八甲田山雪中行軍遭難事件は最も多くの死者を出した遭難事故
登山に関連する事故で、世界の中でも最も多くの死傷者をだした騒動として記録されています。明治35年の青森県にそびえたつ山帯で発生します。
大日本帝国の陸軍である第8師団歩兵第5連隊として訓練に参加した210人のうち、199人もの多くの隊員が亡くなりました。
これには日清戦争が関係しており、極寒であった朝鮮の戦闘はかなり体力を奪われ、苦しいやりとりだったようです。
次こそは同じ繰り返しをしないようロシア戦に備えての訓練最中だったのです。多くの若い命が絶たれてしまった経緯について詳しく検証していきます。
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八甲田山雪中行軍遭難事件は参加者の殆どが亡くなった過酷な軍事訓練
現在では平和こそが素晴らしい世の中という考えが浸透していますが、当時は違いました。力あるものが全てであり権力があるものが誇りなのだという思考だったため戦争が多発しています。
そのためには日々の厳しい訓練を積み重ねなければなりません。国民の代表として強くあるため、そして日本の誇りとして動いた若者たちの儚い命が絶たれてしまった悲しき真相について詳しくご説明していきたいと思います。
八甲田山雪中行軍遭難事件は物資の人力ソリ輸送を試す調査訓練
ロシアへの戦闘態勢を万全にするため、事前の調査を行いました。青森隊(第5連隊)は物資を送る担当を任されました。敵も勝ちたいため狙いを定めてきます。
攻撃を仕掛けてくる兵らを弱らせる作戦を仕掛けてきたことを想定したものでした。列車周辺を襲ってきた場合、物資が送れずの状態に陥ります。
そうなれば兵士たちが食べる食料もままなりません。そうなれば敵陣は勢力を強めず優位になることができるでしょう。日本軍が確実に物資を送る道の確保で力を保てるよう、ソリを用いて運ぶ練習を行いました。
同シーズンに、弘前隊(第31連隊)は寒空で過ごすときの服装や今までの訓練最終調整のため極寒の地へ挑みました。2隊が豪雪地域に足を踏み入れたのです。
寒さのあまり体に支障がきたさぬよう万全を期したかったところではありますが、自然を甘く見たばかりに届かぬ思いになってしまったのです。
八甲田山雪中行軍遭難事件の移動ルートと訓練日程とは
目指す場所は、青森から八戸の約98㎞の道のりでした。徒歩で向かうには約20時間もかかる距離であり雪の激しい時期ではその倍以上の時間を要したと考えられています。
1月23日の寒さ厳しく痛いほど風が吹きつける時期に実行されたのです。予定は1泊2日の最短日程で計画を立てられました。休息する時間は省いた過密スケジュールでした。
八甲田山雪中行軍遭難事件は事前の準備不足が要因で大惨事となった
自然は壮大であり、ときに恐ろしささえ感じるほどの偉大なパワーを私たちに見せしめます。想像もできない力こそが自然の素晴らしさではあります。
このときも予想もしていなかった出来事が起こり、人々を苦しめることとなるのです。計画を練っていたであろうことが、実は準備不足であり自然を甘く見ていた結果でもあったでしょう。
服装は雪国に相応しくない薄い綿生地と、防寒用として毛布が支給されただけでした。事の詳細については、後に詳しくご説明していきます。
八甲田山雪中行軍遭難事件は210名中11名だけが生還を果たした
もともとこの地域は豪雪地域で名が知られていました。その年は、いつもに増して寒さが厳しい年で10度前後気温が低かったことや、出発した日はシベリアから寒気到来で気温がグッと下がっていたのでした。
寒さがしのげない服装と最悪な条件が組み合わてしまったのです。壮絶な山中を彷徨った挙句、遭難してしまったのです。210人が訓練に出向きましたが、たった11名しか命あるまま帰っては来れませんでした。
命は保証されても、手足の切断を余儀なくされ五体不満足な日常生活は多くの支障がでたことでしょう。絶命した死因は凍え死んだものでした。
指先が凍傷が原因でしびれが起こり動かなかったためズボンのチャックが下ろせず、そのまま放尿してしまい、そこから凍ってしまったことで命を落とした兵もおりました。
それほど、極寒だったのがうかがえます。遺体発見時には冷凍マグロのようになっていたため慎重に運ばなければ、骨が砕けてしまうほどだったようです。安置所へ運び終えると解凍を施し、綺麗な軍服を着せ替えて送り出しました。
救出され手当てを受けますが甲斐なく死亡してしまった兵が6人も出ます。生還した兵らも、凍傷の損傷が激しく手足を切断しなければいけませんでした。生きるも地獄だったのです。
八甲田山雪中行軍遭難事件発生までの流れ
国のために命を捧げる覚悟であった兵士たちではありましたが、あまりにも過酷で情報不足であったことが判明しています。もっと慎重な行動をしていたら未来は変わっていたのでしょうか?
