ひかりごけ事件とは?初めて裁かれた食人事件の内容や判決は?映画化も

ひかりごけ事件とは、1944年に北海道で発生した食人事件。船が難波し食べ物に困った船長が死体となった乗組員を食した事件であり、初めて食人が裁かれた事件としても話題に。今回はひかりごけ事件の内容や名前の由来、船長が受けた判決など紹介します。

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小説や映画にもなった「ひかりごけ事件」とは?

これは、ネット上でもかなり有名なお話で、名前を一度は聞いたことがある人も多いでしょう。主にこわい話や凶悪な犯罪のまとめとしてよく取り上げられているこの一件ですが、これは実際のところ、一体どのような内容なのでしょうか?

起こった出来事や日時場所、事件の流れなど、まずはその概要についてご紹介していきます。

1944年に北海道で発覚した死体損傷事件・ひかりごけ事件

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この通称は、この一件を題材にした小説のタイトルからきています。事は戦時中、身も凍るような冬の北海道で人知れず起こった不幸な船の難破から始まりました。

幸いにも一命をとりとめた当時29歳だった船長と一人の船員は、なんとか発見した小屋で必死に生活し、周囲が晴れるのを待ちました。しかし明けない吹雪の中、ろくに食べ物もなくふたりは衰弱し続け、とうとう船員が死亡します。

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残された船長は苦悩の末にその死体を食べることで生き残り、後にそれが発覚したことで逮捕・起訴されてしまいます。この事件の裁判は秘密裏に行われましたが、噂や噂を元にした小説「ひかりごけ」が世に出たために広まってしまいました。

食人事件の中で初めて刑が科された“唯一裁かれた食人事件

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言葉を聞いただけでも漠然とした嫌悪感を抱かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、有史以来、世界中のあらゆる地域で人が人の肉を食するという行為は行われてきました。

風習・宗教・性癖などその理由は様々でしたが、その行為事態を裁く法律は今のところ日本にはありません。戦時中は頻繁に行われたというこの行為ですが、裁判にかけられたものはこの事件のみです。

日本国内ではあまり類を見ない事件ですが、海外には人肉食の事件が豊富です。日本以外での人肉食事件にも興味がある方はこちらの記事もご覧ください。

 

ひかりごけ事件が発覚するまで!その①生存者の帰還

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それではここからは事件の犯人となった彼がその行為に至り、それが世間に発覚し起訴されるまでの道筋を辿っていきましょう。

12月3日小樽へ向かうため発った徴用船“第五清進丸”が消息不明に

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終戦の前の年の冬、輸送船の不足により民間の船でありながら軍の物資を輸送していた一艘の船が北海道の海上で姿を消しました。真冬の北の海での行方不明は即ち海上での転覆・海への落下の可能性が高いと言うことであり、それは死を意味します。

明けない猛吹雪や戦時中というごたごたした時期だというのも手伝って捜索は難航し、誰もが船員全員の生存を諦めていました。

2ヶ月後に老人の家にムシロをまとった男性が助けを求めてやって来る

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船が沈んで2ヶ月が経った頃、極寒の地では信じられない、藁を編んで作られた粗末な服を身にまとった青年がある漁村にあった家に駆け込んできました。地元民でありその地の冬がいかに厳しいかよく知っていた家の住民は大変驚き青年を家へ迎え入れました。

そのまま外に放り出せばそのまま死んでしまいそうなほどに弱っていた青年は、やがて自分の身の上を話し出しました。彼はなんと行方不明になっていた船に乗っていたというのです。

その男性とは徴用船“第五清進丸”の船長だった

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彼は自らを船長だったといいました。船が沈んだ後、なんとか岸に上がることができた彼は、凍えながらもなんとか体を動かし、一軒の小屋を見つけました。そこには幸いなことにマッチや僅かばかりの食べ物があり、そこで命をつないでいたのだと語りました。

どんな生命も生きられないような極限環境の中、そんな粗末な小屋で生き延びたというのは信じられない奇跡的なことでした。彼は讃えられ、歓迎され、地元民は手厚く彼を保護しました。

ひかりごけ事件が発覚するまで!その②数々の疑問点

地元民に保護され、自分のふるさとへと帰ることができた青年ですが、その奇跡的な生存にはいくつかの謎がありました。ここではその謎を整理していきます。

冬場に荒れ模様となる海と猛烈な寒さの中でどうやって過ごしたのか

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彼が過ごしたのはどんな命も凍り付くような死の世界でした。そんな中でどのように命の灯火を消さずにいることができたのでしょうか。僅かなマッチの火ではたして人は生存できるものなのでしょうか。

