七生報国がなぜ右翼のスローガンとなったのか?言葉の由来から真の意味を考える

戦いでボロボロになった正成と弟の正季は、とある民家で最期を迎えます。そのときの描写は『太平記』巻16、「正成兄弟討死事」に記されています。正成は、死の間際、正季に「何か思う所はあるか」と尋ねます。すると正季は、「七回、同じ人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい」と答えます。

正成はそれを聴いて、嬉しそうに笑い、「罪深い考えだが、同じ想いだ。次も同じように生まれ、願いを達成させよう」と伝えます。そして二人は互いに刺し違え、自害しました。今でこそ「七生報国」と言われますが、当時は「七生滅賊」の語が当てられていました。

「七生報国」に感銘を受けた水戸の黄門様

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正成の首は一度晒されたあと、故郷へと帰されるという異例の配慮がなされました。死してもなお、惜しい武将だったのですね。正成の伝承は、後世にも影響を与えました。江戸時代に生きる徳川光圀もまた、その一人です。

室町時代から江戸時代初期まで忘れられていた「楠木正成」

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足利尊氏が京都に幕府をひらき、室町時代に突入してから、一旦は「楠木正成」の存在は影を潜めました。室町時代は、武士と公家の文化が融合を果たし、商業も娯楽文化も栄えた、奇跡の時代だったと云われます。

水戸光圀『大日本史』編纂中「楠木正成」の墓碑を建立

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「水戸黄門」として広く名が知られる徳川光圀は、常陸水戸藩の第二代藩主です。『大日本史』編纂のために、1657(明暦3)年に江戸に「史書編纂所」をかまえ、史書を編み始めます。編纂の道中で、光圀は、すっかり荒廃した「正成の墓」を発見します。

光圀は、正成の墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓碑を立てます。1692(元禄5)年のことです。正成の墓のある場所には、1872(明治5)年に神社が建てられました。それが現在の兵庫県神戸市にある、湊川神社です。

水戸光圀「楠木正成」を「忠君の鏡」と讃える

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光圀は、楠木正成について「忠勇節烈」で、国の誰も比較対象になれないほど、優れた人であると称賛しています。国のために自分自身を顧みず、犠牲になることを恐れなかった正成の像は、湊川神社だけでなく、千代田区の皇居外苑にも建てられています。

いつでも駆け付けられるように、二重橋前、皇居が見える位置に建てられています。ちなみに、正成の墓の発見のきっかけとなった『大日本史』自体は、1906(明治39)年、水戸徳川の第13代当主である徳川圀順の手により、完成しました。

学生右翼団体「帝大七生社」

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大正期においても、「七生報国」の精神は受け継がれます。1925(大正14)年2月に結成した「帝大七生社(ていだいしちせいしゃ)」も、その一つです。結社名からも窺えるように、「七生報国」の精神に由来し、名が付けられました。

「帝大七生社」とは?

東京帝国大学内で、当時同大の教授であった上杉慎吉を指導者として結成された、「学生右翼団体」です。1920(大正9)年に発足した左翼学生思想団体「新人会」に対抗するかたちで出現しました。「至誠一貫」「報国尽忠」を掲げて、当初は月一回の研究会や、神社や史跡をまわり参詣する、などの活動を行っていました。

左翼活動の衰退とともに消滅

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初めこそ大人しかったものの、活動は次第に「暴力化」していき、「新人会」との衝突は絶えませんでした。とくに1928(昭和3)年に起きた「七生社事件」では、「高等学校弁論大会擁護演説会」を襲撃し、重軽傷者を多数出し、問題になりました。しかし、左翼の活動が徐々に衰退するにつれ、七生社自体も衰退し、消滅たのです。

独り歩きする「七生報国」

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「七生報国」は、本来、「国を愛するがゆえに、つねに国に身を捧げる覚悟」ができていた楠木正成を称えるための言葉であることを、ここまでお話してきました。しかし、その言葉のルーツを知らず、言葉の意味を歪めて解釈してしまうと、戦争を推進しているような言葉に聞こえてしまうのです。

「七生報国」が太平洋戦争中のスローガンとなる

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一般には1941年から1945年の間と定義されている「太平洋戦争」においても、「七生報国」がスローガンとして掲げられていました。当時の「お国のために死ぬ」という思想と、同じような意味で使用されていたのです。

「七生報国」という軍歌までできた

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1941(昭和16)年には、「七生報国(ななせいほうこく)」という軍歌も作られました。歌手は伊藤久男です。作詞は野村俊夫が手がけました。歌詞の冒頭では、「湊川の戦い」での正成自害のエピソードが盛り込まれます。現在は、東京都千代田区九段にある「昭和館」でレコードを聴くことができます。

特攻隊員は「七生報国」と書いた鉢巻をしめていた

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当時、国のために命をかけることは、「名誉」なことでした。特攻隊員は「七生報国」と記されたハチマキを額に巻き、特攻の際には「七生報国!天皇陛下万歳!」と叫んだとの逸話も残されています。

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