佐川急便事件とは?
ネット社会となり、自宅にいながら買い物ができるようになりました。そこで活用するのが配達業者です。佐川急便に届けてもらったことがあるという人も多いかと思います。
現在はクリーンな業務を行っていますが、かつて億という単位の多額な不審なお金の動きが発覚し、当時の自由民主党・経世会の金丸信会長が衆議院議員辞職に追い込まれた騒動が起きました。なぜそのような事件に発展してしまったのか、事件の内容を時系列に沿って詳しくみていきます。
佐川急便事件の概要①皇民等事件が起きる
騒動が世間に知り渡ったのが1992年になります。大きな話題となるまで政治家の密かな争いが起こっていたのです。その内容とは自民党内で次の総理大臣は誰かという話題で賑わっていました。
国を動かすリーダーとなるわけですから、だれもが代議士を目指すときに最終的な夢として憧れたことでしょう。トップ争いで闇動きがありました。
皇民等事件とは
当時、竹下登と田中角栄が候補に名が挙がっていました。ここで有利になったのが竹下でした。恩義のあった角栄を裏切ったことが右翼団体であった皇民党から熱い懇意を受けてしまったことが要因とされています。
これが一般国民であれば万々歳ですが、悩ませられたのは右翼グループだったことが政治を賄っていく上で噂となりたくない相手でした。
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必要以上の嫌味を含めた褒め言葉を並べては演説をされたため困った竹下が、金丸信に相談をし反社会勢力と繋がりが強いとされていた佐川急便社長に手を回し、交渉をしたことで騒動は静かになっていきました。
佐川の社長は銀座などで毎日豪快に飲み歩いていた人物で、政界の支援者としても知られていたようです。物々交換として竹下が、角栄の家まで行き直接謝ることを条件に、必要以上の騒ぎを立てないことを了解してもらえたのでした。
1987年に竹下登は自民党首相に就任
鎮めたことでひと段落し、無事にトップとなります。裏で動いた佐川急便社長は政治の世界の繋がりができたことで大いに喜んだとされます。
無事に政治のトップになれたことと、右翼からの嫌がらせをストップできたわけですから恩恵を受けているだろうと、思った佐川の社長は、裏組織が所持していた物件にたくさんの融資を始めたのです。
何かトラブルが起きてもバックに政治界がついているから大丈夫という安心感が彼の行動を大きくさせたのかもしれません。たくさんの物件に手を伸ばしていき、1000億ものお金を動かしたとされます。
竹下登が田中角栄に謝罪し事件は幕を卸した
トップになる前に角栄の自宅に出向き、謝ることを条件に事を鎮めてもらった竹下は時間を作り謝罪しようと動きます。
自宅に行きますが、インターホンを押すと角栄の長女である田中眞紀子が登場し、本人に会うことなく門前払いされ直接の謝罪はできなかったといいます。恥ずかしい思いをしながら家路についたのです。
角栄が留守だったのか、あるいは顔を合わしたくなく居留守を使ったかは謎のままであります。交換条件の約束を守ったことで、事は収まり彼の周りには平穏な雰囲気が戻ったのです。
佐川急便事件の概要②バブルの崩壊
当時バブルの真っ只中でお金に困ることなく溢れかえっていました。そんな良い時代は長く続かなかったのです。一度覚えた豪快なお金使いは、倹約することが難しいのです。
バブルが弾け皆が倹約し始めたのに対し、マイペースな性格が仇となり次第に黒い霧が立ち込めていくこととなるのです。
1991年バブル崩壊
裏社会の物件に融資をしていた佐川は、多額の利息のかかる支払いに困るようになってきます。資金繰りに悩まされるようになっていきました。会社が倒産になってしまえば路頭に迷うことになります。
何としてでも再建を図る幹部たちと、危機感をもたないワンマン社長であった関係に隙間風が吹き始めたのです。お金の悩みは心を荒げるのでした。徐々に社員たちの不安は膨らんでいくのです。
社長と幹部の間に亀裂が発生
支払い期限を伸ばして貰えるよう懇願したりと奔放していた幹部たちは、相当焦っていました。そこで会社のリーダーでもある社長に、返済する計画を組んだ書類を出してほしいと頼みました。
なんとかなるだろうというマイペースな社長は、計画書を作成するどころか援助が必要だと言い債務をさらに大きく膨らませていったのでした。金銭感覚のズレがあったのか、幹部らは開いた口が塞がりませんでした。
東京佐川急便は親会社佐川急便に吸収された
にっちもさっちもいかなくなったことで、公となり債務合計4395億円という桁外れの金額は国民らを驚愕させます。当然のことながら社長や幹部たちは解雇という厳しい処分を受けたのでした。