特に彼は一度海に落ち、かなり体温を奪われていたはずです。その中で生き残れたのはやはり奇跡と言うほかないような出来事です。

海藻類なども流れつかない中で何を食糧としていたのか

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冬の北の海で生きていけないのはなにも人だけではありません。そんな環境の中で生きることができるのはほんの一握りの生命だけです。また、海はとても荒れ狂っており、動物はおろか海藻なども簡単に手に入る状況ではありませんでした。

そんな中で約60日もの間生き続けることは本当に可能なのでしょうか。体力も落ち、海に落ちたことで下がった体温の中ではなにか栄養源がなければ生き延びることなど不可能なのではないでしょうか。次第にそんな疑問を持つ人は増えていきました。

ひかりごけ事件の発覚と船長が逮捕されるまで

常人であればすぐ死んでしまいそうな極限の環境で生き延びた彼はしばらくの間ヒーローのように扱われていました。しかし、この英雄譚の裏側には恐ろしい事実が隠されていたのです。

3ヶ月後の5月14日に番屋へやって来た漁師が異変に気付く

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深い雪と氷に閉ざされていた北の海にも春が訪れ、悲しい事件が起こった荒れ狂った海は穏やかになっていきました。海には漁をするために人が近づくようになり、事件の真相に疑問をもった人が件の彼が過した小屋に訪れました。

しかし、小屋の様子がおかしいことにその小屋を訪れた人が気づきました。温かくなってきた中で小屋の中を満たしていたのは異様な臭いでした。生臭い地のような香りの元を彼は探しました。

人骨などが見つかり死体遺棄などの容疑で船長が逮捕

小屋の中にはなんと、箱に詰められた人の骨が放置されていたのです。それだけではなく、おそらく調理のために剥がされた皮などもありました。頭蓋骨は破壊され、中には脳みそが残っていませんでした。これの意味するところに気づいたその人はすぐに通報しました。

これが発端となり生き残った青年は警察に捕まり、起訴されることとなります。彼の罪状は最初は正しく届け出をせずに死体を放置したことでしたが、事情聴取をするうちに彼が人を食べたことが明らかになりました。

船長は死亡した乗組員の死体を食べたと認めるも殺人は否定

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裁判の中で、青年が先に死亡した船員の肉を食べていたことを素直に認めました。ただ、空腹のために殺害して食したのではなく、餓死してしまったあとに肉を食べたのだという供述は曲げませんでした。

追求されると悲しげになぜ自分が殺さなければならないのかとつぶやく場面もありました。本当にどうしようもなくて、生きるために仕方なく食べたのだと彼は力なく語りました。その姿は信じてもらえなくても仕方がないと諦めていたようでもありました。

人を殺害した上で食べている事件も世界にはありますので興味のある方はこちらの記事もご覧ください。

ひかりごけ事件はどのようにして起こった?船長が食人に至るまで

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さて、ではここからは彼が人を食べるに至った経緯についてご紹介します。彼が恐ろしい選択をするまでに、いったい何があったのでしょうか。

難破した“第五清進丸”から生還したのは船長と乗組員の2名

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命からがら流れ着いた先で幸いにも小屋を見つけ、暖を取って消えそうな命の灯火をなんとかつなぐことができたのは、7人いた乗組員のうち、船長とひとりの乗務員だけでした。のちに3名は遺体が発見されますが、残りは行方不明のままです。

生き延びたふたりも、冬の海に落ちたことで体温は低下し、少ない食べ物しかなかったために満足に栄養を摂ることも叶わなかったために次第に衰弱していきました。

陸地に上陸するも約1ヶ月半後に乗組員が餓死してしまう

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やがて船長をのこして乗務員が息を引き取ってしまいます。極寒の地で1人になってしまった際の彼の不安は計り知れないものだったでしょう。自分の死んでしまうのではないかという気持ちも次第に膨らみます。

このままでは死んでしまう、しかし精の付く食べ物などこの状況では手に入らないと苦悩する彼は、すぐそこに、大枠でいえば動物の肉に分類されるものがあるという事実に気づいてしまったのです。

餓死した乗組員を食べて生き延びた船長

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倫理感やその行為に対する嫌悪感から、そこには大きな苦悩があったことでしょう。しかし不安、恐怖、空腹という極限の状態に置かれた彼は、ついに死んでしまった同胞の肉を食らうという選択肢をとってしまいます。

それは苦悩の果ての選択でしたし、彼もできることなら他の方法を考えたかったでしょう。しかし生きる為には仕方が無いとはいえ、その行為はのちに世間からひどくバッシングを受けることとなりました。

