煩悩の数は「たくさんある」と言いたかった!
人の手に負えないぐらいとんでもない数、という表現は日本にも存在しています。
もっともよく聞くのが「八百万(やおよろず)の神」というフレーズですが、この八百万とは8,000,000のことでなく「ほぼ無限であるほど数多の」という意味です。まだ数に関する概念が世界共通でなかった時代に発案された独特な表現といえます。
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「数学的」煩悩の数108
どんな解釈もできてしまい神秘的な「108」という値。仏教だけでなく、ヒンドゥー、イスラムなどインド起源の多くの宗教に共通すると言われています。
我々が漢字に意味を見出してきたように、インド人も昔から、数字にたくさんの思想や概念を込めてきました。ではここからは印度流・数字に見る神の世界を紐解いていきます。
1+8=9
108の数字を1と0と8に分解し、足します。そうすると和は9になりますね?
インドでは9は神たる数字とされています。10と8を足して18にしても、その和を分解すれば1足す8でやはり9になります。こうして分解し、基本の形にてしまえば必ず9に行きつくのだといいます。
「9」は万物を示す
どのような答えも最後は必ず「9」にたどり着くことから、あらゆるものの繋がる存在、万物に等しきもの、だから「9」は神なのです。
さすが0の概念を発見した国だけあって、実に不思議な考え方をしています。
煩悩の数と元素の数
実は元素の数も煩悩に通じている?!誰が言い始めたのかはわかりませんが、こんなところにも仏教の教えを見出すなんて。
これはこじつけ?それとも真理?一体どういうことなのでしょう。以下から説明していきます。
元素の数「108」
現在は新発見されたものが加えられたため異なっていますが、かつてのインドでは元素は108個であると扱われていました。
仏教の教えをこじつけたわけではありませんが、それでも当時のインド人はこの偶然に運命的なものを感じていたことでしょう。
万物は108からできている
「この世のすべての存在は108種類の物質でできている」、自然とそのように捉えられるようになりました。
神を示し、万物を構成する「108」は、インドにおいてとても神聖な意味を持つ数字でした。
煩悩の数と宇宙
そしてお話の舞台は、ついに天体の世界へと飛び出します。
かなり壮大な話になってきましたが、そもそも仏教はお釈迦様の教えがもとになっているのだから、宇宙規模の話題もさもありなんといった感じでしょうか。実際、仏教の中では宇宙についても言及されています。
惑星の数「9」
太陽系における惑星の数は、つい近年まで冥王星を含めて九つ確認されていました。
そこに一年の概念ともなった十二星座をかけると、9掛ける12で108という回答になります。宇宙の中にも「108」は満ちているのです。
太陽の直系
さらに、巨大な恒星である太陽は直径1,391,000kmです。地球は12,742km、地球の約「108」倍なのです!お天道様までが「108」だなんて…。銀河系にまで及ぶお釈迦様の教えに脱帽です。
なお、宇宙の秘密に関して興味がある方は以下の記事もおすすめです。
煩悩の数と除夜の鐘の関係
さて、話を日本に戻します。日本においては「108」で最も有名と思われるのは、除夜の鐘です。
国営放送でも年末に流しているあの行事ごとですが、ではなぜ年末から年始にかけて、お寺の鐘を突くことになったのか?次からは除夜の鐘と「108」の関連性について解説していきましょう。
除夜の鐘の回数は煩悩の数
除夜の鐘は108回突かれるものとされていますが、お寺ごとに違いがあるため必ずそう決まっているわけではありません。宗派によっては回数にこだわらないところもあります。ですが一般認識として、鐘は煩悩の数だけつくものとされています。
煩悩の数だけ除夜の鐘をつく理由
鐘を突く理由として最も多いのは「その年の終わりに1年間の穢れや苦しみを打ち消しきって、心身ともに清浄な状態で新年を迎えるため」というものです。
翌年からまた悩みや辛さは積もっていくものですが、そのためにも年に一度のリセットは欠かせないものなのです。
数珠も煩悩の関係と同数
これは近年流行しているパワーストーンのブレスレットで、天然石それぞれに異なる効果があることで知られています。
これを「数珠」と思い込んでいる人もいますが、これはファッションであり数珠とは用途も目的もまったく違います。法事には使えませんし、本物の数珠には男女用の区別があります。
正式な数珠は108個の珠
数珠と一口に言ってもその種類は宗派ごとに異なり、それぞれ正式なものは本式数珠と呼ばれています。一方、日蓮宗を除いたどの宗派でも共通で使えるものは略式数珠と呼ばれています。緊急に用意するなら略式で構いませんが、自分の宗派を把握しているのであればぜひ本式を備えておきたいものです。
煩悩の数だけお経と唱えるための108珠
数珠の玉の数は108つあり、それをひとつずつ繰っていきながらお経を唱えることにより、人の欲は昇華されていきます。この動画は特大の数珠を用いた行事です。
またキリスト教もロザリオで同じように祈りを捧げます。間違われがちですがどちらもアクセサリーではないので身につけることはしません。
お経一つで煩悩一つを打ち消す
玉の数だけお経を唱えることで、心惑わせる欲望や苦痛から身を守る効果があります。
内なるところに存在する欲求に負けてしまいそうな時、またできる限り仏さまに近い場所にいたい時、仏教徒は経文と数珠に頼って自分に負けないようにしてきたのです。
煩悩の数を一文字で表す漢字がある?
