林真須美と和歌山カレー事件の現在|生い立ちや冤罪の可能性、息子の活動も

林真須美は和歌山毒物カレー事件の犯人として死刑判決を受けています。ですが、証拠は不十分な点があり、現在も冤罪を主張しています。林真須美には4人の子供がおり、みな壮絶な迫害を受けてきました。現在の長男は、現在Twitterなどで母の情報を発信しています。

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林真須美と和歌山カレー事件の真実とは

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幼少期は明るく素直な性格だったものの、時に不安定さも現れる犯人がいる「和歌山カレー事件」であり、恐ろしい事件を起こした人物こそ、冤罪を疑われている林真須美(当時37歳)です。1961年7月22日に和歌山県で生まれ、3人の中で兄2人の中では末っ子の女の子で、裕福とも捉えられる環境で育てられたとされています。

裕福さとはかけ離れた結婚生活が待っているとは、当時の彼女自身ですら想像しなかったことでしょう。後に社会を揺るがす大惨事を生み出すことになるとは思いもよらず、夏に生まれた彼女が同じ時期に事件を起こすことに繋がるとは、その時誰も知る由がありません。

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和歌山カレー事件、犯人の林真須美が起こした事件に隠された、本当に真実はどこにあるのでしょうか。「毒物」や「無差別」または「状況証拠のみ」とされた事件でもあったのです。暑い夏の夕方に開催された「夏祭り」に出されたカレーに潜まれていたのは、亜ヒ素という毒物。

事件まで何があったのか、どの経緯を辿って林真須美は逮捕され判決が下ったのでしょうか。林真須美の生い立ちや現在に至るまで、思いの丈から分かる真実について、掘り下げてみますのでご覧ください。

林真須美が起こしたとされる和歌山カレー事件とは

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多くの人が出入りする場所だった和歌山県和歌山市園部で、近所では、例年楽しみとされていた「夏祭り」の楽しい場で起こった凄惨な事件でした。交代で当番だった時に、その場にいたとされる人物こそ林真須美だったのです。夏祭りの最中に様子が変わり、カレーに違和感を抱いたのもつかの間、嘔吐や腹痛、下痢などによって多くの人が救急搬送されます。

1998年7月25日、奇しくも林真須美の生まれた時と重なる時期の夕方に起こった「和歌山カレー事件」では、交代とはいえその場にいたとされた林真須美が疑われたのです。残っていたのは紙コップに付着していた毒であり、その後の報道でヒ素ということが分かります。指紋は残っておらず、近くにいた上に近所とトラブルがあったという理由から疑われたのです。夫の元の仕事にも猛毒が関与していたため、状況証拠から林真須美は逮捕されました。

カレーに混入した毒物により4人が亡くなった事件

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カレー以外にも夏祭りには出されたおでんなどの屋台が連なっていたものの、誰もが口々に他のものではないと言います。カレーを食べた時の違和感は誰もがおかしいと感じ、被害にあった人物だけでなくその後社会でも問題になり、しばらくは食べれなくなったともされたのです。実際に鑑定された内容では亜ヒ素が仕込まれており、後に鑑定と状況から他に犯人の可能性はないとされ、林真須美はメディアでも多く取り上げられます。

逮捕前のクラクションを鳴らしてマスコミを退けたり、水をかけて邪魔さをアピール姿は逮捕されるまで連日テレビを騒がしたのです。事件では多くの死傷者が出ることになり、その数63人の負傷者、当時64歳の自治会長、当時副会長54歳、当時高校生だった16歳の女性と当時小学4年生だった10歳の男の子の4人もの死者を出す大惨事になりました。

林真須美の裁判の行方と判決

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別の殺人未遂と詐欺未遂によって逮捕されていたこともあって、この和歌山カレー事件で当時は青酸カリによる殺人と殺人未遂で別件扱いで再逮捕されることになります。その後成分が亜ヒ素ということ分かります。当初から「殺すわけがない」と言い続けていた林真須美でしたが、1999年5月13日に一審の初公判を迎えること95回、二審では12回もの回数を重ねたのです。

一審だけで3年7ヶ月もかかるという長期にわたる裁判でしたが、直接証拠や動機はそもそも何だったか不明なまま裁判だけが進んでいくことになります。その間も確たる証拠が不十分として、周りでは冤罪の可能性があり犯人は他にいるのではないかとも囁かれていました。

死刑判決

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状況証拠として数多く提出をした検察側ですが、弁護人からは「無差別に命を狙う証拠がない」として、無罪を主張するのです。「動機が解明されないままでは、犯人を認定できない」と弁護人は告げ、一貫して無罪を主張し続けます。2002年12月11日「4人もの命を奪った結果は重大で、遺族の叫びを胸に刻むべき」として裁判長は判決を下し、検察側の求刑通りの結果である死刑判決が下ったのです。