ひかりごけ事件のその後!船長が受けた判決とは

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日本の法律には、彼が行った行為を直接処罰できるようなものはありません。では、そんな中で司法はどのような裁きを下したのでしょうか。

ひかりごけ事件の第1回公判は非公開のまま行われた

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この一件は当時報道されていなかったため、この裁判の時点では世間的な知名度はありませんでした。軍に関わる内容であったため、政府や警察は極力市民にこの事件を知られたくなかったこともあり、裁きの場はあくまで秘密裏に設定されていました。

裁判では人を食べる事への善し悪しを決める法律はないため、彼がどのような状態で人の遺体を傷つけるに至ったのかが争点となりました。やむを得ない状況だったのか否かを審議し、その後半は2度にわたり行われました。

第2回公判で懲役1年の実刑判決を受けた船長

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遺体を損壊した罪により、彼は1年の実刑を言い渡されました。これがこの国の司法が人の共食いという行為に対してくだすことのできた唯一の罪状でした。

実刑が下ったと言うことは遺体を食した際の状況がやむを得ない場合ではなかったと判断されたと言うことでもあります。生きるためにという船長の供述は、受け入れられなかったのです。

網走刑務所で服役した船長!模範囚であり20日早く仮出所

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この件にかなり重く責任を感じていた彼は、素直に刑を受けいれていました。元から人柄は悪くなかった彼は粛々と刑務所での日々を過ごしました。そして、一年足らずで元の生活へ戻ることが出来ました。

彼の中には大きな罪に意識があり、償いを少しでもしたいと日々模範的に生活していました。それが認められたと言うことですが、彼の気は沈んだままでした。

ひかりごけ事件が裁判になった理由

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この一件が起こった1940年後半はちょうど戦時中でした。戦況は次第に悪化していき、日本政府の無茶な指揮によって兵士たちは戦場で飢え、戦場では日常的に人肉を食べていたという話もあります。

そんな中でこの事件だけが取り上げられ、裁かれた理由は何なのでしょうか。ここではそれについてご紹介します。

船長は民間人だった

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軍の物資を輸送していましたが彼は一般市民であり、取り残された地域は戦場ではありませんでした。よって黙認されていた軍人による人食いとは違い、処罰の対象になってしまったというところが大きいです。

また、中途半端に軍が関係してしまっているため、軍の体面のためにも事件をもみ消すことはできませんでした。隠せばばれた時に軍の立場に傷がついてしまうのです。ですから、ちゃんと事件を解決する必要がありました。

戦場からは遠い地で起こった出来事だった

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この一件が起こっていたとき日本はかなり不利な戦争をしていました。戦況が悪化していく中、通常の裁判など行う余裕はあまりなかったはずです。しかし、この一件が起こったのは日本最北の都道府県でした。

戦火はまだ遠く、まだどこか他人事のような気分でいられる地だったのでしょう。戦時中のどさくさに埋もれずにしっかり裁判をされた理由はやはり起こった場所も一因になっているでしょう。

世間の目をそらすため?船長はスケープゴート?

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あとになってですがこの事件は日本でも有名になってしまいます。敗戦後、さまざまな軍の悪しきイメージが国民にも定着しましたが、戦時中の食人などから目をそらさせるためにこの一件をちゃんと裁判にかけた可能性もあります。

自分たちと近しい庶民の立場の人が行った恐ろしい行為により、注目や同情や批判を誘い、その事件に集中させることで軍のやったことを少しでも薄めようとした可能性もあります。

日本人特有の倫理感

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戦時中、アメリカの軍人から見た日本人の特殊な部分として、死者への敬意の払い方があげられていました。日本は戦時中、人を捨て駒のように扱っていたことは有名なことです。

神風特攻や物資の乏しい中で無理な戦いをし、兵は戦争で死ぬよりも餓えて死ぬ者の方が多く出たことなどのエピソードをみてもそれは明らかです。しかし不思議なことに、死者をとても大切にしていたのです。

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味方の遺体が敵兵に辱められることがないよう、犠牲者を出してでも遺体を回収したり、戦時中でもちゃんと埋葬をしていました。生きているものはないがしろにするにもかかわらずです。それは異様な光景でした。

今回の事件にも、日本人のこの感性が大きく働いている可能性が大きいです。生きるために死者を犠牲にすることを許さない精神は、ともすれば船長の生を否定すると言うことですが、そういった意見が多いからこそ彼は裁判にかけられました。

ひかりごけ事件の船長の心境とは?食人の感想など

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