深川通り魔殺人事件とは
事件が起きたのは1981年の6月17日、午前11時35分のことでした。場所は東京都江東区の森下二丁目の商店街で起きました。当時29歳の川俣軍司という男性が殺人事件を起こしたのです。
彼が起こした事件が、いわゆる通り魔殺人という物であり、その被害者は死傷者合わせて6名までに及び、重傷を負わせたのです。さらに、犯人は事件後すぐに捕まることとなるのですが、供述の中に不可思議なことを言っていることも発覚し話題となりました。
曰く、彼はこの事件以前から数年間厳格妄想に悩まされていたそうで、「電波に引っ付かれた」と供述しているのです。これら意味不明なことを理由に事件を起こした彼ですが、その凄惨な内容から今日まで語り継がれる有名な事件をなっているのです。
さらに、この事件を有名にした理由はもう一つあります。それが、当時この事件がテレビで一部生中継されたことにあります。犯人の男性は7時間の立てこもりの末逮捕されたのですが、その時の様子がテレビで中継されたのです。
彼は逮捕時、猿ぐつわとブリーフ姿で立てこもり先の中華料理屋から出てきたといわれています。この時の彼の様子は、その姿も相まって大変衝撃的な姿だったと多くの人が述べているようです。
さらに、子の立てこもり時の彼は精神錯乱状態だったともいわれており、どうやら突入時に下半身が裸だったために、警察官によってブリーフを履かされたといわれてます。衝撃的な内容となるこの事件は、現在でも非常に有名です。
深川通り魔殺人事件の概要
すさまじい通り魔殺人事件ということが分かりましたが、彼が起こした事件のその詳細について、もっと詳しく紹介していきましょう。当時起きたこの事件はテレビでも一部中継されており、多くの人に衝撃をもたらしました。
白昼の商店街、無差別殺人事件のきっかけ
そもそも事件のきっかけから触れていきましょう。1981年6月17日時間は午前11時35分の出来事でした。犯人は当時29歳でした。
前日の面接結果を聴くために、新大橋通にあった電話ボックスにて不採用通知を受け取った直後に事件を起こしたのです。度重なる不採用通知に落胆し商店街方向へ歩いていました。
そして彼は犯行に呼びます。商店街を行き来する人の中で、突然刃渡り22センチにも及ぶ包丁を出し、商店街を行く人々に突如襲い掛かっていくのです。
目に留まった親子連れを刺した
彼が事件を起こし最初の犠牲となるのは、交差点を行くとある親子連れでした。母親が雄乳母車に乗っていた当時1歳の乳児の腹部を走り去り際に二度刺したのです。
突然の出来事に母親は恐怖し悲鳴を上げ、路上に向かって走って逃げようとするのですが、乳児同様に男性によって刺されます。柳刃包丁を背中に突き立てられ、殺されるのです。
この時刺された衝撃で乳母車と乳児共に路上に投げ飛ばされていたと言います。逃げる母親でしたが、しかし犯人はその母親すらも逃がさなかったようで、背中に柳刃包丁を突き立て、2度ほど母親を刺したといわれています。
そしてその後、近くを通っていた3歳女児をめった刺しにします。女児はあまりの出来事に呆然としており、逃げ遅れたのでしょう。犯人によって胸を4回ほど刺され殺されます。さらに、再び先ほど刺した乳児のところに戻り、胸のあたりを刺し殺したといわれています。
現場には、散乱した乳母車や刺殺された人たちの血痕が飛び散っており、道行く人に恐怖を与える凄惨な状態であったと語られています。偶然居合わせただけの、何の罪もない人達が犠牲となったのです。
偶然居合わせた3人の女性を次々刺した
さらに刺された被害者は、この女児や親子連れだけではありませんでした。この人たちを刺殺した後、犯人はさらなる凶行に及びます。その場所に居合わせた買い物女性客の上腹部をその勢いのまま刺し殺したのです。
彼女もまた、あまりの衝撃的な光景に呆然となっており逃げ遅れたのだと言います。また、さらに、彼は近くのバス停でバスから降りてくる71歳女性にも危害を加えます。正面から体当たりして大腿部を包丁で突き刺したそうです。
それに引き続き、化粧品店から出てきた39歳女性と鉢合わせし、その女性にも切りかかってけがを負わせたと言います。偶然居合わせただけの女性を次々と刺していき、中には死者を出すほどのおおきな犠牲を伴う事件となりました。
女性を人質に。7時間の立て籠りが始まった
行きかう人々を襲った事件は、たった5分という短い事件の中で発生したのですが、事件はまだ終わりません。犯人であるこの男性は、一人の女性を人質に約7時間もの間立てこもりを行ったのです。
