西口彰とは?
西口彰(にしぐちあきら)、という犯罪者をご存知ですか?彼は安易な動機で5人もを殺害、その他にも罪を重ね幾度も刑務所へ入り、最終的に死刑になっています。その犯行もさることながら、彼の人柄、逮捕のきっかけ、逮捕後のエピソードは非常に興味深いものがあります。
戦後の犯罪史に名を残す連続殺人犯
1925年、大正14年に大阪のカトリックの家に生まれた西口は、16歳の頃から数々の犯罪に手を染め続けました。38歳になった1963年には5人の人間を殺害、約80万円を騙し取り、最終的にはひとりの少女がきっかけで逮捕に至りました。1970年、44歳の時に死刑が執行されています。
西口彰事件は5人を殺害した凶悪事件。その概要
西口は多くの犯罪に手を染めましたが、その中でも1963年に起こした連続殺害事件を「西口彰事件」と呼びます。では、それは一体どのようなものだったのでしょうか。ほんの数ヶ月の間に5人もの人間を殺害した、その概要をご説明したいと思います。
1963年10月、西口彰は福岡県で2人殺害し逃走
まず、1963年10月18日。ここが全ての始まりでした。西口は福岡県にて、集金に回っていた専売公社(現在のJT)の職員2名を殺害します。一人目の被害者、Mさんの集金に同行し、車が山道に差し掛かったところでキリによりMさんを殺害。動機は金品の奪取でした。
そしてその場所からおよそ2km離れた場所で、同じく集金中だったGさんを手ぬぐいで絞殺。その後、集金の中から27万円を盗んでいます。警察は目撃証言と指紋、そして西口宅から血の付いた衣類が見つかったことから彼を指名手配。しかし自宅、愛人宅を捜索した結果、西口は逃亡した後でした。
周到に用意された初めての殺人
この強盗殺人計画は前日に計画されたもので、本来同行の必要ないMさんの集金に付いていく、凶器を持参するなど用意周到なものでした。西口は未成年の頃から多くの犯罪を繰り返しましたが、人を殺したのはこれが初めてでした。ここから、数ヶ月に及ぶ逃亡生活が始まります。
11月、逃走先の静岡県浜松市で2人殺害しまたもや逃走
2人を殺害後、西口は競艇レースへ来ていました。その最中、新聞で自分が指名手配されていると知り逃亡。警察と妻に手紙を書き狂言自殺を企てます。その隙に中国地方と関西を経由し中部地方へ移動、10月に静岡県浜松市の貸し席へ辿り着きました。
ここでは自らを大学教授だと名乗り、女将のYさんと仲を深め、肉体関係を結びました。そして11月19日、この女将Yさんと、その母Hさんを絞殺。金品を盗み質に入れ、21万円を手にしています。二度目の強盗殺人でした。
12月、東京都豊島区で弁護士を殺害し逃走
12月、西口は関東、東北、北海道などを転々としながら、詐欺を繰り返し金を手に入れていました。その数およそ7件。そして12月後半、東京に到着した彼は、年の暮れの12月29日に弁護士のKさんを絞殺。東京地裁で知り合い仕事を依頼し、そのまま被害者のアパートに同行し犯行に及ぶと言う大胆さでした。
またこの際、被害者から腕時計、そして弁護士バッジを奪っています。この後も自身を弁護士と騙り信用させ、犯行に及ぶための下準備でした。そしてその後も殺害された弁護士の家へ行き、依頼人が持ってきた金を受け取り逃走しました。
翌年1月、熊本県で少女の機転により逮捕
翌年の1月、西口は熊本県の立願寺という寺院を訪れます。そして住職の古川泰龍(ふるかわたいりゅう)氏に弁護士だと名乗り、古川氏が支援していた「福岡事件」の再審請求に自身も協力したいと申し出ました。それに感激した古川氏は西口を家に入れ熱心に語り合い、その夜、彼を家に泊めたのです。
しかし、古川氏の長女で当時11歳だったるり子さんが母親に「あの男は指名手配犯にそっくりよ」と訴えたことから事態は急転します。るり子さんはクラスメイトに「西口彰」と一字違いの児童がいたため、指名手配のポスターを毎日通学途中にじっくりと眺めていたのです。
最後まで堂々としていた西口
古川氏は初めは「お客様にそんなことを言うな」と叱りましたが、母親がポスターを確認したところ特徴が酷似しており、古川氏も、そういえば西口の話に辻褄が合わない点があったと思い至ります。そして翌明け方に母親が警察に通報します。
駆け付けた警官に西口は「自分は弁護士だ」と堂々と接したため場は困惑しましたが、指紋を採取したところ完全に一致したため、逮捕に至りました。10月中旬から始まった西口の逃走劇は、ひとりの少女の直感によって幕を下ろしたのです。
西口彰の裁判の判決は?
