阿部定事件は狂愛に満ちた猟奇殺人!愛人を扼殺し陰茎切断した彼女の動機と心理

またマゾで首を絞められると快感が増すと定に首を絞めさせます。それにはなんらかのコンプレクスや異常な体験があるはずですが、石田に関する資料は不足しています。首の絞め方が足りないともっと絞めるように要求しました。痛いから途中で止めるなとも言いました。

石田の精神状態や石田の精神構成に触れるほどの資料はありません。女好きな男だったのでしょう。おそらく定は純粋に好きになってゆきますが吉蔵は隙あらば定に手を出して仕掛けて行きます。定は情事の最中に陰部にナイフを突きつけ真顔で「他の女とふざけないこと」!と脅します。

阿部定事件の判決

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定はまったく悪びれる様子もなく、丁寧に状況を話したようです。定に嘘はなく、司法に係わった者も警察も、少なからず定に好感を抱いたようです。事件自体は血なまぐさい凶悪な事件でありながら、凶悪さが伝わりません。定の達観した様子に誰もふたりの情事には口を挟まないのです。

行われた精神鑑定の結果は

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精神鑑定はサディズムであり、フェチズムでした。また自己愛が強いと判断されています。自分を物語の主人公にみたて、客観的な視点で劇場型事件を楽しむ。同時に自分の中に生まれたなんらかの崩壊や狂気を信じられない思いでみている現実の自分もいたと定は後に明かしています。

懲役6年の判決

殺人事件としては軽い判決です。定は控訴しませんでした。失神プレーを望むのは石田の方でした。定は石田が喜ぶので真面目に腰紐で石田の首を絞めます。定が石田に絞めてほしいと言っても石田は可哀想でできないと言いました。石田の首を絞めすぎて鬱血してしまったときに、定は少しでも痛みを和らげようと薬を買いに走りました。

この時には鎮痛剤を購入しています。定は車で栃木刑務所に護送されました。通常は電車で護送されますが、有名になってしまったので、一目をさけて、車での護送になりました。定は、刑務所では模範囚で人の2倍も仕事をこなしましたが、石田の一周忌が訪れるころには、不安定になり奇行を繰り返しています。

これだけ世間を騒がせた猟奇的な殺人事件にもかかわらず、この判決は温情判決です。定の同情すべき点をもれなく裁判所がすくい上げたと言うことでしょうか。吉蔵の奥さんも、失神プレーなる吉蔵の性癖を知っていたのでしょうか。気になるところですがその後の情報がありません。

服役中にはたくさんの結婚の申し込みやスカウトがありました

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服役中には定の元に400通を超える結婚申し込みや、芸能関係からのスカウトも多くありました。定は一躍時の人となりました。定は極悪非道の犯罪人ではなく、愛を追求する女や、情が深いが故の犯行だったとか、猟奇的な殺人でしたが極悪非道とは思えませんでした。

阿部定とはどのような人物なのか

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阿部定は当時の日本女性の規格からは外れていました。勝気で鼻っぱしらが強い、ときとして傲慢でした。男女のことは、10歳頃には理解していたおませな子です。そんな定が巻き起こした事件ですが、多くの恋する女性は入り口くらいは理解できるはずです。

1905年裕福な畳屋の四女として生まれる

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定は8人兄弟の末っ子で長女と次男、三男は幼少期に亡くなっています。家は畳屋で裕福な家庭でした。定は毎日新しい着物を着て、学校より習い事中心の生活をしていました。学校に行かせないほど習い事をしていたので、学校から注意を受けていました。

幼少期から近所で評判の美少女だった

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定は髪結いさんが結ったような大人びたモダンな髪型で、近所でも評判の美人でした。毎日違う着物を着てほっそりと背が高い定は目立つ存在だったのです。習い事は、常磐津と三味線、そのほかにもしていたようです。

15歳の頃に隣人の大学生に強姦される

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中学生の14歳のときに、兄の友人の近所の大学生と戯れあっているときに、2人に強姦されてしまいました。二日間出血が止まらず怖い思いをしました。母とその男の家に行きましたが逃げられて会うことができませんでした。その時代のことで、もう嫁には行けないと、定はヤケクソになったと自分でも言うように、自暴自棄になりました。

生活は荒れて、不良グループと連れ立って遊びまわります。10万から60万という大金を家からもちだし、浅草界隈で遊んでいました。15歳で自主退学をします。さらに遊びに拍車がかかり男と寝ることにも抵抗がないようになりました。

17で芸妓、20歳の頃には遊女として売春で生計を立てていた

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家の金を持ち出しては遊びまわる定を、父親がと兄が見かねて1年近く定を監禁状態にしましたが、結局、定は芸妓にでもなった方がいいと売り飛ばされてしまいます。行った先は長男の元妻の妹の夫の秋葉正義のところだった。秋葉は女衒だったのです。女衒(ゼゲン)はいわゆる人身売買の仲介人で、女を花街に売り飛ばす商いをしています。

秋葉はあの高村光雲の弟子でした。当時は彫り物家をしていた男です。秋葉は定を夜這いでものにし、4年もヒモをしていました。定は横浜の芸妓屋に前貸金300円で契約、その後は長野や横浜で芸者として働いたが、座敷に出れば客とやる芸者として使われていました。定は嫌だったと言っていました。身売りは定の小遣いになりました。

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定は父親と兄に売り飛ばされた形で、17歳で芸者になり、20歳のころには売春を稼業として生計を立てていたのです。芸者としては、踊りも三味線も出来なかったので、強いられてそうなってしまったのです。