その先に控えていた戦争が彼らの行動を焦らせたのでしょう。どうしても勝たなければという責任感の強さが動かしたとも言えます。
世界でも恐れられた騒動が起ころうとはこのとき、誰も予想もしていなかったことでしょう。どのような流れで悲劇は起こってしまったのかをみていきましょう。
八甲田山雪中行軍は、準備不足のまま1泊2日の予定で開始された
分厚く積もる雪道を歩いて行くには、体力消耗の心配が懸念される内容でした。一日分の食糧と寒さをしのぐためと調理をする燃料、大きな釜や器具を乗せた荷物、総重量約1トンをソリ14台に分けて引きます。
210人という大人数で決行しますがソリ自体の重さが80㎏あったため、大人4人以上で動かなければビクともしませんでした。雪でないときでも約98㎞という距離を歩くには相当な時間と体力が必要です。
大雪積もる地域ですから、一歩踏み出すにも力がいり体力も消耗します。それを休息なしで続行すると下したのでした。兵士たちも了解をし覚悟はしていたでしょうが、実際の環境は遥か上を逸脱しておりました。
1日目、露営の時点で難航
出発を決めた日から悪夢は近づいていました。案内役として勤めるはずであった地元の人物が、悪天のため中止したほうが良いことを告げます。それでも無理に決行したため案内人は同行しなかったのです。
方位磁針を頼りに進みますが、激しい吹雪に見舞われ進路が見えなくなり休息することにします。藁などのレジャーシートの役割をする敷物を持ち合わせてなかったことから、座ることもできずにいました。
寒さ凍える体を温めようと火をつけようとしますが、なかなか着かず暖をとっても地面の雪が解けてしまいテントが傾き、休まることができなかったようです。
立ったままの休息はエネルギーをどんどん消費していきました。この時点で疲労は出始めておりました。
2日目、碌な休息も無く疲弊したまま帰営決定。その後すぐに遭難
温かい食事にもありつけず、眠ると凍死の危険があったため皆で軍歌を歌い足踏みをして体を温めようと試みますが-20度の環境では、安易に叶うこともできずだったのでした。
悪寒を訴えた兵が続出したため話し合いの下、下山することにします。悪天が続いていたこと、案内人もいない不慣れな場所だったことが重なり迷ってしまったのです。
ここから地獄のような日々が幕開けとなるのですが、まだかすかな希望を信じ無事に帰ることを目指していたのです。
3日目、凍死者が続出。当てずっぽうの帰営強行
見渡す周り一面が雪のため、どこに向かって進めば帰ることができるのか未知でした。案内人がいない環境で重要な働きをしていた方位磁針でしたが、凍り付き機能しなくなっていました。
吹雪で視界が狭まり同じ風景が続くため地図も当てになりません。勘だけが頼りです。唯一道を知っていると公言した男がおり、一瞬の光が差しますが、すぐさま真っ暗闇に突き落とされることとなるのです。
知っていると言った男が先頭になり進んでいった先は全く違うポイントでした。テントを張ったところへ戻ることにしますが、それさえも自然は遮ります。
空腹と疲労と寒さの余り倒れて動かなくなる者が続々と出始め、そのまま二度と目を開けることはなかったのです。
八甲田山雪中行軍遭難事件は指揮官の最悪の一言で始まった
疲労と絶望だった彼らに、さらに追い打ちをかけるかのような悪夢が襲います。上官らが話し合いをした結果が告げられます。
「この場所で、一行は解散」と信じられない言葉を耳にすることになるのです。軍を成して行動していたことを放棄したのです。
