後にオフィス北野の社長を務めることになる森昌行氏が、テレビのプロデューサーをしていた頃、”たけし軍団”と名付けました。1983年に結成した時の、その初代メンバーのほとんどが事件に関与しています。
フライデー襲撃事件の参加メンバー①そのまんま東(東国原英夫)
一番弟子だった、そのまんま東は事件当日、たけしから電話が掛かって、講談社へ行くことを告げられます。当時そのまんま東は推理小説を執筆し、江戸川乱歩賞を目指していました。
江戸川乱歩賞受賞作は、講談社から出版されるので、行きたくないと思っていたと、テレビ番組等で語っています。
事件当日、講談社へ着いた際にも、どうしても行きたくなかったので、エレベーターに乗らないようにしていましたが、最後に乗ることになり、5階にエレベーターが着いた時には先頭に立つことになっていました。
そのまんま東という芸名の由来
たけし軍団のメンバーの芸名は不思議な名前が多いのですが、すべてビートたけしが命名しています。そのまんま東の名前の由来は、ビートたけしに自分の芸名はなんでしょうかと聞くと、そのままの東でいいよと言われ、そのまんま東になったそうです。
フライデー襲撃事件の参加メンバー②ガダルカナル・タカ
以前は、つまみ枝豆とカージナルスというお笑いコンビを組んでいました。たけしは年200試合行う草野球をしていて、助っ人として草野球をしたことをきっかけに、たけしに誘われて軍団に入りました。
ガダルカナル・タカという芸名の由来
タカさんとして、親しまれていますが、タカは井口薫仁(たかひと)の本名から取っていて、ガダルカナルは、タカが戦争映画に出てくる日本兵に似ているからという理由で、ガダルカナル島から付けられました。
フライデー襲撃事件の参加メンバー③大森うたえもん
以前は、そのまんま東とツーツーレロレロというお笑いコンビを組んでいました。草野球の助っ人をしたことをきっかけに、二番弟子として軍団に入りました。
大森うたえもんという芸名の由来
ギターを弾きながら歌を歌っていたので、うたえもんと付けられました。当時は不思議な替え歌などを歌っていましたが、現在でも歌を歌っているようで、フォークソングライブなどで替え歌を歌っているようです。
フライデー襲撃事件の参加メンバー④柳憂怜(柳ユーレイ)
ビートたけしのラジオ、オールナイトニッポンの出待ちをしていて、ビートたけしに弟子は取っていないけれど、ここに来ても良いよと声を掛けられたことがきっかけで、5番目に軍団に入団しました。
柳ユーレイという芸名の由来
ビートたけしが、あいつ幽霊みたいだなと言ったことがきっかけで、ユーレイ呼ばれるようになり、芸名を決める時に、柳ユーレイでいいんじゃいのと言われ付きました。現在は柳憂怜として俳優業を行っています。
フライデー襲撃事件の参加メンバー⑤サード長嶋
堀越高校の同期の水島新太郎から草野球の助っ人を頼まれていたのをきっかけに、アイドルグループおぼっちゃまに誘われ、太田プロダクションに入りました。そのアイドルグループはビートたけしがプロデュースしていました。
サード長嶋という芸名の由来
本名が長嶋猛なので、誰もが分かるとは思いますが、ビートたけしが敬愛するミスタージャイアンツの長嶋茂雄さんから付けられました。長嶋茂雄さんは現役時代サードを守っていたからです。
フライデー襲撃事件の参加メンバー⑥グレート義太夫
アマチュアバンドのドラマーとして活動し、プロミュージシャンを目指していました。ラジオオールナイトニッポンのリスナーとなりビートたけしに弟子入り志願したのですが、ドラマーだと言うことを伝えると、ビートたけしのバックバンドのパーカッションとして加入することになりました。
グレート義太夫という芸名の由来
当時のグレート義太夫は、太っていて長髪の風貌をしていたことから、毒霧を吐く謎のプロレスラーのレスラーグレード・カブキのようだと言われ、歌舞伎を変えて、グレード義太夫と付けられました。
フライデー襲撃事件の参加メンバー⑦ダンカン(ふんころがし)
元々は立川談かんとして落語家をしていましたが軍団に入りたいと、談志師匠に相談したところ、談志はウイスキーの裏に自分の名刺を貼り、ビートたけしに持っていけと快く承諾し、自分の名刺を見れば弟子入りを断らないだろうと送り出してくれました。
ふんころがしという芸名の由来
