽忠」を掲げて、当初は月一回の研究会や、神社や史跡をまわり参詣する、などの活動を行っていました。
左翼活動の衰退とともに消滅
初めこそ大人しかったものの、活動は次第に「暴力化」していき、「新人会」との衝突は絶えませんでした。とくに1928(昭和3)年に起きた「七生社事件」では、「高等学校弁論大会擁護演説会」を襲撃し、重軽傷者を多数出し、問題になりました。しかし、左翼の活動が徐々に衰退するにつれ、七生社自体も衰退し、消滅たのです。
独り歩きする「七生報国」
「七生報国」は、本来、「国を愛するがゆえに、つねに国に身を捧げる覚悟」ができていた楠木正成を称えるための言葉であることを、ここまでお話してきました。しかし、その言葉のルーツを知らず、言葉の意味を歪めて解釈してしまうと、戦争を推進しているような言葉に聞こえてしまうのです。
「七生報国」が太平洋戦争中のスローガンとなる
一般には1941年から1945年の間と定義されている「太平洋戦争」においても、「七生報国」がスローガンとして掲げられていました。当時の「お国のために死ぬ」という思想と、同じような意味で使用されていたのです。
「七生報国」という軍歌までできた
1941(昭和16)年には、「七生報国(ななせいほうこく)」という軍歌も作られました。歌手は伊藤久男です。作詞は野村俊夫が手がけました。歌詞の冒頭では、「湊川の戦い」での正成自害のエピソードが盛り込まれます。現在は、東京都千代田区九段にある「昭和館」でレコードを聴くことができます。
特攻隊員は「七生報国」と書いた鉢巻をしめていた
当時、国のために命をかけることは、「名誉」なことでした。特攻隊員は「七生報国」と記されたハチマキを額に巻き、特攻の際には「七生報国!天皇陛下万歳!」と叫んだとの逸話も残されています。
戦後の「七生報国」
戦争が終わってもなお、日本では「七生報国」に対する熱い想いが、精神の根底に残り続けたようです。ここでは、「七生報国」の言葉が関わっている、戦後の大きな事件について紹介していきます。
浅沼稲次郎の暗殺事件と「七生報国」
1960(昭和35)年10月25日に、ショッキングなニュースがありました。日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎が、演壇で刺殺されてしまいます。現行犯逮捕されたのは、当時17歳の山口二矢(やまぐち・おとや)でした。山口は右翼活動家であり、反共主義者でもありました。
そのため、当時社民党の党首であった浅沼に個人的な恨みはなかったが、犯行に及んだのだといいます。逮捕後の11月2日、山口は東京少年鑑別所の東寮2階2号室の獄中で、シーツを縄上にし、それで首を括って亡くなりました。壁には、歯磨き粉で「七生報国 天皇陛下万歳」と記されていたそうです。
三島由紀夫の切腹と「七生報国」の鉢巻
三島由紀夫の割腹自殺の日は、「三島事件」と称される事件の日です。1970(昭和45)年11月25日、三島は、当時の自衛隊東部方面隊の総監であった益田兼利を東部方面総監部で人質にとります。そしてバルコニーから20分程度、自衛隊に向けて「憲法改正のためのクーデター」を訴えます。演説の手ごたえは、まったくありませんでした。
その演説の際、三島は「七生報国」と書かれた鉢巻を巻いていました。総監室に戻った三島は、割腹自殺を遂行しました。当時名を馳せた文豪のショッキングな死は、大きくマスコミに取り上げられました。
フィクサー・児玉誉士夫邸「最後のカミカゼ」事件
児玉誉士夫(こだま・よしお)とは、「政界の黒幕」や「フィクサー」と称された人物です。田中角栄とともに、ロッキード事件で起訴されました。その起訴がきっかけとなり、起きた事件です。1976(昭和51)年3月23日、児玉誉士夫の邸宅に、小型の航空機が突っ込み、炎上しました。操縦士は俳優の前野光保、当時29歳です。
これは「自爆テロ」でした。児玉のロッキード事件関与を知り、「裏切られた」と感じたことが犯行動機です。事件当時、神風特攻隊の服に身を包み、日の丸の柄に「七生報国」と書かれた鉢巻を締めていました。最後の無線通信では、「天皇陛下万歳!」の言葉を残しています。アメリカでは「最後のカミカゼ事件」と報道されました。