香田証生とは?イラク日本人青年殺害事件の被害者
イラク戦争が終戦を迎えた当時の日本の内閣総理大臣の小泉首相は自衛隊をイラクへ派遣し復興支援を行っていました。そんな中、日本人の男性がイラクへ入国し、アルカイダ系組織の人質になり殺害されました。
香田証生とは
福岡県直方市出身の彼は当時24歳でした。高校を2年生の時に中退し、通信制の高校に転入し卒業します。その後、職業訓練を受けて塗装工で働いていました。
香田家は熱心なキリスト教信者でした。英語の勉強もしながら働いていたのですが、やりたいことがあると言って仕事を辞めて、ワーキングホリデーでニュージーランドへ向かいます。2004年9月にワーキングホリデーが終わります。
香田証生イラクで拉致処刑される
香田証生さんがアルカイダ系組織の人質になったこと、日本の自衛隊撤退しなければ人質の首をきると声明をインターネットにより発表します。そして彼は処刑されてしまいます。その時、彼に何があったのでしょうか。
香田証生がイラクへ入国した経緯
どうしてわざわざ危険な場所へ行かなければいけなかったのでしょうか。なぜ戦争をしているイラクへ行ってしまったのか。ニュージーランドでのワーキングホリデー終了後からイラクへ向かうまでの足取りを追ってみます。
香田証生はワーキングホリデー終了後にイスラエルへ
治安が良いニュージーランドのワーキングホリデーが終わっても日本には帰らず、その足でイスラエルへ入国します。そこでイラク戦争で傷を負った子供達の写真を目にし、戦争を体で体験しないと平和は語れないと思いました。
ヨルダンからイラクへ入国
イスラエルから隣のヨルダンに移ります。そしてヨルダンのアンマンにあるクリフホテルに宿泊し、そこで映画監督の四ノ宮浩氏に会いイラク行きは危険だと忠告を受けますが、ホテルの従業員のサメールさんにイラク行きのバスのチケットを予約してもらいイラクへ入国します。
アルカイダ系組織が拉致声明文を発表
サメールさんやフランス人旅行者のお陰でイラクに入国することができた香田証生さんは拉致されて人質となります。アルカイダ系組織は覆面をし拉致声明文をインターネットにより発表します。そして香田証生さんもカメラに向かい言葉を発します。
アルカイダ系組織の声明文
覆面をした組織メンバーが声明文を読み上げました。まず彼が組織の人質になったということを伝えます。
組織メンバーは、彼のことを”日本の軍隊に付き従う部隊”と言います。彼の旅券を見てイスラエルからヨルダンに渡ったということで組織メンバーは彼をスパイだと勘違いしたのではないかとも言われています。
そして48時間以内に日本の自衛隊がイラクから撤退しなければ、以前に組織が首を切ったアメリカ人とイギリス人の名前を出し、この人質も同様になると言います。
香田証生さんの言葉
彼は覆面したメンバーの前に両膝を付き座らされ、日本の小泉首相に向けて言葉を発します。アルカイダ系組織はなぜ自衛隊を派遣したのか聞いていると話します。そして自衛隊の撤退を求めていること、撤退しないと自分の首をはねると言っていることを伝えます。
そして最後に「すいませんでした」と謝ります。そして日本に戻りたいと、自分の気持ちを言葉にし発しました。
香田証生拉致後の日本政府の交渉とその結末
2004年10月27日午前2時に犯行グループは人質を取って自衛隊撤退の声明文を発表しました。その4時間後の午前6時頃にカタールの衛星テレビのアルジャジーラで、その映像が放送され、人質事件を知った日本では首相官邸に連絡室を設置します。
48時間以内の自衛隊撤退
午前2時の組織による声明文発表では、48時間以内にイラクから自衛隊が撤退しなければ人質の首を切ると言っていましたので、彼の命のタイムリミットは10月27日午前2時から48時間後の10月29日午前2時までだったのです。
小泉元首相自衛隊撤退を拒否
しかし時を待たず、組織が声明文を発表した5時間後の午前7時過ぎに小泉元首相は自衛隊は撤退しないと当時の官房長官に指示を出します。この指示を出したことは早すぎたのではないかとも言われていました。
小泉元首相はイラク政府や日本のイラクでの活動を理解した各国にも水面下で救出をお願いして手を尽くしました。組織は身代金で解決しようと日本が言ったように次に出した声明文で言いますが、そのようなことはしていなかったようです。
香田証生家族の記者会見
約束の期限の48時間後の29日午前2時になりましたが特に犯行グループからのアクションはありません。その8時間後の午前10時に彼の母と兄がテレビの記者会見を行い、息子を無事に帰して欲しいと訴えます。
その際、記者から自衛隊撤退を希望するか、自衛隊派遣に反対かと聞かれた彼の母親は、一民間人として国に何をしろとは言えませんと答え、自衛隊を撤退して欲しいとは言いませんでした。
香田証生斬首/動画公開へ
その記者会見の後にイラク北部で2回遺体が発見されますが、2回とも香田証生さんではありませんでした。しかし、31日未明にバグダードで遺体が発見され指紋認証し香田証生さんと確認されます。
