七生報国がなぜ右翼のスローガンとなったのか?言葉の由来から真の意味を考える

楠木正成「赤坂城の奪還」

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1332(元弘2)年4月3日、正成軍は赤坂城に潜入し、襲撃します。食糧の少なかった赤坂城では、毎晩兵士が出入りして、食糧を運んでいました。正成はその兵士をまず捕らえ、自軍の兵士と入れ替え、潜入を成功させました。内部から侵食された赤坂城内の湯浅宗藤は、一戦を交えることなく降伏しました。

楠木正成「千早城の戦い」

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1333(元弘3)年4月3日、幕府軍が、討幕を企てる後醍醐天皇に忠臣する正成を討伐しようと、正成軍は千前後に対し、幕府軍は万単位の軍を編成し乗り込んだ、包囲戦です。正成軍は、敵を引き付けては大岩を投石したり、弓矢を一斉に襲撃したりと、幕府軍を返り討ちにしました。戦力が持たないと悟った幕府軍は、戦法を切り替えます。

またもや兵糧攻めをし、城への水源も断ち、持久戦に持ち込みました。しかし、正成が日頃から結んでいた農民と強い信頼関係により、食糧が尽きることはありませんでした。そして、水も十分に城内へ貯められていたため、飢えることはありませんでした。反対に幕府軍の側が飢えで苦しむ事態に陥ったのでした。

楠木正成が「七生報国」と残した経緯

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「千早城の戦い」における幕府軍敗北の一報は、すぐさま全国へと広まりました。幕府の権威は一気に落ち、倒幕への機運が高まっていました。そして1333(元弘3)年5月22日、新田(源)義貞により鎌倉幕府は滅ぼされました。

時世は後醍醐天皇から足利尊氏へ

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1333年6月、後醍醐天皇の「建武の新政」が開始されます。はじめこそ上手くいっていた後醍醐天皇の政治ですが、その政策は、徐々に武家のヘイトを買うものになります。民衆の不満は尊氏に反映されました。

楠木正成、無念の「湊川の戦い」

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反旗を翻した足利尊氏・直義軍に対抗するため、後醍醐天皇は正成を頼ります。1336(建武3)年5月25日のことでした。日本史上、もっとも激しい戦であったと云われます。当初より、正成は「敗戦」を予感します。

そのため、後醍醐天皇に降伏すべきだと助言しますが、取り合ってもらえないどころか、侮辱されてしまいます。また、足利軍の側も、正成の実力を認めていたため、殺すのは惜しいと考え、再三降伏を訴えていました。

楠木正成自刃、「七生報国」を残す

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戦いでボロボロになった正成と弟の正季は、とある民家で最期を迎えます。そのときの描写は『太平記』巻16、「正成兄弟討死事」に記されています。正成は、死の間際、正季に「何か思う所はあるか」と尋ねます。すると正季は、「七回、同じ人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい」と答えます。

正成はそれを聴いて、嬉しそうに笑い、「罪深い考えだが、同じ想いだ。次も同じように生まれ、願いを達成させよう」と伝えます。そして二人は互いに刺し違え、自害しました。今でこそ「七生報国」と言われますが、当時は「七生滅賊」の語が当てられていました。

「七生報国」に感銘を受けた水戸の黄門様

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正成の首は一度晒されたあと、故郷へと帰されるという異例の配慮がなされました。死してもなお、惜しい武将だったのですね。正成の伝承は、後世にも影響を与えました。江戸時代に生きる徳川光圀もまた、その一人です。

室町時代から江戸時代初期まで忘れられていた「楠木正成」

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足利尊氏が京都に幕府をひらき、室町時代に突入してから、一旦は「楠木正成」の存在は影を潜めました。室町時代は、武士と公家の文化が融合を果たし、商業も娯楽文化も栄えた、奇跡の時代だったと云われます。

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