当初は立川談かんから、カタカナ表記のダンカンとしていましたが、不潔な生活を送っているから”ふんころがし”と顔が似ているから”ネズミ男”の二択を迫られ、ふんころがしを選び付けられました。現在ではダンカンになっています。
フライデー襲撃事件の参加メンバー⑧松尾伴内
ラジオの出待ちをして、人見知りで弟子にして欲しいと声を掛けることができず、ただ、じーっと見つめる日々が続き、あいつはヤバいと言われていました。その後、緊迫した顔でビートたけしに近づき、第三弟子となります。
松尾伴内という芸名の由来
元々は、本名の松尾憲造を名乗っていましたが、もっとインパクトのある名前を付けようとビートたけしが言い、コントで色々な顔をするからという理由で、七つの顔の男の架空の探偵、多羅尾伴内から付けられました。
フライデー襲撃事件の参加メンバー⑨キドカラー大道
こちらもラジオの出待ちをしてたけし軍団の二軍に入りしました。アイドルグループおぼっちゃまとして売り出すため、ボイストレーニング等していましたが、お笑いをしたいとビートたけしに直接脱退を希望し、おぼっちゃまとしては売り出されませんでした。
キドカラー大道という芸名の由来
北海道出身のキドカラー大道は、上京前に、札幌にいた頃、電気店で働いていたため、電気店から日立製作所から販売されていたカラーテレビの商標のキドカラーとビートたけしが連想しました。
フライデー襲撃事件の参加メンバー⑩大阪百万円
たけし軍団二軍に在籍していましたが、ただテレビに出演するだけで芸の肥やしにならないと、ビートたけしの出身地、浅草フランス座への修行を希望し行くのですが、先輩のしごきに耐えられず1年ほどで戻りました。
大阪百万円という芸名の由来
高校卒業後、企業で働いていましたが、退社し、100万円を持ってビートたけしのところへ弟子入りにきました。弟子入りのため大阪から100万円を持って東京へ来たので、大阪百万円と付けられました。
フライデー襲撃事件の参加メンバー⑪水島新太郎
たけし軍団の二軍に所属していました。俳優志望でしたが、父の野球漫画家の水島新司氏が草野球仲間のビートたけしに息子の相談すると、面倒を見るよとビートたけしに言われ預けることになりました。
サード長島と一緒にアイドルグループおぼっちゃまとして活動をしましたが、シングルを数枚リリースしグループは自然消滅しました。
Contents
たけしを崇拝するつまみ枝豆がフライデー襲撃事件に参加しなかった理由
つまみ枝豆は、ガダルカナル・タカとカージナルスというお笑いコンビを組んでいたのでタカと一緒に、たけし軍団に入りました。1996年には、オフィス北野所属のアナウンサー江口ともみさんと再婚しています。
ビートたけしを尊敬していたつまみ枝豆
当時の自分はビートたけししか見えなかったと語っています。尊敬し崇拝していたので、ビートたけしのために命を捧げることもできるほどだったようです。
現在でも変わらないようで、妻の江口ともみさんと結婚する際、ビートたけし、たけし軍団の次だけれどいいかと江口ともみさんに聞いたほどビートたけしを崇拝しています。
ビートたけしの配慮によりつまみ枝豆はフライデー襲撃事件不参加に
つまみ枝豆には連絡をしないようにと、ビートたけしに言われたので、たけし軍団は誰もつまみ枝豆には連絡しませんでした。つまみ枝豆は電話の取れる自宅にいたのに、連絡がなく、翌日事件を知り、記者会見場へ向かおうとしましたが、ビートたけしから電話があり、一生面倒を見るから今は何もするなと言われたそうです。
つまみ枝豆のビートたけしへの思いを知っていて、何をしでかすか分からないと思い、配慮により誘わなかったのではないかと言われています。
他にもたけし軍団の井手らっきょとラッシャー板前も参加せず
なぜ2人は参加しなかったのか理由を見てみます。井手らっきょは、当日彼女の家に行っていたため連絡が取れず、ラッシャー板前は痔のため入院していたからでした。その後、留守番部隊としてテレビに出演することになったことを考えると、ラッキーな2人と言うべきなのでしょうか。
フライデー襲撃事件から2年後!フライデーとビートたけしは和解
ビートたけしは、事件後、フライデーのこと悪くは言いませんでした。向こうは商売をしただけ、お互い損をしただけだったと語ります。一方フライデー側は、懲りもせず、ビートたけしを悪く書きますが、世間の写真週刊誌への不信感が増えたことにより、だんだん部数も減っていきます。
1988年にはビートたけしとフライデー編集部による交流試合も?