そして自分の会社も親会社の物となってしまい、全てをなくしてしまったのです。
佐川急便事件の概要③渡辺広康の逮捕
社長の場合は、解雇だけでは収まりませんでした。多くの債務を作ってまで闇組織と繋がっていたルートは重く彼にのしかかったのです。政治家に収賄を提供することは法律違反です。
厳しい視線が向けられることとなるのです。
1991年に信託義務違反の容疑で逮捕される
この一連は、会社リーダーであった渡辺を逮捕し法で裁くことで解決するという簡単な物語ではありませんでした。反社社会組織にお金が流れていたことは重い罪であり、警察も深く追求していくこととなるのです。
1992年に佐川急便幹部達を特別背任容疑で逮捕
解雇だけで処分は終わりませんでした。塀の中に送り込まれることとなったのです。社長の指示のもと行動を起こしただけではありますが、黙認し動いた罪は重くのしかかったのです。
会社のために動いたことが悪行となり彼らの人生は、振り回されてしまったといえるでしょう。
東京地検特捜部はヤミ献金や不正融資など疑惑を抱く
ふと特捜部は疑問を抱きます。なぜそんなに多額のお金が裏に動いていたのかと思ったのです。これにはただの融資だけでなくもっと奥に潜む腹黒い実権をもった人物がいると怪しんだのです。
ここに関係していると嗅ぎつき実態が怪しまれたのが、政治家トップである竹下と手下の金丸だったのです。目をつけられた2人は執拗にマークされます。
佐川急便事件の概要④一六戦争
次々と化けの皮が剝がれていくように、事件が明るみになります。佐川の社長逮捕によって裏に潜んでいた黒い影が光を浴びることとなりました。
「一」と「六」がつく名前の人物が関わったことから、事件名としてこう呼ばれています。どんなことが起こったでしょうか?
小沢一郎は5億円の政治献金を巡り、検察への徹底抗戦
金丸に多額の資金が流れた疑いを小沢一郎は、徹底抗議しますが梶山清六は早く騒動を鎮める方法を探したうえで、対処していくことを提案します。意見の対立から抗議となっていきます。
これを見かねた問題の当人である金丸は、収支があったにもかかわらず報告してなかったことをミスと認めて事の騒ぎを抑えようと動いたのでした。
東京佐川急便のヤミ献金疑惑で辞職していく政治家たち
元社長の渡辺は、積極的に多くの政治界の繋がりを得ようと動いていました。祝賀パーティなどにも顔を出します。
人づきあいを深めるツールとして多額の資金が動いたと疑惑が起こり、関わったとされる議員たちは自ら立ち退く意思を示し、バッシングされる前に姿を消していきました。
佐川急便事件の概要⑤金丸信の政治献金が発覚
多くの資金が代議士たちに手渡されていたことが明るみになり、約24億ともいわれる闇のお金が動いていたのです。断固として社長が人名を明かさなかったのですが、唯一話したのが彼なのです。
金丸信が5億円の政治献金を受けていた事が発覚した
12人ほどの代議士にお金を渡していたと言われますが、彼だけの名前ははっきりと述べたため取調べを受けることになります。社長としての地位を守りたかったために闇でお金を渡し恩を作ったとされています。
政治資金規正法違反で略式起訴された
彼は法を科せらることになりますが簡略的な起訴のため、刑務所に入れられるという刑にはなりませんでした。
ただ国民の税金から議員給料をもらっている彼らですから、国民は一つ返事で納得するはずはありませんでした。多くの国民が怒りを表しに、汚い政治をしている人物だと認識されていくのです。
略式起訴の罰金だけで罪を逃れていた
億の不正のお金を受け取っていたとされていましたが罰金たった5万円でチャラになったのです。これには国民からバッシングが起き、タレント議員の元祖とも言われた青島幸男が率いてストライキが勃発したのです。
通常の反対運動と違った点は、何も食べず飲まずの断食をして反対の考えをアピールすることでした。約30時間ほどが経過したときに体は異変を起こします。
脱水症状が出始め命に危険が出るとされたため緊急入院をします。命を懸けてでも騒動の鮮明さを訴えたかったのでした。大きな騒動となってしまい、支援者も離れていき国民からは非難され立場がなくなってしまった彼は辞職するという形で責任をとりました。
影響力は大きく、世間の注目を集める報道となります。新聞の一面トップページに載るほどだったのです。
佐川急便事件のその後
国民までも巻き込んだ闇金の事件は、代議士が辞めたことでクリーンになりつつあり、次第に静かさを取り戻していきます。騒動のその後はどうなったでしょうか?実態に迫ります。