リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件とは
未だに記憶に残っている方も多く居るであろう「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」。10年以上の歳月が過ぎた今、メディアなどで取り沙汰される機会も減り事件は風化の一途を辿るのみです。
本稿では被害者であるリンゼイ・アン・ホーカーさんと市橋達也の事件前日の様子から当日までに起こった出来事を洗い出し、事件の背景である市橋達也の人となりも踏まえ、忘れてはならない歴史の記録として書き留めていきます。
平成史に残る凶悪事件
事件が発覚したのは2007年3月26日、千葉県市川市のマンションにおいて女性の遺体が見つかりました。この時に発見された遺体が後に「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」と呼ばれる事件の被害者、リンゼイさんの遺体であり、遺体が見つかったマンションは犯人 市橋達也の自宅でした。
前代未聞の逃走劇
この事件の最大の特徴は、犯人が初めから市橋達也だと分かっていたにも関わらず、犯人逮捕までに約2年7ヵ月もの歳月が経過したという点です。
警察の手を掻い潜った市橋達也は事件現場である千葉県から東京秋葉原へ、その後は埼玉、群馬、茨城の関東地方を放浪します。後に静岡県を訪れ、そこからは北上するように進み青森県で一週間ほど野宿生活を送っています。青森を逃走の拠点に考えていたものの、適当な職が見つからず、大阪へ拠点を移動。
しかし大阪でも職に付けず、岡山を経由し四国の三県を徒歩で放浪します。四国を放浪中、自身の指名手配書をいくつも目撃し、このままでは逃げ切れないと考えた末に沖縄の無人島を最終的なアジトとし2年以上に及ぶ逃亡生活を送りました。
リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件の概要
残忍な事件が起こった背景は、市橋達也からリンゼイさんへの他愛もない接触から起こったものでした。
事件当時報道が錯綜する中、市橋達也とリンゼイさんの関係性について様々な報道がなされました。
ストーカー説、恋人説、赤の他人説、などなど。未だに100%の真実は明かされていませんが、現在揃っている情報を基に事件の概要をまとめます。
駅で市橋達也に声をかけられる
事件が発覚する約1週間ほど前の3月21日、船橋市のJR西船橋駅で市橋達也はリンゼイさんに声をかけました。リンゼイさんはイギリスの大学を卒業後、英会話教師となるために2006年に来日。英会話学校「NOVA」で講師として勤務していました。
市橋がリンゼイさんに目を付けたのは東京メトロ東西線の行徳駅から西船橋駅に向かう電車の中でした。過去に外国人女性と付き合っていた事もある市橋にとって好みの対象であったのかもしれません。
リンゼイさんをナンパした時刻は終電間近の深夜帯で、市橋は帰宅を急ぎ自転車を漕ぐリンゼイさんの後を自宅まで走って追いかけました。
英語の個人レッスンを行うことに
そのままリンゼイさんの自宅にたどり着くと市橋達也は「のどが渇いたので水を飲ませて欲しい」と彼女に頼みます。不審に思った彼女でしたが、自宅にはルームメイトの女性達が在宅中であった為、あまり警戒する事なく市橋を自宅へ上がらせました。
のどを潤した後もなかなか帰ろうとしない市橋にリンゼイさんは困り果てていましたが、市橋は場を和ませる為に即興で似顔絵を描き彼女にプレゼントし、英語の個人レッスンをして欲しいと頼み込みます。
その際に描いた似顔絵に市橋は自分の名前と連絡先を記入、更にリンゼイさんの連絡先を聞き出し、深夜1時頃に市橋はリンゼイさんの自宅を後にしました。
首を締めて殺害される
連絡先を交換してから数日後の3月25日、市橋達也は早速リンゼイさんとの個人レッスンの約束を取り付け、行徳駅前の喫茶店で1時間ほどのレッスンを受けます。市橋はレッスン代金を自宅に忘れたと彼女に説明し、2人でタクシーに乗り込み市橋の自宅へ向かいました。
