気配りの良い兄弟であり、次女のその後はというと母を思ってか、法律の道を進んだという話もあるのです。実は歌を聴かせてもらった母は聴いていて涙したと言うほどだったのでした。
特にひどいいじめを受けたという噂がある末っ子
何も知らなかった時だからこそ、いじめの対象になると親の責任はかなり影響します。末っ子も例外ではありませんでした。長男達に守られていたとはいえ、目の届かない場所でのいじめは特にひどかったと言います。いじめる側は、弱い者を対象に攻撃すると言えるでしょう。強い者には勝てないことを分かっているかのような行為は、末っ子にも及んだとされています。
大体が集団でいじめをしてきますが、弱い心に漬け込んで痛めつける行為はどこであってもいけません。また特に一番小さかった末っ子にまでいじめが横行していたのは、卑怯でありますが現実なのです。
当時4歳だった彼女に何も分かるわけがないのにも関わらず、横行していたいじめは子供たち、そして特に末っ子に向けられたと言います。一番知らないと言ってもおかしくない人間に攻撃するなど、本来はあってはならないことでしょう。
兄弟、そして姉妹に襲いかかってきたいじめでしたが、子供同士だけではなく大人からも迫害を受けたことは差別という他、卑怯ですらある事柄といえるのでした。
現在は林真須美の息子が和歌山カレー事件の取材を受けている
林真須美の息子が真相を求めていることに少し触れましたが、冤罪の可能性を秘めつつ、実はそれが本来の目的ではなかったことも話しています。「父や姉妹」や、和歌山カレー事件の被害者にこそクローズアップされるべきだとも述べているのです。息子である長男は、数多くの取材を受けることになりましたが、長男の本来の目的とは何かを探ってみると、そこには冷静に判断をしている姿が映し出されます。
そこには林家に起こったことではなく、遺族を思う気持ちであり取材を受ける本当の意味が込められているのです。死刑制度廃止を訴えるのではなく、本当の意味は何か、ネットのバッシングを受けつつ、磨りガラスに映る姿こそ真実と言えます。
長男が取材を受ける目的
長男が母親である林真須美のもとを訪れる回数が、増えたという話がありますが、その内容は冷静で「時折変化する母親」の姿を映し出しているものです。父親のもとを訪ねると、次の日にはニュースになるほどの過熱ぶりに奮起した長男の姿があります。
「自分の過去話や、いじめについてが問題ではない」とした上で、姉妹や父にこれ以上バッシングや過熱する取材の手が伸びないように約束した上で、姉妹の反対を押し切り出演したと言います。
全てを語った上で、長男は遺族にこそ真相をきちんと伝えなければならないと告げるのです。大切なことの論点が林家に向けられるのではなく、遺族のケアこそ最も必要なことであり忘れてはいけないこと、そして目的は真相を伝えること、自身が知りたいことだとも話します。
再び掘り起こして欲しくはないという意見もある中で、なぜ長男はメディアへの出演に踏み切ったのでしょうか。ネットでは今もなお囁かれているデマや中傷、または応援の言葉などからも風化させることで真実が隠されてしまうことを危惧しているのかもしれません。
林真須美の長男によるTwitterでの母からの手紙の公開
林真須美が書いた手紙の公開にも踏み切ったのは長男です。それはTwitterでの母からの手紙ですが、踏み切った理由は林真須美が抱えている心の葛藤なのかもしれません。死刑執行は突然告げられるので、毎日怯えていることが綴られていますが、死刑囚の思いもまたあまり見れる手記ではありません。
冤罪を訴えつつ、早く死刑台から出して欲しい、子供のもとに返して欲しいとの願いはどこまで届くのでしょうか。今では5000人をも超えるフォロワーもいる中、当然ですが賛否両論、意見はあります。Twitterはなぜ開設されたのでしょうか、そこに秘められたことは誰もが知りたいことかもしれません。
そもそも林健治の語る内容に、林真須美のことについても5回もおかしな味がしたら毒だと気づくといった内容もあるのです。また、保険金詐欺が1人でできるわけがない、協力者がなぜ共犯として捕まらないのかといった疑問も浮上しています。
それらを含めても、林真須美の下された判決は正しいか否か問われることになり得るでしょう。長男の目的は真相を伝え、その本来の「真実」を知りたいことなのでした。
林真須美の長男によるインタビューへの協力
真相を伝えることで遺族の感情を逆なでることになる、などの意見もある中でも協力したのは、冤罪を訴える内容も多いからです。「国家に殺される」「再審を早く」との手記では、その恐怖感が伝わってくるでしょう。「子供に会いたい」と願う親の感情もまた見て取れる内容になっています。
インタビューへの協力は真実の追求のためであること、一番の被害者は亡くなった方で有り遺族だということを語っているのです。決して「母は冤罪です」といった内容ではなく、真摯に受け止めた内容になっていることは確かでしょう。
これから紹介したい映像がありますが、ご覧になると不快を感じる、考えたくない、思い出したくないという方は視聴を避けてください。
