キックの鬼!沢村忠とは?現在何をしている?
1960年代に巻き起こったキックボクシングブームの火付け役の沢村忠氏は、圧倒的な強さを見せ、”キックの鬼”とも呼ばれていたほどとても有名なキックボクサーです。その沢村忠とはいったいどんな方だったのか、デビューから引退までを簡単にご紹介したいと思います。
キックボクシングブームを巻き起こした選手
キックボクシングは日本の格闘技の一つで、創設者の野口修氏がムエタイの試合ルールを参考にして作られた打撃格闘技になります。
幼少期から教わっていた空手でとても強い存在だった沢村氏の実力を評価し、野口氏はキックボクシング道へ勧誘しました。すると見る見るうちに強さを見せ、得意の必殺技で多数のKOを勝ち取るほど最強の男となりました。
現役時代は「キックの鬼」と呼ばれた
初めての試合から数えると241試合も戦い、232勝を挙げています。これほど勝利が多いのは、沢村氏が得意とする前蹴りや必殺技”真空飛び膝蹴り”が他の選手には真似できず、勝利を収めていました。これらの技を得意としていた為に”キックの鬼”と呼ばれていました。
デビュー戦からKO勝利
初めての試合は1966年4月になり、「空手VSムエタイ」と呼ばれる試合でした。結果は沢村氏が2R・KO勝ちで華々しいデビュー戦を飾りました。その2か月後に行われた試合ではムエタイのルンピニーフェザー級8位のサマンソー・アディソンとの対戦で16度のダウンをもらい、4R・KO負けと初めての負けを味わいます。
この試合で沢村氏は25カ所の打撲、頭蓋骨の陥没、肋骨4本骨折、7本の刃が折れるなどひどい状態で病院送りとなってしまいました。これだけひどい状態になってしまったので、キックボクシングの世界へ勧誘した野口氏はこの試合を最後にやめてしまうのではないのか。と不安もよぎったそうです。
敗北からの復活
大変な怪我を負った沢村氏は、キックボクシングをやめてしまうのではないかと心配されていましたが、この圧倒的な敗北が沢村氏の闘志に火をつけました。怪我が治り病院を退院後、沢村氏は八ヶ岳へ向かいます。誰もいない八ヶ岳で何をするのかと思えば、修行を始めたそうです。
誰もいない場所で行った修業は、精神を鍛える修業を行いました。厳しい環境の中、一人で2週間程度山の中でひたすら鍛えたそうです。その修業が終わると次はトレーニングを開始しました。修業・トレーニングは約1年にも及びました。
サマンソー・アディソンとの再戦
敗北を味わった試合から修行を重ね、再びリングに上がったのは約1年後でした。復活後の試合相手は、なんとKO負けとなってしまったサマンソー・アディソンでした。病院送りから修行やトレーニングの成果が発揮され、互角の戦いを見せましたが、見事勝利を勝ち取ることができました。
最後は潔くキックの世界から身を引いた
沢村氏は元々、27歳まで選手として活躍するつもりでいたのですが、人気が出てきたキックボクシング界ではあまりの人気ぶりで辞めると言い出せなかったそうです。
体が回復する前に試合に出たりしていた為、肉体的・精神的に限界が来てしまい、1976年7月2日の試合を最後に失踪し、その翌年には引退式をとり行いました。
キックボクサー沢村忠の基本情報
現役中はとても強く、キックボクシングを世間に浸透させた沢村氏は、これまで数多くの伝説を作っています。そんな沢村忠の基本的な情報、プロフィールを簡単にご紹介します。
プロフィール
- 本名・・・白羽 秀樹(しろはね ひでき)
- 愛称・・・キックの鬼、蹴りの白羽
- 生年月日・・・1943年1月5日
- 出身地・・・満州国新京特別市
- 国籍・・・日本
- 身長・・・174cm
- 体重・・・61kg
”沢村忠”という名前はリングネームとなっており、名付け親はキックボクシングの世界へ勧誘した野口修氏が付けました。沢村氏は現在に至るまでに結婚はしていませんが、1人の娘がいます。当時銀座の有名ホステス、大門節子さんとの間に娘をもうけました。婚約までしていましたが、実際には籍を入れず独身のままで現在に至ります。
一人娘「白羽玲子」
沢村氏の娘「白羽玲子」はタレント・歌手活動を行っていた人になります。当時のバラエティ番組「桜っ子クラブ」の看板娘でした。この番組でSMAPの中居正広がリーダーに決まった番組でもあります。
歌手活動では、人気ドラマ”特命係長只野仁”のエンディングテーマ曲も手掛けていました。現在では芸能活動を引退しており、一般人として生活を送っています。
沢村忠には多くの伝説的エピソードも
キックボクシングブームを引き起こした沢村氏は、様々なエピソードがあります。キックボクシングを始める前は空手をしており、その空手でもとても有名でした。一体どんなエピソードがあるのか、有名なものをご紹介します。