代金を支払う名目で彼女を自宅へ招き入れた市橋は、玄関の扉を閉めるなり彼女の背後から抱き着きました。彼女は必死に抵抗しましたが、力及ばずそのまま押し倒され姦淫されます。
行為後、リンゼイさんを拘束し監禁を試みた市橋でしたが彼女の抵抗に遭い、揉み合う中でうつ伏せに倒れる彼女を背後から圧迫し、窒息死させました。
リンゼイ・アン・ホーカーさん同僚からの通報で事件発覚
犯行から一夜明けた翌26日、リンゼイさんを心配した同僚(同居人)から警察へ通報が入り、駆け付けた警官がリンゼイさんの自宅を調べます。自宅内にあった市橋達也が描いた似顔絵と、そこに記入されている市橋の氏名・連絡先から市橋の存在が浮上し、緊急の家宅捜索が市橋のマンションで行われました。
【リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件】市橋達也の逃亡生活の始まり
2年7ヵ月にも及ぶ市橋達也の逃亡生活は様々な要因が重なった警察の失態、脅威の行動力を持つ市橋のサバイバル能力が大きく関わってきます。ここでは逃亡生活中の市橋の足取りを時系列順にご紹介します。
捜査員の手をくぐり抜け逃亡劇が始まる
リンゼイさん殺害後の翌26日、市橋達也は夕方に一度外出して近所のホームセンターで園芸用の土や脱臭剤を購入。再び自宅へ戻ると浴室から取り外した浴槽の中にリンゼイさんの遺体を入れてベランダに運び土や脱臭剤を入れて遺体を覆い隠しました。
遺棄後、日課であるスポーツジムへ出掛けようとしたところ通報により駆け付けた警察官が市橋のマンションに到着し、「リンゼイ・アン・ホーカーさんを知っているか?」と尋ねました。
玄関前でやり過ごそうとした市橋でしたが警察は室内の捜索を強行、その際のどさくさに紛れて共用廊下から非常階段へ走り抜け逃走。非常階段下には複数の捜査官が待ち構えていたにも関わらず市橋を取り逃がしてしまいました。
全国を放浪しながら逃亡
逃亡初日、ゴミ箱から入手した上着とサンダルに着替えて住宅街に潜伏していましたが、捜索中の警官に発見され羽交い締めにされるものの、ここでもまた逃走に成功します。その後公衆電話から当時交際していた彼女に連絡し、彼女の所有する車で一緒に逃走しようと誘うつもりでしたが彼女と連絡がつく事はなく断念します。
次に放置自転車を使い秋葉原へと移動。その際に立ち寄った大学病院のトイレ内で人相を変える為に自らの整形手術を行います。両側から鼻翼を縫い縮めシャープな鼻へとセルフ整形、更に特徴的な頬に縦に並んだ2つのホクロを除去した後は関東地方を数県経由し静岡県へ、そこからは北上し一週間ほどを青森で過ごしました。
大阪で働き、沖縄の島で身を潜める
逃走時の所持金は5万円以下であったという事から、逃走期間中の費用の捻出方法を考えていた市橋。そこで青森から大阪市西成区にある職業安定所へ赴くもここでは職につかず四国へ移動します。四国滞在中は高松市から徳島、高知、愛媛へとお遍路を歩いており、後に市橋はリンゼイさんへの贖罪の意味でこのような行動をとったと語っています。
お遍路の道中、無人島での生活を思い付いた市橋は松山港からフェリーに乗船し、鹿児島を経て沖縄へ到着します。沖縄の離島オーハ島に目を付けた市橋は打ち捨てられた小屋を逃亡生活の拠点とし、沖縄本島での現場仕事と大阪での住み込み労働を繰り返しながら生計を立てていました。
【リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件】市橋達也の逮捕
事件発生から約2年、市橋達也についての情報が全く得られないまま、ただ時間ばかりが過ぎていきました。しかし、ある出来事をきっかけにして事態は急展開を迎えます。
市橋逮捕の手助けとなったのは、それまで市橋が逃げ続けてきたルートに点在する人々からの通報が重要なキーポイントとなったのです。
大阪で働いていた職場の雇用主が通報
逃亡生活の資金源として市橋は2008年2月から10月まで大阪府茨木市の建設会社に住み込み作業員として勤務していました。
