ビートたけしが起こしたフライデー襲撃事件とは
皆さんご存じの通り、当時も引っ張りだこだったビートたけしは、世間が大騒ぎになるほどの事件を起こしました。なぜ事件を起こさなければいけなかったのでしょうか。また、なぜそんなにも騒ぎになったのでしょうか。
ビートたけし達がフライデーの発行元・講談社に乗り込んだ事件
冒頭でお伝えした通り、彼らは、本社ビルへ乗り込みました。そこは、当時とても勢いのあった写真週刊誌を発行している大手出版社の講談社でした。そこで、暴行を加えて、怪我人を出すことになりました。
なぜビートたけしは前科持ちになってしまったのか
当時ビートたけしと不倫関係にあった一般女性は、ひとりの記者による、しつこくて強引な取材により怪我をさせられます。そのことに怒って、乗り込んだ先の編集部員を殴って、怪我を負わせてしまいました。
フライデー襲撃事件発生起訴猶予処分!講談社へと乗り込んだたけし軍団
今回の不倫相手の女性への取材の前にも、フライデーはビートたけしの妻と子供の受験の写真など、プライベートを撮るような強引な取材をしていたことがあり、フライデーに対し、そうとう激怒していました。
1986年12月9日の深夜に講談社へやってきたたけし軍団
乗り込むことになったきっかけは、フライデー側の電話の対応の悪さにありました。そのことで、更に腹を立てたビートたけしは、一番弟子のそのまんま東に電話をし、たけし軍団を集めることを指示します。
タクシー3台に4人づつ乗り、深夜の午前3時過ぎに講談社に向かいました。
暴行に及ぶ予定はなかった?たけし軍団が講談社の挑発に乗ることに
ビートたけしの考えでは、相手を1発殴って、みんなで飲みにでも行こうと思っていましたが、講談社に着いたら、フライデーの編集次長が空手をしていたと言い出し、他の編集部員たちの挑発に乗り乱闘騒ぎになってしまいました。
フライデー襲撃事件発生!たけしの逮捕とその後
実は、講談社の本社ビルの横に大塚署があったので、フライデー側はその旨を連絡しました。すると、大塚署はその連絡に対応し、私服警察官を配備させます。隣が警察署だということは、ビートたけし達は知る由もありません。
講談社に乗り込んだたけし軍団は現行犯逮捕
挑発に乗った彼らは、そこにあった傘や消火器で暴行を加えてしまいます。それをきっかけに、私服警察官が彼らの前に出てきて、全員、現行犯逮捕されます。見渡すと制服警察官も駆けつけていました。
フライデー側は負傷した状態を披露?事件当時の写真の掲載も
フライデー側は、記者会見で負傷した姿を見せました。自分たちの行っている執拗な取材のことを、言論、出版の自由と言い、ビートたけしと戦う姿勢をアピールしました。
実は、事件現場にはカメラマンが不在だったことと、その現場にいた誰もカメラを持っていなかったことから、暴行現場は写真に撮ることはできなかったので、”事件の一部始終”として掲載した写真は、暴行現場ではありませんでした。
たけし軍団は釈放されるも半年間に及ぶ芸能活動の自粛
捕まった彼らは、逃亡の恐れがないということで、釈放されます。その後、テレビ番組等に出演するのですが、世間の批判を受け始めます。そこで所属事務所の太田プロダクションは、対応せざるを得なくなりました。
フライデー襲撃事件の判決とは
珍しいことに、起訴まで1カ月半もの時間が掛かり、その後判決が出ました。判決は下記の通りです。
- たけし軍団 起訴猶予処分
- ビートたけし 懲役6ヵ月執行猶予2年
- 女性に怪我を負わせた記者 罰金10万円
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芸人メッセンジャー黒田の暴力事件について興味がある方はこちらもご覧ください。
伝説のビートたけしの記者会見
1980年代は、今のようにインターネットもなく、世間に何かを伝える時、テレビ番組での記者会見がほとんどでした。ですから、ビートたけしは、伝説に残るほどの男気溢れた記者会見を行い、テレビで放送されました。