この信じられないほど画数の多い字。これは煩悩を一文字で表した、画数108という非常によくできた漢字です。仏教の教えが見事に込められているのと、その画数の美しさからよく注目されていますが、実はごく近年発案された創作漢字です。
ですが漢字のすべては基本的に創作、百年もたてば立派な文字の一種として認識されるようになるでしょう。
煩悩から解放されるために「さとり」を開こう
つまり端的に言えば、煩悩は人の幸福を妨げるよくないものです。だったらそんなもの、ないほうがきっといいはず。仏教で目指すべきは心静かで穏やかな、いわゆる・・・「さとり」を開いた状態。
そういものを目指すべきなんじゃないの?と一度は思ったことでしょう。ですがお待ちください、あなたはさとりの何たるかを本当にご存知ですか?
「さとり」とは何か?
よく悟った=閃いた、諦めたという意味で使用する人がいますが、仏教的にはそういった意味ではありません。
さとりは人生観や境遇を一新させてしまうほど劇的な価値観の変化を指します。さとりを得るということは、虫が人間になるほどの違いがあると言われています。そして、さとりは生涯でたった一度きりのものではないのです。
さとりは全部で五十二段階ある
さとりは全部で五十二段階(位)があります。
たった1つでも難しいことが五十二回も起きるのです。それは途方もないことであり、修行を重ね高僧と呼ばれるほどの地位についた僧侶でも、十段階進めればとんでもない偉業と言われています。それほどまでに人の身には困難なことなのです。
油断するとさとりがパァに?!
さとりは四十段階目までは退転(たいてん)位と呼ばれ、油断するとあっというまに崩れてしまうほど不安定なものとされています。一度悟ったからといってずっとそのままでいられるとは限らない、元に戻ってしまうことも充分にありえるのです。
なお四十一を過ぎると不退転位、何があっても揺るぎないさとりの世界に入るとされています。
阿耨多羅三藐三菩提
さとりの最高位、五十二番目の境地に辿り着くことを正覚、また「アノクタラサンミャクサンボダイ」と呼びます。
仏教の目指すべき真理の境地に至った人。これは仏教史上たった一人しか達成していません。そう、ガゥダマ・シッダールダ。仏教の開祖であるお釈迦様、その人だけです。
普通の人間には遠すぎるさとり!けれども…。
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」(引用:仏教ウェブ)
これは、真にさとりに至ったのはお釈迦様だけ、という意味の言葉です。
常人に至るにはとても無理な境地!…と思って決してあきらめないでください。たとえ同じさとりを開けなくとも、真の幸福を探求することはとても大切です。せめて一段階でいいから悟ってみたいものです。
煩悩を消せば人は幸せになれる?
悟るのは無理でも、どうにかして煩悩を消したい!だってそうすれば辛さも苦しさもなく、幸せに生きていくことができるのでしょ?どうすればこの我欲を消滅させられるの?!・・・と思った方も多いことでしょう。
ですが大変残念なお知らせです。たとえどんなに大変な修行をこなしたところで、欲望を完全に消すことは不可能なのです。
煩悩は、決して消せない
仏教には煩悩具足という言葉があります。「具足」とはそのように出来ているという意味です。
我々人間は、悩み欲するようにできている。つまり人は欲望で構成された生き物だということなのです。我々から煩悩を消してしまったら後には何も残らない、ただ消え去って無になってしまうだけなのです。
煩悩とうまく付き合う方法を見つける
僧たちは修業で欲求や渇望を消そうとしているわけではありません。そんなことをしては人ではいられなくなってしまいます。ただ、付き合い方を変えるように努力しているのです。
同じ事象でも見方次第で、苦が楽に転じることもたくさんあります。雨の日は憂鬱ですが、庭木の花が咲くためだと思えば待ち遠しくなるものですよね?
仏教における究極の幸せ、煩悩即菩提
煩悩即(ぼんのうそく)菩提とは悩み苦しみが喜びに転ずるという意味の仏教用語です。
仏教が目指す境地とは、煩悩そのものである人の在り方を変えることではありません。あるがままで、しかし究極の幸福に至れるように、感じ方や考え方を一新させることなのです。
渋柿の渋がそのまま甘みかな
これは昔から伝わっている歌で、食べがたいような渋い柿ほど、干した後は甘い甘い柿になるという意味です。
柿は柿であり何も変わっていないのに、そこに気づいた者だけが渋さを甘さに転じることができる。煩悩とさとりは表裏一体であると教えてくれる大切な一句です。
まとめの煩悩の数「108」は奥が深かった!
煩悩と「108」の数、仏教、さとりの世界が本当に奥深いことがよく分かりましたね。お坊さんですら生涯問い続けるという難しさですが、自身に投げかける問答自体も修行となります。
たとえ真理は遠くとも道の先に必ず存在するのですから、諦めることなく自問自答を繰り返し、幸福の境地にわずかでも近くよう努力をかかさないようにしましょう。
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