午前11時40分ごろ、商店街の中で殺傷事件を引き起こした直後のことです。彼は中華料理店「萬来」と呼ばれるお店の前で、当時歩いていただけの33歳女性ののど元に包丁を突き付けて脅迫し、そのまま店内へと引きずり込んで立てこもりを開始します。
この時、お店自体は営業前でお客はいなかったそうですが、経営者である夫婦と子供がおり、その人たちは包丁で脅して店外へ追い出したそうです。また、この脅迫時には人質となる女性の背中を切りつけてけがを負わせて脅していたといわれています。
犯人は女性を人質にここから約7時間にも及ぶ長時間の間、立てこもりを行うこととなります。警察による説得が何度も行われますが、犯人は応じる気配を見せず、うるさくすると刺し殺すとも暴言を何度も繰り返し、立てこもりを続けました。
「電波でひっついてる奴を連れてこい」川俣軍司の要求
立てこもりを続ける犯人と何度も説得を行う警察でしたが、犯人からの要求には意味不明な内容がありました。その内容が、「電波で引っ付いている奴を連れてこい」という物でした。
詳しく発言が残っているのは、人質としていた女性に口述筆記させていたからだそうです。当時女性は体を何十か所も刺されて脅されていたようです。犯人が警察に要求した内容は、どうやらこれまで自分に不採用を突き付けてきた者たちへのものでした。
自分に不採用や解雇を突き付けてきた者たちは、みんな電波で引っ付いているからこのような悪い判断を下したのだと男性は思い込んでいるようなのです。さらに、これらの要求に加えて砥石の差し入れも要求してきました。
彼が何度も刺しているうちに、包丁がかけてしまったようで研げるように砥石の差し入れを要求したのです。これらの要求を行うために人質を取ったと考えられています。
一瞬の隙を見て捜査員が突入!川俣軍司を逮捕
幾度となく説得が試みられましたが、それに応じることはなく何人殺しても同じと語り怒鳴り散らす犯人とは平行線の一途をたどっていました。しかし、事件は突然の展開を迎えます。
とある警察官が、犯人の隙をついて突入したのです。人質である女性が犯人から逃げ出し調理場へ逃げ込んだ時の隙を利用して突入されたと言います。立てこもりが始まり約7時間が経過した、午後6時54分ごろの出来事だったと言います。
当然班員も抵抗したようで、持っていた包丁を振り回して警察に抵抗しましたが、取り押さえられ逮捕に至りました。逮捕された犯人は中華料理店かれ出てくる際、ブリーフ姿に白いハイソックスを履き、口には割り箸を加えて出てきたといわれています。
先述でも述べたように、彼は精神錯乱状態で下半身裸の状態だったそうで、このブリーフ姿は警察から渡されたパンツをはいたことでこのような姿をしていたと言います。また、自殺する可能性もあると見た警察により、防止用に割り箸をかませていたそうです。
この姿は、テレビでも中継が行われ犯人が現場から出てくる姿を多く雄人が見ていたそうです。その衝撃的な光景は、今でも多くの人に語られています。
深川通り魔殺人事件の判決と川俣軍司の現在
凄惨な事件を引き起こした犯人。最後は犠牲者を何人も出しながらも逮捕することができたわけですが、彼の判決やその後はどうなったのでしょうか。犯人の現在についてご紹介していきましょう。
裁判で幻覚妄想を訴えた
逮捕後、当然彼は裁判にかけられ誰もが死刑を言い渡されるほどの罪だと思っていたようです。しかし、その裁判で下されたのは無期懲役でした。これは、裁判中の彼の証言や薬物反応が出たことが大きく影響したと言います。
彼は裁判中、何度か尿検査を受けておりそのすべてにおいて覚せい剤反応が検出されたのです。そして裁判中にも妄言がひどく、「電波がひどい」や「殺せという声がする」といった供述を行っており、その精神状態に異変があることが見受けられました。
さらに、この裁判中には色々なことが起きており、判決理由朗読中、傍聴人が電波が自分にも聞こえるといった旨を叫んで退廷させられたり、同じ薬物中毒で幻覚に苦しんでいる人物が何度か面会に訪れ、支援したいと申し出たりもしたことがあったようです。
これらのことをすべて踏まえ、幻覚妄言の症状と薬物反応から、刑事責任は問えるが心身耗弱状態であったことが考慮され、刑法39条の心神耗弱適用の元、無期懲役と判決が下りました。
川俣軍司の犯行動機の数々
彼が裁判中に述べた中には犯行動機もあり、それは後述する彼の生い立ちと密接に関係していたようです。供述した犯行動機の数々には、犯行直前に聞いた不採用通知も大きく関与していました。
本人曰く、就職を申し込んだすし店に断られてついカッとなって人お襲ったというのです。さらに、それに加えて自分には電波が引っ付いているので黒幕を暴くために人質を取ったと支離滅裂な内容も供述しています。