その2日後にアルカイダ系組織グループは彼の首を切る動画をインターネットに公開します。それは誰でも閲覧できる状態でインターネットに流れました。
犯人ザルカウィ容疑者死亡
他の殺人事件で逮捕されていたテロリストが彼の殺害を自供します。そのテロリストの供述によると全員で6人のテロリストが係わっていたと分かり4人を逮捕します。
このテロリストたちはアルカイダ系組織の有力者ザルカウィ率いるグループのメンバーでした。後にザルカウィはアメリカに戦闘機で爆撃されて死亡しました。
香田証生が処刑された首切り動画の内容
その衝撃的な動画は、罪人を処刑する斬首刑と言われています。しかし斬首刑は、今もなお、サウジアラビアでは法制度として行っています。イスラム法に基づき公開処刑があるのです。ここからテキストでその内容をご紹介しますが非常にショッキングな内容です。テキストの閲覧はもちろんのこと、もしどこかで目にすることがあったときには十分閲覧に注意しましょう。
テロリストによる声明朗読
動画は3分弱の短いものでした。まず、BGMが鳴りバックは黒色で白色のアラビア文字が浮かび上がります。次にアラビア風音楽が鳴り、アラビア半島を見せた地球儀とアルカイダのマークが映ります。後ろの壁にはアルカイダの黒い旗が掛けられていて、床にアメリカの星条旗が敷かれていてその上に彼は座らさせられています。
3人の覆面テロリストが現れて白い紙に書かれた声明文を読み上げます。声明の内容は、自衛隊を撤退しろと、さらに要求し、時間が過ぎたので人質の首を切ると言います。そして今まで首を切ってきたアメリカ人の名前を挙げ、この人質もその仲間に入ると言いました。
香田証生の斬首
その後、覆面テロリストがナイフで彼の首をギコギコとノコギリで木でも切るように切ります。その光景はイスラムの犠牲祭イードで羊の首を切るのに似ています。大量の血が噴き出し嫌な音が聞こえます。
そして次に画面は切り替わり、最初に敷いてあった星条旗の上に香田証生さんが移動していて彼の首を切り続けて切断し、血だらけのその身体の上に首を置きます。
香田証生の生首がアップに
テロリストはその首をアルカイダの黒い旗の前で掲げます。掲げたその首を血だらけの身体の上に戻し、生首の顔がアップになって、アルカイダの旗が映り映像は終了します。
その他、アルカイダによって斬首処刑になってしまった民間人の記事に興味がある方はこちらもご覧ください。
香田証生の首切り動画は閲覧できる?
犯行グループがインターネットに流した動画をカタールの衛星テレビのアルジャジーラが放送します。その放送された動画を多くの人がインターネットにアップロードし誰でも見られるようになってしまいました。
香田証生首切り動画はほとんど削除
その動画は、日本の法務省の人権保護局がその動画をアップしているサイトへ削除要請を行ったためほとんど削除されましたが、一部、ダウンロードすると見られる動画ファイルとして出回っています。
海外のサイトでは普通に見られる
海外のサイトではその動画を見ることができるので、多くの人が見て衝撃を受け、ネットでは色々な感想を述べています。日本の中学生がその動画のものまねをした動画もアップロードされています。
首切り動画に使われた音源
グロい映像が見られない人はあまりの生々しさに動画を見ることはできないという人が多くいるので音だけ録音したものがアップロードされています。動画を見るのが怖い人は首切り動画に使われていた音だけを聴き恐ろしさを想像することもできるようです。
その他、残虐な殺人(処刑)シーンの公開動画について興味のある方はこちらの記事もご覧ください。
香田証生の人物像
では、アルカイダ系組織の人質になり要求に応じなかったため約束の時間になってしまい公開処刑された動画をインターネットにアップロードされて世界中の人に、その死に方を見られた彼とはどのような人物だったのか見てみましょう。
香田証生の生い立ち
福岡県直方市に産まれた香田証生さんを小中学生時代の友人は真面目だったと言います。福岡県宗像市にある東海大学付属第五高校(現・東海大学付属福岡高校)に入学しました。そこでは成績優秀で積極的に行事にも参加する生徒でした。しかし2年生が終わった頃、自分の力を試したいと、定時制の高校へ転入します。
その定時制高校を卒業し福岡県東区にある福岡建設専門学校で2年間、土木と建築の実践的技術を学び、自宅のある直方市の塗装会社で働きました。小中校生の頃と同様で勤務態度は真面目だったと同僚が語っています。
香田証生の性格
青年海外協力隊にも興味があり、優しくて誰かの役に立ちたいという正義感の持ち主でした。また、一度決めたらそれを貫き通す真の強さも持っていました。好奇心旺盛で何でも見てやろう、そしてその見たことを周りの人に披露するのが好きでした。
香田証生の家族
キリスト教信者の父と母と兄がいて、遺体発見前の記者会見では母と兄が対応しますが、遺体発見後に母は人と話せる状態ではないとして兄と叔母が対応しました。
彼の家族はキリスト教信者で葬儀はキリスト教式で営まれました。自宅の父の元には牧師が訪れ新約聖書の言葉を語りました。