今まで力で誇ってきた指揮官は、パニック状態に陥ってしまい自分では成す術がなくなってしまったのでしょう。力だけでは自然のパワーに敵うことは不可能と実感したのでした。
自分たちの勘と力だけで青森か田代へ行くよう命じられますが、ただでさえも不安な状況の元での一言はグサリと刃物で刺されたような衝撃が走ったことでしょう。
張りつめた神経が切れてしまったのでしょうか?異常行動を示す兵たちが続出します。もう自分には死しかないと悟った人間の最期は、荒れ果ててしまい理性が失われてしまうものなのでしょうか?
衣服を着ていても寒い環境で裸になってしまって息絶えたり、いかだを作れば川を下れると叫びながら木々に向かって銃や剣をむける者、川を泳げば帰れると言い残し飛び込み絶命した姿がありました。
想像を絶する地獄絵図になっていたのです。今まで群を成して行動を虐げられていたものが、見放され支えとなるものをなくしてしまった身は、もはや抜け殻のようなものであり制御不能だったのでしょう。
4日目しっかりした統率もない無茶苦茶な帰営開始
バラバラとなり途方に暮れるも、生きて帰りたい一心でした。動くことができた十数人と連なって行動を共にします。このときの指揮をとっていたのは、神成と倉石大尉でした。
空腹と極寒のために足取りはおぼつかず、隊はバラバラに乱れます。食料や水筒に入っていた水は凍ってしまい、飲まず食わずの状態が続きます。とにかく歩いて下山をしなければ命は尽きてしまいます。
途中で息絶えた兵には、遺言を聞いたといいます。ときに、亡骸に火をつけては暖を取ったようです。ただ凍傷で感覚のなくなってしまっている手足に火をかざすのは危険行為であり、明らかにやけどを負っていても気づかず温め続けたようです。
さらに凍傷が酷くなってしまい、息絶える兵が増えたと言います。上下関係の厳しい群ではありましたが、この時ばかりは帰属も段階も誰一人何も言いませんでした。
忠告する力さえも残っていなかったのでしょう。先見えるほうへと進んでいくのみだったのです。一方で、平野では予定の日数を過ぎても帰ってこないために、多くの隊員らが心配していました。
救助に向かおうと動きがありましたが、天候の悪化のために探しに行くことすらできなかったのです。この日の寒さも大変厳しいものであったとされ、-14度だったと記録が残っています。多くの犠牲者が出た日でもありました。
八甲田山雪中行軍遭難事件はバラバラな行動の末、生還者11名
大尉を先頭に倉石隊と神成隊とに分かれることになります。倉石隊の進んだ方面では崖があり、運悪く落ちてしまうのです。
仕方なく朝まで待つこととなるのですが、一人の若い見習い官が裸になり川へ入ってしまいます。以前にもあった死の前の異常行動なのでしょうか。そのまま帰らぬ人となりました。
幻覚を見たものもいたようです。猛吹雪で前方はうっすらしか見えない中を進んでいると、前には手を振っている救助隊がいると思い、小走りになりますが近づいてみると、ただの大木だったのです。
その時のガッカリした気持ちは、どんなに気を落としたことでしょうか?想像を絶する光景には胸が痛みます。
一方、神成隊のスタート時は順調に進んでおりました。ですが山の天候は変わりやすく、突如猛吹雪が襲います。食べず寝ずの彼らは耐えきる力が残っていませんでした。
次々と倒れ死に絶えていったのです。ついには指揮官であった神成も命尽きてしまいました。雪の中に全身がすっぽりと入りこんでしまったのです。
必死に助けだそうと試みましたが、人ひとり持ち上げるほどの力は皆が持ち合わせていませんでした。気付薬の入った注射を打とうとするのですが、腕はカチカチに凍ってしまっており針は刺さりません。