事件後の記者会見
事件後、世間が騒ぎ始めたことを受け、記者会見を行いました。その時間は10分程度でした。テロップには釈明会見と書かれていましたが、事件を前面的に受け止めて、言い訳もせず、ただ、起こったことを述べたものでした。世間では、大切な人を守り通したビートたけしはかっこいいと好印象でした。
判決後の記者会見
懲役6ヵ月執行猶予2年の判決が下された直後に記者会見を行いました。記者の中には判決を言い渡された裁判も取材していた記者がいた程、ビートたけしの裁判は注目を浴びていたことが分かります。
おごることなくと裁判官が最後に言ったことを受けどのように思うか記者に聞かれ、おごっていたとビートたけしは自分のことを言いました。
テレビ番組では
ビートたけしは、事件後1週間は、テレビに出演していましたが、騒動を起こしたのにテレビに出るのかという世間から批判の声を受け、自粛します。そして判決を受けます。その間、謹慎することになりました。
天才・たけしの元気が出るテレビ
1985年からビートたけしが社長の役割で放送していた、”天才・たけしの元気が出るテレビ”は、“元気が出るテレビ”に番組名を変更し、社長は出張に行っているという設定にし、ビートたけしと同じ事務所の山田邦子を司会に放送しました。
スーパーJOCKEY
スーパーJOCKEYもビートたけしの代わりに山田邦子を司会にし、所ジョージも回によっては総合司会を代行していました。たけし軍団11人の代わりに、大川興業やダチョウ倶楽部を起用しました。
痛快なりゆき番組 風雲!たけし城
1986年5月に開始した”痛快なりゆき番組 風雲!たけし城”は、スタジオに作られた難関という名のゲームをクリアする番組でした。ビートたけしの代わりには、人形を登場させ、たけしの顔のハリボテを被った影武者がビートたけしの代わりに番組を放送しました。
実はその影武者は、ラッシャー板前がやっていました。ジェスチャーのみで声を出さず、家老役の石倉三郎が通訳をしていました。ラッシャー板前はたけし軍団ですが、事件に参加していなかったので、代役をすることができました。
オレたちひょうきん族
ビートたけしが扮する人気キャラクターのタケちゃんマン7には、ラッシャー板前が代わりを務めて放送しました。その後、タケちゃんマン7は登場しなくなり、ビートたけし復帰後、タケちゃんマン7は腰痛で休んでいたことにしました。
フライデー襲撃事件で活動自粛したビートたけし!FNS夢列島で復帰
FNS夢列島(FNSスーパースペシャルテレビ夢列島)は、1年に1回夏に放送されていた長時間番組で、ビートたけしが7か月間活動を自粛したのち復帰を果たしました。この時、FNS夢列島は第1回目の放送でした。
1987年に『FNS夢列島』のトークコーナーで復帰したビートたけし
深夜のトークコーナーで、明石家さんまとタモリが、ソファに座ってトークしている中、ビートたけしが遅れて登場しました。3人でソファーに座って、飲み物を飲みながら、タバコを吸いながら、約1時間ほど色々な話をしました。
緊張感溢れる現場の中でビートたけしはフライデー襲撃事件をネタに
フリートークの生番組だったので、明石家さんまやタモリはもちろん、スタジオには関係スタッフ、報道陣も大勢が緊張感溢れて、張り詰めた雰囲気でしたが、ビートたけしはフライデー襲撃事件の話をします。
自分は酔っていて、蹴飛ばして転び頭を打って気絶していたんだと、トボけて笑いを誘います。
謹慎中の面白ネタ
復帰のトークコーナーでは、他にも謹慎中の面白ネタを沢山話しています。以前と違い、しゃべったことに批判を受けることなどを気にして少し疲れると語っていますが、1時間のほとんどはビートたけしが話しています。
ゴルフ三昧
謹慎中の7か月はゴルフ三昧で、休んだのは10日ほどだと語りました。その時に、キャディーさんに一緒に写真を撮ってくれと言われ撮った写真が翌日週刊誌に乗っていたが、あのキャディーさんは誰だったんだと笑わせています。