あくまで長男から見た姿であり、長男が訴えたいことが真相であること、磨りガラス越しに話している長男には非がないことを踏まえた上で、林真須美の長男が何を語るのかを紹介いたします。
林真須美の長男によるAbemaTVへの出演
長男もまた苦しめられた1人ではありますが、1人の人間として真実の解明に向き合っています。そしてこの出演によって、彼にバッシングが及ぶことも承知の上で出演しているのです。彼は遺族に配慮し、母や姉妹にも気を遣っているのではないでしょうか。
1人で全てを受け入れることはできないので、中傷は受け止めるつもりであっても彼の心に土足で踏み入れることは避けないといけません。出演にも勇気が必要だったこと、前向きに捉えていること、彼もまた成人しているとはいえ、1人の母の子供だということを忘れず、こちらをご覧になれば誹謗中傷がどれだけ弱い立場だからこそ発することだと感じるかもしれません。
林真須美の長男は全てを受け止める覚悟で出演したのです。素晴らしいのではなく、それこそ遺族に対しての謝罪も込めての意味だと長男は語ります。
AbemaTVへの出演は、遺族の感情を逆撫でる意味ではなく、1人の成人男性が周りの意見も尊重しながら、自らが語ることで家族へのメディアからの追求の過熱ぶりも抑える意味もあるのでした。
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死刑判決の判断に用いられる永山基準
1968年10月〜11月にかけて、4都道府県をまたにかけて起こった、19歳の犯人永山則夫です。その残虐さから異例の未成年による死刑判決が下ります。上告し、無期懲役になるも「愛情を受けなかったことに同情の面はあったとしても、4人をも殺害した事件は重い」として、少年法による昭和では最後となる未成年での死刑が確定したのです。
この事件が元になり「永山基準」となる死刑判決に必要となる9つの項目が採用されることになったのでした。実名で公表された少年による死刑判決は、この事件を機に少年による死刑判決のあり方が問われることになります。
それほど影響力が大きかった事件は今も受け継がれていて、死刑判決の際には用いられているのです。昭和最後となる未成年での死刑判決は後になく、最高でも「無期懲役刑」が基本になります。
未成年に限ったことのように思えますが、死刑判決の際には「永山基準」は基本となる部分なので死刑判決が下される際には、用いられる内容になっているのでした。
日本の死刑は永山基準が採用されている
北海道、東京都、愛知県、京都府の4都道府県にも渡って起きた銃による事件が、1968年の永山則夫当時19歳による事件です。この事件が判例になって死刑の基準は名前から取られて今に至ります。
犯罪の性質、犯行の動機や残虐性、重大性や被害者の人数、前科や社会的影響、年齢や前後の情状なども踏まえた9つの内容が、日本では死刑判決の基準になるこことされているのです。
これらを踏まえた上で、心神喪失でもない限り、3人以上の殺害でほぼ死刑判決になります。もちろん人数はこれに限ったわけではなく、中には被害者が1人でも死刑判決が下ることもあるのです。
ただそこには背景に条件があり、もちろん「永山基準」が用いられ左右されることはほとんどと言えます。ただし、量刑に限る内容ではあるので、証拠も動機もきちんとある上では限ったことではありません。
永山基準は量刑に関する内容に限る
全ての判例に関係していると言えば、そんなこともありません。特に今では裁判員裁判になっているので、あくまで「基準」であり、そこにプラスした要素も加わっています。
量刑に関する内容に限って採用される基準ですが、量刑とは言葉の通り「刑の量」で、状況によって死刑判決にしても、人数や遺族の被害感情なども考慮されるのです。
ただし、猟奇殺人などでは1人の被害者だとしても、社会的影響や年齢、背景などで基準を元に特に死刑判決は決まると言えます。基本的には永山基準が土台にはなっていますが、どういった事件がメインで1人の被害者でも採用されるのでしょうか。
永山基準によると、1人の被害者では死刑判決はないのが基本ですが、逸脱した判例ではあり得るのです。死刑判決が無罪になる例もありますが、様々な要素が加わって刑罰から抜け出たと言えるでしょう。そこには量刑が該当しない、確たる証拠や真犯人がいたことは確かかもしれません。
死刑判決は殺人事件だけではない
死刑判決が下されるのは、殺人事件に限ったことではありません。1人の被害者の場合には、仮釈放中の無期懲役囚が事件を起こしたり、身代金誘拐で計画的以外でも死刑判決が下った例はあるのです。そこにも関係してくる事柄がありますが、残虐で不当な動機、なおかつ誘拐などでの判例もあるのです。
近年問題になった事件で指導者が直接犯罪を犯したわけではないものの、重大かつ社会的影響が大きかった地下鉄サリン事件では、死刑判決になった麻原彰晃などもいます。
ほぼ「テロ」の指導者だった存在で、すでに執行されていますがこのような犯行もあり得るのです。基本的には1人の被害者では適用されないのですが、中にはテロの主導者も含まれます。
麻原彰晃の場合は「内乱罪」が適用されたのですが、直接関与ではなくテロの主導者が問われれる死刑判決です。自ら手を下さないから免れるわけではないことにも、注目しないといけません。