阿部定事件の被害者、石田吉蔵とは

石田吉蔵は妻帯者で2児の子持ち、鰻屋の主人です。定が殺してしまった相手です。大正9年に横浜から新井に来ています。小さな店でしたが、そのうちには新井で1.2を争う店になりました。常磐津と女と料理の腕は確かということですね。

東京・中野にある鰻料理店「吉田屋」の店主

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東京中野の鰻料理を扱う料亭吉田屋の店主です。定が初めて奥さんと2人に会った時に、店で働きたい理由を聞かれて、夫と別れて借金があるためだと答えています。石田の印象は優しそうだったと言っています。

妻帯者で阿部定と出会った時は42歳

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石田は当時42歳で、定は大宮に心を惹かれるていましたから、石田にはとくに感じるものはありませんでした。女房から様々な悪口を聞かされるうち、なんだって自分の亭主の悪口ばかり言うのか呆れていました。

1935年に阿部定と出会い、間も無く駆け落ち生活へ

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石田は、廊下のすれ違い様に顎をすくったり、イタズラを仕掛けて来ますが、定もまんざらでもなく、ちょっかいを出されるのを嬉しく感じたりしています。やがて石田が隙をみて定と結ばれます。定はそれでも自分は大宮と一緒になると思い、少しずつ準備をしていました。

1936年5月16日、扼殺により死亡

石田と定は、急速にのっぴきならない仲になり、互いに求め合うまま、食事もせずに行為にふけるようになります。一日に、5回も6回も交わります。石田も無類の女好きか、偏執的な好色か。定には詳しい調書が残されていますから、純粋に石田が好きだったことが伺われますが、石田の方も冷静を欠くほど定を愛したのかはわからないとして置きます。

定はその確信が欲しくてのめりこんで行ったのでしょう。乾きがあるから求めてやまない。石田を狂わせたいほど求めて追い詰めて行くような関係でした。実際には、定の生涯のうちのほんのいっときの時間石田と過ごしたに過ぎないのです。

出所後の阿部定の消息と晩年

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阿部定は刑務所で人の2倍も仕事をし、態度も真面目で模範囚として表彰されました。定の仕事ぶりは、常に真面目であり、評判もよく、あの事件だけが、定の特異性を示すものでした。それだけに、世間は定き興味をもつのでした。

1941年恩赦により出所

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皇紀紀元2600年の恩赦を1941年に受けて刑が解けます。外に出てみれば定にはすっかり変態の汚名がつき、それがなにより辛かったのです。定は自分はまともだと言います。1人の男を深く愛した結果でした。

偽名を使い店を開いたりなどして生計を立てていた

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定は刑務所から出ると、偽名を使っていました。はじめは姉のトクに世話になりました。しばらくして、秋葉の家に下宿します。秋葉は元愛人で妻帯者ですが、この頃は、実質的に定の保護者になっていました。定もお父さん、お母さんと呼んでいました。秋葉とは数奇な運命のつながりがありました。

1923年秋葉の家に遊びに来ているときに関東大震災にあいました。秋葉の家は全焼してしまいました。定は富山の平安楼に1000円の前借りをし、前の店を清算し、秋葉に300円渡しました。そして秋葉一家の生活の面倒をみました。お金で買われた身ながら、定はきっぷがいいのか悲壮感がありません。1000円は立派な家が持てる金額です。

1947年、偽名・名誉訴訟の裁判を起こす

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日本は長い戦争が終わり、世の中は過去を引きづりながらも未来に向かって浮足だっていました。エログロナンセンスブームが起き1947年、お定本が次々と発行されました。6月にお色ざんげ、8月に阿部定行状記、社会の晒し者です。とうとう定は9月4日に秋葉とともに東京地裁に訴訟を起こします。

お色ざんげは発行禁止の処分を受けました。1949年には秋葉の力添えで6ヶ月の地方まわりをしたり、大阪のバーで働いたり、旅館の仲居をしたりしました。また料亭星菊水にスカウトされ、10万の月給を貰い働きました。1967年、定は台東区竜泉におにぎり屋を始めました「若竹」は店と店舗があり、三味線とお酒を楽しむ店でした。

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この店には朝霞光代や相撲の親方衆、国会議員が常連でした。世の中は知れば知るほど奇妙なもので、定はこの店で事件のことは話していません。お客様からも評判が良かったようです。しかし、昔を知る司法関係者や警察が金をせびりに来たり身体を求めました。

1971年失踪、1974年には消息不明となった

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1971年、定は置き手紙を残していなくなりました。定は身体を悪くしていました。年下の恋人に金を持ち逃げされ、店をたたんで精算しましたが不足し、返あ済しきれませんでした。関西で自殺しようとしましたが、出来ずに東京に戻ります。

1971年の1月に浅草の仲見世で、定を菊水に呼んだ島田と会い、千葉の勝山ホテルで働くことになりました。うわさではこの頃の定は男好きで、若い男に貢いでいたとか。ただし身体の関係はなかったようです。新派の芝居のこうの役が好きだから「こう」と呼んで、と島田の妻に言いました。

定は、1955年山梨県の久遠寺に吉蔵の永代供養を依頼しました。毎年の吉蔵の命日には久遠寺に花が届きました。1987年が最後になり、阿部定がこの年に亡くなったのではないかとされています。あくまでもそれだけで、定の没年は不明です。

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