また、供述した犯行動機はこれだけではありません。彼は子供を持っている人たちが羨ましく、うっぷんを晴らしてやりたかったともいっています。子供の父親が来たら、自分の腹を刺して恨みを晴らせばいいとも語っているようです。
加えて、自分はサムライで死んだ人間は運命だともいっています。刺した時は気分がすっとし、殺された人物も幸せだろうと意味不明な内容も語っており、数々の犯行動機を当時語り凍り付かせました。
川俣軍司は無期懲役で現在も服役中
支離滅裂な内容の供述や、裁判中の意味不明な証言などいろいろなことがありましたが、昭和57年12月23日、東京地裁で無期懲役の判決後、翌年1月6日に無期懲役が確定しました。当時彼は、判決に不服を唱え控訴を考えていたとのことです。
しかし、弁護人から被害の重大さと命が助かるだけでも上々と諭され、模範囚になることを決意して控訴を取りやめたと言います。現在も彼は服役中の身で、67歳になるごろと考えられます。
深川通り魔殺人事件の犯人川俣軍司の生い立ち
ひどい事件を起こした犯人ですが、数々の供述者と動機が判明しました。しかし、そんな彼から判明したのは、今回の事件にも密接にかかわる彼の生い立ちもありました。彼がどのような過去を過ごしてきたのか、紹介をしていきましょう。
川俣家の次男、劣悪な環境で育った
彼が誕生したのは1952年2月21日のこと、茨城県鹿島郡波崎町太田で生まれ育ちます。家族は父親と母親、そして兄と姉と二人の弟たち5人兄弟で暮らしていました。ちなみに姉は幼くしてなくなっていたそうです。
父親はもともと東京のの生まれですが、戦争後に茨城の地へと引っ越しを行い、シジミ採り専門の漁師を生業にして生活をしていたそうです。軍司は普段はおとなしい性格だったようで、友達といえる人物は少なったのではといわれています。
そんな彼でしたが、中学時代まではこの町で過ごします。高校への進学は、当時その地域で新設された波崎高校への進学率90%を持っていたにもかかわらず、進学は考えていなかったそうです。
父親からも進学を進められたそうですが、軍自身は父親が困っているのに自分だけ学校に通うわけにはいかないと判断したようです。というも、当時この波崎と呼ばれる地域は、半漁半農で生活する人がほとんどでした。
しかし、軍司の父親は自分の土地を持っていなかったために農業を営むことができず、非常に生活に苦労する状態でした。シジミ専門の漁師であったために、漁師の仕事も時期が来ると行えない時期があります。
そのため、一時期は食べる物にも困り、軍司自信も母乳足りず栄養不足から重湯で育てられた過去を持っています。こういった過去を実際に自信も経験しているために、父親の大変さも理解しており、仕事の道を選んだようです。
集団就職で上京、すし屋で修行した
中学生当時彼は、成績も決していい方ではなかったと言います。5段階評価中2程度の成績ばかりでした。しかし、高校への進学の見込みは有るようだったので父親からのススメもあったようです。
しかし、先述したように父親の苦労を知っているからこそ仕事を始めようと決心します。田舎から東京への集団就職というもので、仕事につき、築地のすし屋で住み込みで修行する日々を送るようになります。
当時、彼は見込みがあると周囲の評価を得ていたようで、就職から3年間は休み以外の日は一切休むことなく真面目に働いていたそうです。一時、映画館のガラスを割って連行されるなどの騒動もあったようですが、まじめな様子から周囲の先輩も見込みがあると語っていたようです。
すし屋など職を転々と変えた
そんな真面目に働く彼でしたが、とあることをきっかけに人生が狂い始めます。大きな転機となったのが、彼の後輩がすし屋の板前見習いとして入ってきたことです。
彼は少年院仮退院中の身であり、板前見習いとして入ってきました。軍司にとっては後輩にあたります。しかし、その後輩からのいじめが始まったのです。その結果、折り合いが合わず軍司は4年近く務めた店を辞めることとなりました。
辞めた彼はそれでもすし屋で働くことを続けようと、他の店で働き始めます。江戸川区小岩のすし屋で働いていたそうです。しかしこちらも3カ月ほどで解雇となります。この理由は、刺青を入れたことによるものでした。
彼が務めたこちらの店には刺青を入れた先輩がいて、その先輩の紹介で刺青を入れられるお店を教えてもらったようなのです。店で客に勧められた酒に酔ってしまい、勢い余って刺青をみせてしまったために解雇を言い渡されたそうです。