多くの詐欺や盗み、そして5件の殺人を犯した西口はついに御用となり、裁判にかけられました。飄々と逃げ続けた彼は、どのように起訴され、どのような判決が下ったのでしょうか。西口を的確に形容した言葉と共にご紹介します。
1966年に死刑確定
1964年1月に逮捕された西口は、同年11月に検察側から死刑を求刑されます。翌1965年1月に福岡地裁にて、「人も神も許すことのできない凶悪犯罪者である」と言われ死刑判決が出ました。弁護士は控訴しましたが福岡高裁は棄却。
1966年には何故か西口自身が上告を取り下げており、そこで死刑確定となりました。その戦後稀な犯罪の凶悪さ、本人の動機の薄さから、検察からは「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」、裁判長からは「悪魔の申し子」と形容されたと言います。
西口彰のその後は?
その後、西口は4年という速さで死刑に処されました。常に余裕を見せていた彼は、どのような様子で死刑台に向かったのか。そしてその最期の言葉はどのようなものだったのか。彼の手記も紐解きながら解説します。
1970年、死刑執行
西口は刑務所の中で「罪は海よりも深し」という手記を、ノート8冊に渡り書き記しました。そのノートの一番最後にはこう記されています。
私が刑場に引かれる姿を想像して笑ってください。当然の制裁でありましょう。長いことお騒がせいたし恐縮です。失礼いたしました。(出典:オワリナキアクム~又ハ捻ジ曲ゲラレタ怒リ~)
このノートのタイトルからもうかがえるように、彼はどこかロマンチスト的であり、死刑を恐ろしく思っていないような節がありました。死刑の執行は1970年の12月11日早朝。人の感情や表情の機微に敏感だった彼は、看守の表情から今日が死刑の日だと確信していました。
最期の言葉
絞首台の前へ立った西口は胸の前で十字を切り、
大変お世話になりました。遺骨は別府湾に散骨してください、アーメン(出典:NAVERまとめ)
と言い残し、絶命しました。享年44歳でした。生前何度も刑務所に入っていた西口は死刑についても詳しく、「首吊りだけは嫌だ。俺は自ら命を絶つ」と言っていましたが、その隙も与えられず、法の下に裁かれたのです。
また、戦後に死刑について議論を生んだ恐ろしい事件に「おせんころがし殺人事件」というものがあります。こちらはその罪の重さに戦後初めて2つの死刑判決が下された事件で、死刑廃止論反対派がこの事件を持ち出すことが多くありました。興味のある方はこちらの記事をご覧ください。
西口彰の家族その後は?
西口の逃走開始から死後まで、その家族はどのような思いを抱え、どのように過ごしたのでしょうか。西口には妻と3人の子供がおり、そして逮捕前は両親も健在でした。まず、西口は逃走中、家族に何度か手紙を書いています。最初の指名手配時は、以下のような手紙を妻あてに送っています。
捕まって世間に笑われるようなことはぜったいしない。死ぬつもりだ。(出典:日本猟奇・残酷事件簿)
長男への手紙
先立つ不幸許して下さい。今度は本当に御迷惑をかけました。胸が一杯で何も書けません。御幸に御元気で何時迄も御幸にね。馬鹿な彰を許して下さい。この道を選ぶより外はなかったのです。(出典:オワリナキアクム~又ハ捻ジ曲ゲラレタ怒リ~)
狂言自殺の現場には長男あてに、このような手紙を書き置いていました。そして死刑確定後、長男は21歳で結婚。西口はそれを獄中で知り、非常に喜んだと言います。また、服役中に西口はカナリアを飼っており、その鳥たちは長男に引き渡され、彼の遺骨を海に撒く際に空に放たれたという、まるで小説のようなエピソードもあります。
西口を生んだ両親のその後
西口の母親は、西口の服役中に亡くなっています。それについて西口は「母よりも後に逝けるのがただひとつの救いだ」と述べました。父親は、西口の犯行が自分のせいだと悔いて、警察署内で泣き崩れたと言います。
一連の犯行の直前、西口は母親に「全てやり直したい。一緒に暮らそう」という手紙を送っていましたが、父親はそれを息子のいつものやり口だと言い、母親を西口の元へは行かせませんでした。あの時西口の元へ行き一緒に暮らしていたら、こんな罪は犯さなかったのでは…と、父親はいつまでも泣いていました。
西口彰に狙われながらも逮捕のきっかけを作った少女のその後は?