沖縄
謹慎中は沖縄にも長くいました。地元の交番には、ビートたけしを見たと20件ほど連絡が入って、自分は逃亡者と勘違いされたことを語りました。また、あるお店の店主の女性は耳元で、裏から船が出るから逃げなさいと言ったそうです。
かつ丼
警察署での取り調べで、何か食べたいものはあるかと聞かれ、たけし軍団が、”かつ丼だ!”と、ドラマのシーンで出てくる定番を言い出し、かつ丼を頼むと出してくれたのですが、あとで、代金を請求されたと語りました。
裁判
裁判で、検察の人より、自分の弁護士の方が、自分に厳しかったことを話します。また、ビートたけしの当時の事務所の社長が証人として出廷したのですが、緊張して上手に話してくれなかったことを、「あんな席に呼ばれたことないから」と語り笑いを誘いました。
オフィス北野設立
所属していた太田プロダクションを辞めて、事件後に兼ねてから友人だったプロデューサーの森昌行が社長を勤め、オフィス北野を設立します。当時の所属タレントは、ビートたけしとたけし軍団と寺島進などがいました。
フライデー襲撃事件の事の発端はフライデーによる過剰取材?
事件の発端は、嫌がらせとも取れるほどの過剰な取材によるものでした。しかも、その記者は以前よりビートたけしに寄り付き、悪いことは書かないからといって取材していた顔見知りだったのです。
ビートたけしが当時交際していた女性に対する過剰取材
ビートたけしには、妻も子供もいましたが、当時、交際していた21歳の学生の女性がいました。そこで、その記者は、その女性の学校の前で強引にその女性にビートたけしとの不倫関係の取材をしました。
フライデーの記者により女性は全治2週間の怪我を負うことに
しかし、女性が取材を拒否し、歩いて立ち去ろうとすると、記者は執拗に追いかけ、持っていたテープレコーダーが女性のおでこに当たり、全治2週間の怪我を負うことになりました。おでこからは血が出ていたそうです。
ビートたけしが激怒!講談社へ電話し抗議
自分のことで他人が取材を受けて怪我をさせられたと知れば、誰もが激怒すると思います。ビートたけしも激怒し、抗議の電話を掛けます。ビートたけしは電話嫌いだったそうですが、嫌いな電話をするほど怒っていたことが分かります。
フライデー襲撃事件が起こった背景やその後の影響について
事件が起こる前の1981年に、写真週刊誌FOCUSが創刊され、次々と5つもの写真週刊誌が発行されていきました。その中にフライデーも発行されています。当時は写真週刊誌の全盛期でした。
フライデー襲撃事件の起こった1980年代!過剰取材が話題に
5つの写真週刊誌は、売り上げを伸ばそうと競争を始め、芸能人のプライベートな写真まで掲載します。その中には盗撮まがいなものまであり、芸能事務所が出版元に訴えることもありました。
1985年には日航機墜落事故があり、取材記者が、遺族になりすまし、遺体安置所へ乗り込むことがあったり、1986年4月に飛び降り自殺したアイドルの岡田有希子さんの自殺の痛ましい写真までも撮っていました。
フライデー襲撃事件当時はビートたけしに同情の声も
世間の人達は数々の過剰取材のことを知っていたので、今回の事件を起こした理由が過剰取材によるものと知り、ビートたけしだけが悪いわけではない、フライデーも悪いと同情する声も聞こえました。
当時の官房長官もこの事件のことに触れ、「気持ちも分かる」と、ビートたけし寄りなことを言いました。
行き過ぎた取材はなくなった?フライデー襲撃事件の影響とは
これをきっかけに、写真週刊誌業界に、世間一般からの批判の声も多くなり、行き過ぎた取材を行う出版社と芸能事務所が対立し、その出版社が絡んだドラマや映画などに芸能事務所が自分の抱える芸能人を出演させないということもありました。
写真週刊誌が出版社に及ぼす影響が悪いものになっていることを出版社が認識し始め、写真週刊誌の発行部数の減少、そして廃刊となっていきます。