わずか2年で退職しています。その後も職を転々とし長く勤めを果たすことができずにいました。中学卒業しただけというコンプレックスが、未来の可能性を縮めていったのでしょうか。
この時代は高度な技術を用いた経済発展が著しく上昇していたので、仕事を辞めても次々に見つかったのでしょう。自分に少しでも合わないと感じれば他を探して勤めるといったことを繰り返していたようです。
客の金を小豆相場につぎ込んで解雇されることも
商品を取引する業者に就職が決まり、頭角を現していきます。営業成績は優秀で高い評価を会社からも受けていました。ですが、勝手に顧客から預かったお金3000万で小豆に投資していたことがバレてしまいます。
この一連で解雇となってしまうのでした。その後も職は安定せず転々と渡り歩きます。素行が良いと言い切れず大垣にある競輪場のトイレで盗人をし逮捕されている罪歴が残っています。
1981年「大阪豊田商事」を設立
自分が経営者になることを決意しました。名前の由来は2つあり、自分の一番最初の就職先の大元が豊田であったこと、世界の豊田の名を出すことで信頼度を高めるためにつけたようです。
1年後にはさらに似せようと豊田商事に改名までしています。当初からペテン師を働いており、お金だけ集めて商品は渡さないペーパー商法を取り入れ多額の富を得ます。
高級車を所有し、クルーザーも持っていた派手な生活をし始めたのです。自分でも予知していたのでしょうか。顔を知られると誰に殺されるかわからないと言い社員にも顔を見せなかったのです。
永野一男は生涯を未婚で通した
生涯を共に過ごそうと慕う相手がいたとしても、結婚せず独身を貫きました。悪行から家族までも自分のせいで怖い思いをさせてはならないと思っていたようです。
15歳で両親と離れ暮らしていたため、温かな家庭を作ることに夢を抱いていたでしょうが自分が犯してきた仕業で迷惑を掛けられず、後にも引けなかったため家族を作ることを諦めたのです。
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豊田商事会長刺殺事件被害者の永野一男が会長の豊田商事とは?
たくさんの資産を一代で築き上げ、誰に殺められるかわからないことを心配した永野でありますが、どんな社風だったのでしょうか?ブラックな中身を覗いてみましょう。
悪徳商法で大金を稼ぐ
高齢者をターゲットとし、純金などの商品を購入すると自分が動かなくても株のように儲かるといううまい話を持ち掛けます。
怪しまれないように、被害者の自宅に上がりこんで身の回りの世話を手伝い、高齢者の不安を払拭する行動に徹していたようです。現在の悪徳な企業の起源ともいわれる手口を作り出しました。
「葬式代までふんだくれ」がモットー
情につけこんでいき、次々と容赦なく財産を奪っていくのです。被害者の中には緊急時の積み立ても、万事失ってしまったことで、生きる希望をなくしてしまい自ら命を絶った人が続出しました。
相手のことなど一切考えず、あるもの全てを奪っていく悪質さだったのです。最期の旅立ちのためにコツコツと貯めた資金さえも奪われてしまったら、生きる希望や力も失せてしまうでしょう。
系列会社でも悪徳商法をやっていた
たくさんの支社を設立していき大企業にまで昇りつめました。実情は人を騙すためだけにある会社であり数多くのペテン師がいたのです。
大企業から話を持ち掛けられたら疑いも少なく、信頼してもらいやすいと悪行を働いた結果が会社を増やすことに繋がったのではないでしょうか。
某大手自動車会社に似た名前には思惑があってのことだった
今や世界的企業にまで成長している優良企業です。同じ名をつければ誰もが同じだと感じてしまうでしょう。これが彼らの狙いだったのです。
大金を出させるには信用が重要と考え、躊躇なく大金を出させるには使えるものは使おうという悪徳さが滲み出ています。トヨタ自動車会社とは全くの接点がない会社であり、繋がりもない会社です。
多くの人が有名な大手と関連する会社だと信じ込み、有名人もコマーシャルに出演するなどして知らずにアピール商材となっていました。
視聴者も著名人がCMに起用されるところだから安心だと思い込み、さらに被害を大きくしていったと思われます。全て彼の思惑通りの道筋だったのです。
豊田商事会長刺殺事件後の豊田商事は?
世間を賑わせた企業でありましたが、騒動後はどうなったでしょうか?ボスを失ったことで舵を取る人物がいなくなりました。新しい道を開いていくことになったのです。
大きな成功を収めた人物もいました。ご紹介していきます。
豊田商事は事件直後に破産宣告を受けて解散
手広い事業をしていましたが、内情はというとうまくいっていない会社もあったことから損失が大きく、企業としての資本金がほとんどない状態でした。
上場起業を装っていただけで、実情は火の車だったようです。実際に社長であった永野の殺されたときの持っていたお金が、物語っているように711円のわずかな小銭だけでした。
社員たちは月に1000万もの給料を手にしており珍しかったオートロックマンションに住んでいたと言われていますが彼はというと、庶民的なマンションで室内も必要最低限の家財道具のみで、セレブリティーな生活とはかけ離れたものでした。