阿部定事件とは
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かなりショッキングな事件で今なお語り継がれています。時は昭和11年5月18日に東京荒川区屋久の待合(待合旅館、ホテル、連れ込み)で殺人事件が起こりました。連泊していた客の男の方が、布団に仰向けで死んでいました。
遺体の一部が刃物で切り取られ、腕には切られて出来た傷で、血が滴っていました。すぐに女の方は阿部定と特定され、警察が捜していましたが2日後には品川の旅館にいたところを逮捕されました。性交中に愛人を絞殺し、局部を切り取った挙句持ち歩いていました。
1936年に起きた猟奇殺人事件
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世間からしたら、これほど面白い事件はありません。号外が出てさらに騒ぎに拍車をかけます。1936年、猟奇的殺人事件のはじまりです。阿部定は面長、いわゆるうりざね顔の美人です。身長も高くまたこれまで辿ってきた人生で刹那的なものを見に纏っていました。
阿部定事件の概要
阿部定事件はまだ事件を薄々しか知らない皆さんも興味は惹かれますよね。これほど奇怪な事件はどうして起こってしまったのでしょうか。阿部定とはどんな女性なのでしょう。猟奇的殺人事件を起こしながら、映画や小説に取り上げられた阿部定の人物を追ってみます。
阿部定と石田吉蔵の馴れ初め
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阿部定は田中加代という名前で、鰻屋の老舗店の吉田屋で働きはじめました。これには紹介してくれた人がありました。当時交際していた中京商業学校の校長、大宮五郎です。この人はとても真面目な人で、定にも真っ当な職につくように説得して、そのうちには店でも持たせてやりたいと思っていました。
定もそれを悟り期待していました。そして、淫売でも、妾でもない真っ当な職についたのです。大宮五郎は定が今まで交際してきた男とはまったく違うタイプでした。定は大宮とは分かれがたく、続いていました。ゆくゆくは一緒になるのかとうすうす思っていました。
阿部定と石田吉蔵の駆け落ち
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鰻屋の主人が石田吉蔵です。つまり、吉蔵は働いている従業員に手を出してしまったのです。しかもこの相手は芸者や娼婦をしながら、各地を渡り歩いていた阿部定です。今でいうエキセントリックな性格、感情の起伏が激しいので、一箇所ではうまく働けないタイプの女でした。吉蔵はまもなく新入りの定に目を付けます。
定は吉蔵には初めはまるで興味が湧きませんでした。吉蔵の方は女に馴れている様子でちょっかいを仕掛けてきます。定は、そのちょっかいが嬉しいと言っています。その反面定大宮にも心が向いていました。大宮と世帯を持つしたくを少しずつ整えていたと言います。
待合旅館満佐喜に滞在し性行為に明け暮れる
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石田は店でちょっかいを出すうち次第に定に惹かれていきます。そして夜這いをかけ、定と結ばれます。それが家人や、吉蔵の妻にバレてしまい、店にはいられなくなりました。吉蔵には子供もいますから、2人は外で逢うようになりました。それもバレて追い詰められてゆくうちに、待合を転々として、とうとう駆け落ちしてしまいます。
家を出てからは、石田と定は一日中身体を重ねます。一日に5回も6回もという日もありました。定はいつもそうかと問われれば、この石田との間だけです。色情狂というのではないと答えています。
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定は自分が男なしではいられないと、医師に相談したことがあります。医師からは、特別な事じゃないから、難しい本を読むなりして、気を紛らわせる事だと指導を受けました。過去に定と暮らした男は一晩に2回も3回も求めるので、体がもたないと逃げてしまいました。
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阿部定事件発生
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1936年5月の18日、11時頃に石田の遺体が満佐喜の部屋で、中居により発見されました。5月20日には号外が配られ、日本全国に知れ渡ることとなりました。吉蔵の遺体は絞殺の上、陰茎と睾丸が切りとられていました。大腿部には石田の血で「定吉二人」と書かれていました。またシーツには「定吉二人キリ」と血文字がありました。