即刻上告するも2005年6月28日「犯人であることは疑う余地がない」として棄却されますが即日控訴しますが、同年4月21日には「状況証拠や鑑定結果から犯人であることは間違いない」とされ、再び棄却されるのです。同年4月30日には林真須美は判決の訂正を求めるものの、同年5月18日再三にもなる申請も棄却され死刑が確定されました。

林真須美の現在

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2009年7月22日には再審請求として「新たな証拠」という存在が弁護側から提示されます。「会場のコップに残されていたヒ素と、自宅のシロアリ駆除用のは種類が異なる」と鑑定士が提示したものです。更には「鑑定方法も異なっていた」としていたことが弁護側からされます。

当時から状況証拠のみとされていた事件は、2017年3月29日棄却されますが、同年4月3日までに敏速さが求められ執行停止を認めることもできる申し立て、即時抗告をしているのです。果たして状況証拠だけが認められるとも言える、死刑判決はどうなるのでしょうか。彼女は現在死刑囚ではあるものの、事件と戦っているのでした。

林真須美は大阪拘置所にて拘留中

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林真須美は服役中にもイジメを受けたと言います。大きな脚光を浴びた事件であり、メディアに対して水をかけたりなどする報道が連日されたのです。当時の様子を見ていた人物からは、イジメの対象になりやすいでしょう。それは正しい行動ではありませんが、勾留中のみでも死刑の執行は1時間前に突然されることから、声がかけられる前に冤罪を証明したいとしています。

ではどこに収監されているかというと、大阪拘置所に現在も拘留されているのです。ただ日に日に時を待っているのではなく、様々な行動で冤罪を証明しようとしているのでした。

林真須美は獄中にて絵を公開

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胸中を表現するのに絵を描くという方法がありますが、思いの丈なのかそれとも芸術とも称されるかは不明ですが、林真須美も絵を公開し、死刑囚のみが描いた作品として出展しています。時に不満もありつつ、思ったままの作品はまさにアート(芸術)とも言える作品です。

作品は全て獄中に描かれたもので、色紙に描かれた作品が大半を占めていると言います。その作品とは赤や黒で表されたもので、どこか何かを訴えているような絵で怖さをも感じるかもしれません。単に公開しているのではなく、思いもまた込められているといって良いでしょう。今では独房にいるとされている、林真須美は何を思い描いているかは謎に包まれたままです。

林真須美は現在も冤罪を訴えている

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ここで不思議ができごとがあったのです。それは目視者が白い半袖のTシャツに髪が中くタオルを巻かれた女子高校生、ところがその場にいた林真須美はTシャツの色が黒だったのです。その場に当てはまるとしたら、蓋を開けた次女と言うことになるのです。ところが次女は味見すらして、林真須美はお昼過ぎ30分、事件は夕方と時間にも違いがあります。

三女と林真須美は夏休みの後、青そびがてらにでけてることだったことは、子供も巻きぞえになるでしょう。他にも事件の数時間前から、10人を超える主婦が交代で当番をと言う状態です。

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誰でもが近寄ることができたわけではなく、誰にでも近づけるオープンなスペースで致死量もの毒物の混入はハードルが高いこと、カレー作りを作ることのですら参加をせず、当番にもり参加しなかったことなどもあるでしょう。

必ずしも林真須美1人だけが長時間その場にいたわけではない、と言うことで現在もあくまで状況証拠に過ぎなかった、鑑定ではヒ素の種類が違ったことなどが冤罪を主張している理由です。また送り主の名前を書かない手紙を、子供に送って気遣う一面もあるのでした。

林真須美の生い立ち

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ここで林真須美の生い立ちについて紹介いたします。2人兄と末っ子だったこともあってか、小さい頃から当時では珍しいとされたピアノを購入してもらったり、お小遣いも人並み程度に与えられて決して恵まれない環境で育ったわけではありません。

そんな林真須美ですが普段から仕事熱心な父と保険外交人をしていた母ので、両親がいない生活になり、ねじ曲がっていた行ったと言う証言もあるのです。両氏の元に育ったことを考えると、忙しい時期には何かと寂しいとも言えたでしょう。「明るい子」と近所でもされた幼少期ではあったものの、どこか負けず嫌いな一面もあったとされています。「大人しい子」との印象が持たれていたのでした。

ごく普通の子だった子供時代

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明るい子だったともされる幼少期だった林真須美は、普通の子供そのものだったのです。家などの手伝いなどもするごく普通の子供で、むしろ進んで母親のサポートをしていたと言います。恥ずかしがり屋で、清純なイメージすらあったほどとされていたほどです。その反面親のしつけが厳しかったこともあったとのことで、時折別の一面を見せるなどもあったとされています。

誰でも他の一面があることが伺えますが、決して二面性があるのではなく、別の行動をとるのには感情表現の仕方だったのではないでしょうか。その点からすると、少し幼少期に何らか危険な兆候が現れていたのかもしれません。

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