10月下旬には社宅を無断で退去しており、それ以来その建設会社へ市橋が訪れる事はなかったようですが、市橋の整形後の写真が世間に広く知れ渡った2009年11月、以前市橋と共に働いていた職員がその公開写真を見て市橋が逃亡犯である事に気が付き警察へ通報しました。
市橋がこの建設会社へ入った経緯は大阪市西成区のあいりん地区での呼び込みに応じたものであったので当然偽名を名乗っており、当初雇用主は市橋の正体には気が付きませんでした。
名古屋の美容形成外科院が通報
2009年10月下旬、市橋達也は逃亡生活の最中建設会社で働いて貯めた約100万円を元手に、名古屋の美容形成外科を訪れ、偽名を使って眉間の形成手術を受けています。その際に整形前の写真を撮影しており、翌11月5日形成外科の職員が患者のカルテの整理を行っていたところ市橋のカルテに違和感を覚えます。
そのカルテには男性には珍しいホクロを除去した痕跡がありました。報道されていた市橋と似通っていると感じた職員は警察へ通報、のちの調べで市橋と骨格が一致したことから、同院提供の写真を一般に公開しました。
フェリー乗り場でついに逮捕へ
整形後の写真が公になり、更には建設会社からの通報も重なって沈静化していた市橋に関する報道も再び熱を帯びます。その加熱する報道を滞在中の福岡のホテルで見ていた市橋はオーハ島へ戻ることを検討しますが、警察の警備を恐れて神戸発のフェリーから沖縄へ戻るルートを選択しました。
逮捕当日の11月10日、この日は神戸発・沖縄行きの航は欠航でした。
別航路の便を尋ねた市橋に、同日に乗船可能な大阪南港発・沖縄行き便を職員が案内。市橋は大阪港へ向かいます。その際の市橋の動向を怪しく見た職員は警察に通報、更に大阪南港の職員へと連絡。市橋が大阪南港へ辿り着く前に先回りしていた警官の手により身柄を確保、2年7ヵ月に及ぶ逃亡生活に幕を降ろしました。
【リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件】市橋達也の生い立ちと人物像
奇怪な言動と残忍な犯行。逃亡の為に自らの手で顔の整形を行い、無人島でのサバイバル生活を行うなど理解しがたい行動が目立つ市橋達也。彼がここまでの事件を起こした背景をより深く考察するために、彼の家庭環境や人となり、またその生い立ちについてをご紹介します。
家族構成
市橋達也の家族構成は父親、母親、姉、達也の4人家族。両親の家系は共に代々医療関係に従事してきた言わばエリート一家でした。経済的にも比較的裕福な、郊外の一軒家に住むどこにでもある家族環境で育った市橋達也の狂気の片鱗は、この幸せそうな家庭からは感じ取る事は出来ません。
両親は医師と歯科医師
市橋の父親は愛知県内の病院で外科医、母親の実家は代々歯科医師であり母親もまた歯医者でした。市橋本人も両親と同じ道を進むべく医学部を志していましたが、努力が振るわず4浪したのち千葉大学園芸学部緑地環境学科へ入学しました。
生い立ち
岐阜県羽島市の住宅街に立つ一軒家に家族4人で暮らし、両親共に医療従事者という事から中流階級以上の裕福な暮らしを送っていた市橋家。俗に言うお坊ちゃまとして育てられた市橋達也は幼い頃からセンシティブな性格であったと母親は証言しています。
また、絵を描く趣味があったというエピソードも残されており、リンゼイさん宅を初めて訪れた際に即興で似顔絵をプレゼントしたという経緯から大人になってからも変わらずに趣味の絵を続けていたのだろうという事が伺えます。
大学進学とその後
千葉大学で主に学んだのは庭園学、公園デザイン学、造園空間の設計でした。卒業後の進路は大学と同じ分野の海外の大学院への留学を考えていました。
事件当時の市橋は28歳、職にはついておらず月15万の仕送りを両親から受け取っており、住んでいたマンションは両親が所有する建物で家賃などは支払う必要がありませんでした。
留学準備期間として独学で英語を学びながら大学卒業後の時間を過ごしていた市橋でしたが、幾度も英語の試験に落ち続ける市橋に父親が落胆し、事件の数日前には仕送りの打切りを宣告されていました。