この事件で何より驚くのは、西口逮捕の決め手となった古川氏の長女るり子さんの存在です。るり子さんは、ご存命なら現在66歳。数年前TVにこの事件が取り上げられた際、るり子さんの姉、愛子さんが出演されていました。
敢えてお姉様が出演されたことを考えると、るり子さんは現在は取材等を断り、平穏に暮らしているのだと推察されます。
西口がるり子さんに送った異常な手紙
また、西口は逮捕から5年後、なんと16歳になったるり子さんに以下のような手紙を出しています。
その折は大変迷惑をおかけし、まことに申し訳ございませんでした。るり子さんも高校生に成長なさって、朗らかに、毎日元気にお過ごしのこととうかがっております。決して皮肉ではございません。できたら今後、るり子さんと文通をしたいと思いますが、唯「こはい人」と言った感じだけを残しているのかもしれませんネ。(出典:Grand-Earth)
そして、手紙には押し花が添えられていたそうです。もちろんるり子さんは返信をしませんでしたが、殺すつもりだった一家の、自分を逮捕へ追いやった少女へ文通の申し込みをするという不可解さは彼の異常な一面を浮き彫りにしています。
西口彰の生い立ち
その罪の多さや重さもさることながら、堂々と犯行を繰り返し不可解な行動も多かった西口。その人格はどのような環境で出来上がったのでしょうか。まず、彼の生い立ちを詳しく見ていきたいと思います。
1925年に大阪の裕福なカトリック系の家庭で生まれる
西口は1925年、大正14年に大阪に生を受けました。3歳の頃に両親の出身地、長崎県の五島列島へ移住。五島列島は隠れキリシタンが潜伏していた地でもあり、西口家も代々カトリックを信仰していたため、西口自身も洗礼を受けカトリック教徒となっています。
西口の父親は大阪に出稼ぎをし貯金を作り、それを五島列島へ持ち帰り船を2隻購入。アジ、サバ漁をして漁業経営者として成功しました。そのため、西口の家は他に比べ、かなり裕福であったと言えます。
父親の事業の変遷
1936年、西口11歳の頃、父親は漁業から撤退、果樹園の経営に移ります。その後は体調悪化に伴い1941年、西口16歳の時に大分県別府市の温泉旅館経営を開始しました。旅館経営も軌道に乗っていたのか、常に経営者であった父親が多忙ではあったものの、お金にはさほど困らなかったのではないかと推測されます。
中学生頃から道を外し始め、犯罪を繰り返す日々
カトリックであった西口は、中学からは親に望まれるまま福岡県のミッションスクールへと入学し寮生活に入ります。しかしカトリックの寮生活は、非常に戒律が厳しいものでした。それにストレスを感じた西口は中学3年の2学期に中退し、家出をして行方をくらましました。
その後は16歳にして詐欺、窃盗等を繰り返し、何度か保護処分となるも、最終的に山口県岩国市の少年刑務所に入ることとなりました。そこを出てからもまた詐欺や窃盗を重ね、出所と服役の繰り返しだったと言います。
20歳の時に結婚、3人の子供にも恵まれる
そんな西口も終戦直後の1946年、20歳の頃に結婚します。翌年に長男、その4年後に長女が生まれ、計3人の子供に恵まれました。しかし彼は、そんなさなかにも犯罪を繰り返しました。長男1歳の時に恐喝罪、長女が生まれた年にアメリカドルの不法所持、その翌年には進駐軍になりすまし、詐欺罪で逮捕されています。
逮捕後はもちろん数年の服役が待っており、妻子と過ごすことは出来ません。そのため、何度も罪を犯し刑務所にばかり入っていた西口は、服役中に一度妻と協議離婚しました。しかしカトリックでは離婚はご法度。信仰の厚かった西口は、その後再婚を果たしています。
西口彰の事件の犯行動機とは?
5人もの命を奪い多くの詐欺や窃盗を働いた西口ですが、ではその動機は一体何だったのでしょうか。ここが彼の一番不可解な点ですが、本人曰く動機は「借金を返すためと、愛人の歓心を買うため」だったと言います。このような一見単純な動機で人を5人も殺すだろうかと、警官や西口を知る人々は皆首を傾げました。
事件背景から見る西口彰の事件の犯罪動機の真相考察
西口の犯行動機は非常に薄く、到底世間を納得させるものではありませんでした。彼の本当の動機とはどのようなものなのか、ここでは彼の生い立ち、背景から、またその内面を想像し、動機の真相を考察してみたいと思います。
戦争に翻弄された西口家
西口の父親は、地元では力のある人物でした。しかし時は戦時。その影響により、カトリックであった父親は世間から迫害されていた可能性があります。また、父が営んでいた漁業はその燃料をどうしても輸入に頼らざるを得ず、しかも大型船は徴用を受け戦争へ赴かねばならなかったため、漁は当然満足に出来なくなります。
その影響で父親は漁業を諦め、果樹園に切り替えたのではないでしょうか。国、戦争、軍という権力に自信を曲げるしかなかった父の姿を見て、幼い西口は権力へのコンプレックスを抱えたと考えられます。