1988年には、神宮草野球場にて草野球大会を行いました。ピッチャーだったビートたけしの第一球はデットボールだったようで、後にそのまんま東は、和解の厳しさを物語っていたと言いました。
さらに同誌にてビートたけしのカラーグラビアが掲載
1998年2月20号同誌に、ビートたけしのカラーグラビアを篠山紀信が撮影し掲載しました。写真は、12年もの時間が経ち、事件現場の編集部に来るというストーリーの写真でした。
これは完全に和解したことを物語っているのですが、売り上げが伸び悩むフライデー側と、映画監督としても成功を収めたビートたけしとを比較するとビートたけしが勝ったのではと思う人も多くいるそうです。
講談社で当時編集長であった人物が語ったフライデー襲撃事件
講談社の週刊現代の編集長の伊藤寿男氏は、活字だけで表現する週刊誌に限界を感じていました。活字だけでは、指摘された時に、信憑性に欠けることがあるので、写真を掲載することで、信憑性がある記事になると思っていたからです。
フライデー襲撃事件当時に編集局長だった伊藤寿男
伊藤寿男氏は、1981年にFOCUSがされたことをきっかけに、自分も写真週刊誌を発刊するため勉強します。それがフライデーでした。週刊誌業界は競争でしたので、FOCUSよりも長く張り込みをし、地道に努力してきました。
しかし、当時は個人情報などの規制は緩やかで、芸能や政治を取材する編集部員は40名もいて、しかもフライデーが売れていたので、おごりがありました。
たけし軍団に踏み込んで取材することで地位を確立?
プライベート写真と記事や、社会的タブーを掲載することによって、世間から反対意見を得て、週刊誌の地位を手に入れたと思っているそうです。でも行きすぎた取材だったことにより、事件前から両者の間でわだかまりがあったことも語っています。
事件後に石垣島で謹慎していたビートたけし!後の映画作品に影響も?
判決が出るまで、謹慎処分を受けていましたが、東京の週刊誌の取材から逃げるため、伊豆の温泉宿に行きました。ビートたけしが移動する車を取材の記者が乗るバイクや車で追跡されました。
フライデー襲撃事件で謹慎処分となったビートたけしは石垣島に?
謹慎中、ビートたけしは石垣島のコテージに1人で逃げます。淋しかったのですが、その間、たけし軍団を呼ぶわけにも、女性を呼ぶわけにもいかず、芸能界の友人の島田洋七を呼びました。島田洋七が来るのを楽しみにし石垣空港で朝から待っていたそうです。
石垣島で「キタノブルー」が生まれた?映画作品に影響も?
週刊誌の取材からの逃亡生活で、ゴルフすれば目立ってしまうので、海岸で貝をゴルフクラブで打って暇つぶししていました。
その後、ビートたけし監督の映画の中で、よく使われる気品のある青色のことをキタノブルーと呼び、島田洋七と一緒に行った、石垣島の川平湾のキレイな青い海の色をイメージしたものだったと言われています。
ビートたけしの映画”ソナチネ”には石垣島の逃亡生活でしていたような海岸で暇つぶしするシーンや、釣り師に扮した殺し屋の登場などは、逃亡生活中に海岸で出会った漁師がモデルではないでしょうか。
ビートたけしは謹慎中に勉強していた
石垣島での暇な逃亡生活をも、その後の映画に生かしたビートたけしは、他にも謹慎中にも行っていたことにより、その後生かされることがありました。それは小・中学生が解くドリルを勉強し直すことでした。
平成教育委員会の発案に繋がった
謹慎中に勉強したことにより、義務教育で教わったことと、一般常識の基礎のギャップに気付き、テレビ局に平成教育委員会の原案を提案します。その後、平成教育委員会という番組が始まりました。
世間やビートたけし自身にも大きな影響を残したフライデー襲撃事件
フライデー襲撃事件は、当時、テレビなどで引っ張りだこだったお笑いタレントのビートたけしの暴力事件と言うだけのことではなく、世間に、報道・言論・出版の自由を問い、知る権利と、人権やプライバシー侵害の問題を考えさせられる事件となりました。
現在では写真週刊誌も廃刊となり2誌ほどしか残っておらず、当時のような写真週刊誌業界の戦いはなくなっています。