空手の世界でも負け知らず
沢村氏の祖父は空手をしており、小さなころから剛柔流空手道を習っていました。大学在学中では「全日本学生選手権」で優勝し、60戦無敗という記録を持っています。その為、空手界では「ツワモノ」と呼ばれていたそうです。本人曰く、空手の試合だけでなく、ストリートファイトでも負けたことがないと語っています。
試合が多く腫れが引かないときは荒療治で試合をこなした
現在の様に試合までにある程度の期間が空いたりしましたが、当時は試合の期間が短く、試合数もとても多かったので、体を休める時間がありませんでした。その為、怪我などで腫れていても試合に出ていました。ただ少しでも腫れを抑えるために、炊いたご飯をタオルに包み、患部に当てて無理やり治療をしていたそうです。
その他にも、患部にわざと熱湯をかけたり、額に傷があったときは黒いストッキングを巻いて試合に出たりと、簡単な治療を施してから試合に臨んていました。
王貞治氏を抑え日本プロスポーツ大賞を受賞
日本プロスポーツ大賞はその年に活躍した選手に授与されるとても名誉ある賞で、2018年では二刀流で活躍した大谷翔平さんが受賞しています。大賞受賞者には内閣総理大臣賞も授与されます。そんな偉大な賞を1968年に殊勲賞、1973年に大賞を沢村氏は受賞しており、大賞を受賞した年は、プロ野球選手の王貞治さんも候補に挙がっていました。
プロ野球で3人目の快挙となる三冠王を獲得しており、沢村氏と最終選考まで残っていました。そんな王貞治さんを抑えて沢村氏が大賞を受賞しました。
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沢村忠の現在は?①自動車の修理販売業も営む
沢村氏の数ある伝説などをご紹介したところで、現在の沢村氏はどのような生活を送っているのでしょうか?2019年現在では76歳と高齢になられているため、実際のところはわかりませんが、引退後の沢村氏がどのような活躍をしていたのかをご紹介していきます。
1999年のバラエティ番組に出演していた際に明かしていた
引退後は様々な噂がありましたが、1999年に「驚きももの木20世紀」という番組が放送されており、そこで報じられました。元々車好きな方だったので、引退後に見習いとして自動車修理の仕事に就いたと言われています。
自動車の修理販売業の傍ら少年空手の指導も行っている
キックボクサーとして有名だった沢村氏は、元々空手も習っていたため、自動車修理行うの傍らで埼玉県の方で空手の指導員として子供たちに指導をしていたそうです。引退しても空手に携わっているというくらい空手は好きだったのでしょうか。
沢村忠の現在は?②死亡説やアルコール依存症では?という噂も
現役最後の試合を終えると沢村氏は突如失踪しました。引退後、表舞台から消えた沢村氏のことで様々な噂がでました。表舞台に出てこないということはもう死んでしまっているのではないのか?アルコール依存症ではないのか?ファンの間で飛び交っていたそうです。
実際はデマでアルコールも受け付けない体質
引退して、表舞台に出てこなくなった有名人などはよく死亡説の噂が立つようです。沢村氏もその一人で、引退後はテレビなどで見かけることがなくなってしまったために、死亡説が噂されました。実際は、テレビ番組で沢村氏の特集などが報じられて死亡していないということが分かっています。
またアルコール依存症については、本人が語っており、沢村氏はアルコールが体に合わない体質でお付き合い程度のたしなみはあるくらいで依存症という情報もデマだったということになります。
沢村忠の現在は?③セイブシステムリンクの常務取締役?
自動車修理や空手の指導を行っていた時期と同じころに、セイブシステムリンクという会社の常務取締役にも就任していたそうです。この会社はパチンコ台の製造や販売を行っており、自社で企画したパチンコ台「CRキックの鬼」というパチンコを出した会社でもあります。
セイブシステムリンクはパチンコ台の販売会社
- 社名:株式会社セイブシステムリンク
- 本社所在地:東京都中央区銀座8-10-6 銀座MEビル4F
現在は東京の銀座に本社を構えているパチンコ台販売会社になります。パチンコ台の販売のみならず、遊技場の設備や備品の販売、店舗の設計など幅広く手掛けている会社になっています。
現在は引退か?
沢村氏が常務取締役となっていた時期はわかっていませんが、2019年現在、セイブシステムリンクのHPを見てみると常務取締役の欄には別の方の名前になっていることから、現在では引退されていることが分かります。