13回目の服役を網走刑務所で終えた後は、家族を頼りに東京へ上京しました。姉や妹、弟の家を渡り歩きながら生活をします。もちろんそれぞれの家庭もあるので一箇所で生活をすることは出来ません。それに伴い職も点々とするようになります。
住所不定で定職を探す事は簡単ではありません。常に人が少ない大工や塗装業、建築関係の仕事を余儀なくされます。また、一説では犯行を繰り返すたびに引越しを繰り返していたそうです。しかし、逮捕された時は清掃員として定職に就いていました。
小野悦男の逮捕から無罪までの道のり
日本の裁判で起訴された場合、ドラマにもなりましたが「99.9%」有罪が確定すると言われます。小野も例外に漏れず、有罪となります。どのように裁判が進み、無罪と言う奇跡を勝ち取ったのかを詳しく解説します。
小野悦男の逮捕後①松戸信金OL殺人事件で起訴
今回の事件では、10件にも及ぶ事件に関係があるとして同一犯の犯行と見られていました。物証となる確たる証拠がないのが事件の特徴でもあります。状況証拠だけでは起訴は成り立たず、一番関連の強い「松戸OL殺人事件」にしぼり捜査を追いました。
小野悦男の逮捕後②一度は処分保留・釈放に
せっかくの証拠も残念ながら千葉地検松戸支部の結論決め手となる物証に乏しいと「処分保留で釈放」になります。物証が足りず、自白などを元に取り調べを続け、犯人しか知らない情報で被害者の衣服の発見などを持って、今度こそ起訴に持ち込んだのです。
小野悦男の逮捕後③無罪主張に救いの手が!
公判自体も長期にわたり、論点となったのは小野の「自白」でした。本人が描いた図を元に衣服が発見したと検察側が主張するも、弁護側は過度な取調べ、また異例な「処分保留」取調べの捏造などを根拠にあげ「無罪」主張したのです。
そこで救いの手を差し伸べたのが起訴直前に作られた「小野悦男さん救護会」です。差し入れや面会、過度なマスメディアの報道などを批判するなど、献身的に支えてきました。当時は冤罪で捕まった人たちの再審を多く手がけていたことも後押ししたと考えられます。
小野悦男の逮捕後④地裁では無罪懲役の判決
1975年、検察側から提出したのは証書120通、証拠物38点と膨大なものでした。11年もの歳月をかけ、千葉地裁がだした結論は、無期懲役。傍聴席に収まりきれなかった「小野悦男被害者の会」からは本当なのか?と判決に納得できない様子が見受けられました。
80回以上にも及ぶ公判の末でた無期懲役判決に納得出来ない小野悦男と弁護団は最高裁に控訴しました。最大の論点となるのは「自白」「代用監獄」でした。当時も録音データが残っており、データを聞く限りでは不審な点はないとの意見がある中で、出てきた違法取り調べがどの程度本人を脅かしたのか信憑性が大きな課題となりました。
代用監獄とは
裁判で論点として争われたのが代用監獄(だいようかんごく)でした。本来の監獄法では、未決勾留(証拠が不十分な容疑者)は監獄で行う事になっています。しかし実際は捜査段階での容疑者の取り調べに使うことが多くあります。
長い間容疑者を警察に留まらせることが自白の強要などに結びつくため、旧監獄法は廃止されます。平成18年5月24日に「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」が設けられました。これにより通常の事件の勾留日数は特別な場合を除き最大でも28日間ほどとなりました。
小野悦男の逮捕後⑤東京高裁で自白強要を理由に無罪釈放の判決!
前回の裁判で一貫して無罪を主張した小野の心証は「どんな仕事でも一生懸命やる」としっかり裁判官に答えており、順調だったようです。1991年4月23日東京高裁は無罪を言い渡します。判決を読み上げる時には拍手が起き、裁判官から諌められたそうです。
世間が驚きに包まれた時でした。判決の理由は自白の強要と、自白による証拠提出も真犯人しか知りえない情報とは言い難いとしています。ここから無罪を勝ち取った冤罪のヒーローと言われる小野の人生の再スタートが始まるのです。
小野悦男が釈放されたその後は?
「17年間とても苦しかった」と語る小野が釈放されてからどんな生活を送っていたのか、気になりませんか。周りの助けがあり、無罪をなんとか勝ち取ってもそれが真実なのかはすでにわかりません。この後の小野の人生が事件の真実を語っているような感じもします。
小野悦男に対してマスコミ各社が謝罪記事を掲載
東京地裁が上告を諦めたことにより、小野の無罪は確定となりました。誇張した報道をしたとして新聞やマスコミ各社が謝罪記事を掲載しました。これにより一層首都圏女性連続殺人事件は有名となり、「歩けなくなっている母親の面倒をみたい」と語る姿勢に涙を誘い、世間を騒がせました。
またしても、マスメディアにより「冤罪のヒーロー」として世の中に名前が知れ渡ることになりました。この事件をきっかけに、今まで呼び捨てで被疑者を報道する流れを「容疑者」と呼ぶきっかけとなります。
小野悦男は今回の件を活かして講演会開催
自由になってからは、自身の経験を活かし裁判の論点ともなった代用監獄や、過酷な取り調べを批判などについて語るために講演に積極的に参加します。東京都内の集会では同じく無罪の判決を受けた経験がある3人で獄中体験を辛辣に話しました。
これまでにも何度も犯罪を犯し逮捕されていた時とは、打って変わって世間は良いイメージが定着しました。後の記者の対談で、東京足立区に6畳の部屋を借り、母親のそばで生活の基盤を作っていたことがわかります。
小野悦男は国からの謝罪のお金で豪遊
小野は別件の婦女暴行の疑いで逮捕されており、懲役6年の判決が下されています。事件が無罪になり、裁判が終わるまで約16年半勾留されていたのです。最後の判決では逮捕時に公表された写真にはないしわができました。
実質、刑に服したのは一日もなく勾留された日数から6年の懲役分を差し引いた約3800日分の費用を国に請求し、約3600万円を手にします。お金は人の人生を狂わすと言いますが、小野もその一人でしょう。国から金をもらったから何年でも飲んでいられると飲み屋で話している姿も目撃されていました。
小野悦男が殺人事件でまた逮捕!?冤罪からの転落!
16年かけて勝ち取った無罪は、翌年には何の意味もないものに変わってしまいます。冤罪でもなく、彼自信が起こした紛れもない事件で再び逮捕されたのです。前の事件から何年も経っており、警察や証拠類を確定付けるものが大分改正されてきました。
16年も時が止まっている状態の小野は、自分の今の立場なら何をやっても誰かが助けてくれる、そんな気持ちになってしまったのかもしれません。しかし起こした事件は世間を唖然と言わせ、「冤罪」の意味を深く考えさせる事件となります。
小野悦男の再犯①無罪判決の翌年に窃盗で逮捕
1992年に窃盗罪で再び逮捕される事になったため2年間、服役することになります。前科もあるため実刑は免れなかったのでしょう。しかし、わずか一年語の出来事。国から手に入れた補償額はとても使い切れる金額ではありません。元々の窃盗癖が招いた結果だったのでしょうか。