口の中を刺しますが、効果がなかったのでした。遺言としてリーダーを任された後藤は、意識がもうろうとする中、上官の指示を全うするため進んでいこうとします。
意識を失いながらも立っていたところを幸運なことに捜索隊に発見されたのです。第一発見者でした。無事に帰還することができたことは喜ばしいことでありますが、199人の犠牲者が出ました。
彼が助けられた場所の数メートル後ろには、半口を開け絶命した神成の亡骸があったようです。その後に多くの冷たく氷になっている遺体が見つかります。重なりあうようにして息絶えた姿もあったようです。
後藤は発見されてから約11分後に意識が戻ったようです。救助隊員に何が食べたいか聞かれた際にはタバコが欲しいと告げたそうです。
八甲田山雪中行軍遭難事件は上官の判断ミス?事故の原因は数多くあった
誰もが予想もしていなかった出来事でありました。2日もあれば帰ってこれると計画をしていた訓練は壮絶な雪山を自覚したと共に、多くの仲間を奪っていきました。なぜ大惨事になってしまったのでしょうか?
訓練と名だけで戦争よりも残酷な日々だったことがうかがえます。今回の騒動について振り返ってみましょう。
八甲田山雪中行軍遭難事件は上官の認識ミス、判断の甘さが招いた人災
指示をするリーダー神成は全く山について無知だったのです。最終責任者に山口が就任しますが、お互いが自然の環境を甘くみており、気力と体力があれば乗り切れると思っていたようです。
彼はエリートが通う士官学校卒業ではなく、軍が設置した教導団で知識を養いました。休むことなく通えば昇給していくため真面目さはありましたが、現場の経験を積んではおらず知識は乏しかったようです。
それが故に多くの犠牲者を出した一因にもなっていることでしょう。自然はいつ何時大きく変動するか未知なものです。それが実際に仇となった人災ともいえるでしょう。
八甲田山雪中行軍遭難事件原因①気象条件の急激な悪化
案内人であった地元民が中止を懇願したことが物語っていることでしょう。自然の機嫌がいつ悪くなるか未知なものです。特に雪山は荒れてしまうと手が付けられません。今回のように待っているものは死です。
特に地元の人は毎日山の状況を身近で見ているため勘が働きます。軍人だからという誇りが邪魔をし、第三者の意見を受け入れることができなかったことが被害を大きくさせたことでしょう。
どんなことが起こるかわからない山は、素人が判断するのは大変危険なことがわかります。
八甲田山雪中行軍遭難事件原因②事前準備・情報収集がずさん
兵の服装からもわかるように準備が万全とは言い難い状況でした。ましてや天候が急激に変わる自然環境の中で万事を期して挑む必要があったでしょう。
実は、彼らの前に実行していた隊がおりました。天候が良好だったため成功を収めています。このことから安心をし、自分たちにもできると自信先走っていたのかもしれません。
現代のようなネットで情報収集のできない時代ではありましたが、知識の共有をすべきであり、独断ではなくチームとして意見を出し合うことも重要だったのではないでしょうか。
八甲田山雪中行軍遭難事件原因③指揮系統の混乱によるパニック
隊の総合責任者であったであろう人物が混雑し、解散宣言をしてしまえば率いてきた兵たちは頭が真っ白となってしまったことでしょう。実際に異常行動を起こし多くの命が亡くなっています。
実際に雪山を想定した行事をしたことがなく、経験に乏しかったのです。引率しなければならない存在が知識不足ほど路頭に迷うことはないでしょう。