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過去の判例と死刑
中には当然死刑判決から一転、逆転無罪などという事件はたくさんあります。ただし、それらは「新たな証拠」「真犯人」など様々な要素が絡んでいるのです。量刑不当とは、意見の食い違いからなる「理由齟齬(そご))や審理不尽などの理由で再審請求できることを指します。
ただ、あくまで食い違いや納得のいかなさなので、再審請求自体はできるのです。死刑判決を言い渡されて、量刑不当で再審が認められたことは昭和を最後にありません。判例は日々変わっていくので、今後どうなるかは不明です。
どこでどう転ぶか分からないのが裁判なので、被害者に考慮しながら判例にも関心を持つのはいかがでしょうか。また前に述べたように、本来の基準の見直しも検討されているのが実態なのです。
そこには事件の残虐性や、年齢層が若くなってきていることも理由に挙げられるでしょう。ただし、1つの事件がきっかけで判例が変わることは大いにあり、冤罪判決の事例も中にはあるのです。それは量刑ではなく、新たな証拠や真犯人が現れた時が多いことが伺えます。
日々判例は生まれている
判決は1つの事件に限って決められるものではありません。新たな判例は生まれ、弁護人や検察側はその判例を用いて答弁をし、裁判官がその判例を見て捉えて他の事案とも照らし合わせて判決が下ります。日々判例は新しく生み出されていることが言えるからです。死刑判決だけでは特に重い刑罰が言い渡されますが、諦めずに向き合っていると、それが判例として後々残る場合もあるでしょう。
「どこでどの判決が下った」という点を踏まえて、日々変わることがあります。それはとても大きいことのようで、実は意外に近くでもあり得ることができるのではないでしょうか。ではどこで判例の変更は認められているのでしょうか、決して裁判官1人の判断ではありません。
判例の変更は慎重さが求められる
1つの事件を左右することが伺える判例ですが、日々変更がなされるといっても公正でなければいけません。最高裁判所(最高裁)で慎重さが最も求められることも、判例の変更に必要なことです。当然裁判官が自由に変更できる、容易なことではないことが伺えます。
しかも数多い判例を照らし合わせて、公正に判断することは容易なことではありません。判例委員会という場所があり、適切に判断されますが相当数ある事件を比べなければならないのです。決して最高裁のみで判断して、裁判官が変更するのではなく、判例委員会の中での取り決めがあります。
そこで適切か否か判断する上に、何でも新しいのではなく、上級審の判例が優先されることのなっているのです。最も影響力の高い、上級クラスの判例が新しさより最優先されるのは当然とも言えるでしょう。
それだけ死刑判決を決めるのは容易なことではないのです。現在では裁判員裁判によって、量刑のあり方が問われることは確かで、冤罪をこれ以上防ぐための取り組みもなされているのでした。
林真須美の動機は不明のまま死刑は執行されるのか
林真須美の過去や生い立ち、または冤罪の可能性もあることにも触れましたが、どう感じたでしょうか。本当に死刑判決は妥当だったのか、それとも冤罪なのでしょうか、長男の話にもあったように真相を知りたい声は多くあることでしょう。和歌山カレー事件では、負傷者や死者が出た大惨事であり、風化させてはいけない事案でもあります。
林真須美の訴える再審請求の行方は今後どうなっていくのか、本人は恐怖を抱いていることです。同時に遺族こそ真相を知る権利は当然あることが言えます。また、答えはどうでも良いから、早く忘れ去りたいと願っていること人たちはたくさんいるのではないでしょうか。そして時間が取り返せるなら、と願うのが遺族の心の叫びなのはいうまでもありません。
基準を考えてみても、今回の事件はどのような結末を迎えることになるか、動機が不明のまま死刑は執行されるのでしょうか。言えることは、林真須美は日々執行の日に怯えつつ再審を願っていること、そして一番は遺族の感情が重点だということです。言えることは、林真須美は日々執行の日に怯えつつ最新を願っていることです。
また家族の葛藤もそれに応じて続いてくことでしょう。それと同時に今尚傷の癒えない遺族がいることも確かなことで、恐怖心は簡単に拭えるものではありません。解決したように思える事件は、関係者の目には鮮明に昨日のことのように映るのは確かなことです。死刑判決は下りましたが、執行されたわけではないのです。
このまま死刑が執行されるか否か、見守りつつ、忘れたいけど忘れることができないと葛藤する遺族がいることを頭に置いてなければいけません。一番苦しいのは遺族ですが、まだ幼かった命もある中、失われたのはそれだけではなく遺族の心に空いた空白の時間でしょう。
大惨事がこれから先できる限り起こらないことを願いつつ、事件がどうなるか行方を目に焼き付けておくこともまた大切ではないでしょうか。同じことが繰り返されないための教訓とするため、そして眠れない日々の中の遺族のためでもあります。