バラバラで行動をしてしまったことで、遭わなくてもよかった被害もあったことでしょう。一同がまとまって一丸となっていたら、もっと多くの生還者がいたのかもしれませんし、無念さは計り知ることができません。
八甲田山雪中行軍遭難事件原因④指揮官の認識不足
前日に宴会を開き、楽しんでいたとされます。とても翌日に重要で過酷な試練が迫っているようには思えない姿ではないでしょうか。当然兵たちもトップが能天気な態度だったため、重さを感じ取っていなかったようでした。
縦社会の軍隊で指揮官の意見は絶対です。リーダーとして責任感を持ち、情報を集め210人の上に立つトップとしての役割をしてほしかったとさえ思ってしまうのです。
八甲田山雪中行軍遭難事件の数少ない生存者のその後
無事に帰ってこれた人々についてみてきましょう。多くの仲間が絶えていく中での生還は、彼らの生命力の強さがうかがえるとともに、今世にこの騒動を伝える一人者として大切な人物だったことでしょう。
世間は深い悲しみと自然の怖さを改めて実感したのです。その後に迫ります。
八甲田山雪中行軍遭難事件救出17名中、6名は死亡
後に証言していますが、生と死を分けたラインは凍傷だったようです。多くの生存者は足袋と軍手の予備を持っており濡れたら取り替えておりました。
一番元気だった倉石は、長靴を履いていたため凍傷を防ぐことができていたとされます。以前に東京へ出向いた際に購入したものだったようで、何気なく雪だと濡れると思い考えついたことが幸運でした。
一方、死に至った多くは替えを持っておらず放置をしたことで次第に凍ってしまい、息を引き取ったとされます。訓練の前日に皆が集められ口頭で持ち物を伝えられたとされますが、本当に聞き入っていた人物がどれほどいたのでしょうか?
注意事項として伝えたと申告書には残っているといわれていますが、事の重大さの認識のズレなのか聞いていなかったのか定かではありません。
凍傷とは?
気温が低い場所に長時間滞在すると、血流が悪くなり組織が凍っていく症状を指します。初めは心臓から遠い部位から症状が出始めるため、指先が発端となる場合が多いようです。
初めは紫色に変色をし、感覚が奪われていきます。細胞の働きをストップしているので新陳代謝が行われず皮膚は腐敗に進行していきます。
寒冷地域へ出向く際には、防寒をして血行が悪くならないような、締め付けのない服装が適しています。
八甲田山雪中行軍遭難事件の生還者全員が凍傷の為手足の切断
命は助かったものの、残酷な運命を辿ってしまうのです。助かった人物らは多少なりとも知識があり靴を革靴に変えていたり、凍傷予防のために銃についていた皮を剥がして足指に巻き付けたり、毛皮を持ちていたりと各自で工夫をしていたようです。
多くが段階の高い者が生存しています。これには武器や道具を持たずに参加できたことが体力の消耗を少しでも減らせたためと言われています。
八甲田山雪中行軍遭難事件生還の功労者、後藤伍長は銅像が建立
殺生環境の中で、誰もが生きて帰ることを強く願いましたがほとんどが力尽きています。神成大尉もその一人で、叶わなかった魂を部下でもあった後藤に託しました。
彼も意識が薄れていく中で何としても上官の意思を伝えなくては、自分が息絶えてしまえば上官の遺言も無になってしまうというそれだけが、命綱だったことでしょう。
お酒が好きな彼は、唯一水筒にお酒を入れていたといわれています。多くの水分が凍ってしまい飲めない中、彼は少しづつお酒を体内に入れて冷えないようにしていたとされます。
これが温まって生命を守ってくれたのかもしれません。第一発見者だったことが他の兵の発見にも繋がり、生を救ったと功績とされ銅像が1907年に設立されたのです。