その立場からすると理不尽ともとれるような判決を受けた彼ですが、その内側にはどのような感情が渦巻いていたのでしょうか。ここでは彼の内面を掘り下げていきます。
人肉を食べた船長!“経験したことのないほど美味しかった”と感想も
彼は肉を食べた感想を聞かれた際にこのように答えたとされています。罪悪感を感じているにしては不謹慎とも、死者への気遣いともとれる発言ですが、本心なのでしょうか。一般的には人肉は臭みが強く筋張っているため美味しいと言えるようなものでは無いとされています。
しかし彼が肉を食べた際は、他の食べ物はほとんどなく、常に飢餓と戦っていたような状況でした。空腹は最高のスパイスという事なのかもしれません。状況の特殊さから、脳がつらい気持ちをごまかすためにそう感じさせたとも考えられます。
しかしなぜ食人をしてしまったのか自分でも理解できなくなった船長
この一件の後彼は様々なインタビューに誠実に答え続けました。その中で、彼はなぜ自分が仲間であった人を食べてしまったのかわからなくなったと言っています。これはすなわちなぜそうしてまで生きようとしたのかいう発言です。
彼は晩年世間からのバッシングや自身の内側から湧き出る罪悪感からかなり神経を摩耗させていたようです。生きるためであっても、やってはいけないことだったのだと彼は考えるようになりました。
罪の重さを感じた船長!1年の実刑判決では足りないと言い続けていた
遺体を食べると言うことは、その生前の人の尊厳を著しく欠くものであるという意識が彼には大きくのしかかっていました。もっと重い罰を受けなければこの罪は贖えないと、彼は裁判の中でも語っていました。
その意見は生涯変わることはなく、晩年受けたインタビューでもその深い苦悩と後悔をこぼしていました。死刑になってもいいくらいだと話したこともありました。自責の念は深く深く彼の内面に突き刺さっていたのです。
Contents
ひかりごけ事件は本当に罪に問われるべきだったのか
彼が遺体の肉を食べなければ、生き延びることができたかわかりません。ひとひとりの命は、もうそこに命がない遺体の尊厳よりも軽いのでしょうか。はたして彼の行った行為は罪なのでしょうか。
裁判でも刑法第37条の緊急避難が認めらるかが争点に
当時も、やむを得ない状況であったのか否かというポイントが論点となりました。結果的には認められないという結果になりましたが、現代であれば別の結果になったかも知れません。裁判官は一体当時なにを思いこの判決を出したのかは資料が失われてしまっているためわかりません。
皆さんはこの一件をどう考えるでしょうか。人によっては人を食べるくらいなら餓死するという方もいるでしょうし、しょうがなかったと思う方もいるでしょう。もし自分だったらどうするか、皆さんならこの事件にどのような判決を出すのかぜひ考えてみてください。
しかし、どのような結論に至ったとしても、彼が生きるために行った行為を責めることはできないでしょう。この問いに正解はなく、この答えの否定は生きたいという願望そのものの否定に繋がってしまうからです。彼は、ただ必死で生物として生きるための選択をしたに過ぎないのです。
最初にも述べましたがこれは日本人特有の死者への過剰とも言える敬意と生者を軽んじる風潮から起きた凡例とも考えられます。司法の場でさえそうだったのですがら、彼は生活の中でどれだけの人にその生を否定されたのか想像するにあまりあります。
ひかりごけ事件同様に物議を醸したウルグアイ空軍機571便遭難事故
日本ではありませんが、同じようにやむを得ない状況での人肉食が行われた事案があります。それが、アンデス山脈で起こった飛行機の墜落事故です。簡単にその概要をご説明します。
生き残るために食人を行う
悪天候のため山の一角に機体を衝突させたために墜落した飛行機には、合計で45人が乗っていました。最終的な死者行方不明者はそのうち29人に及び、生存者たちも食べ物も民家もない極寒の山中で絶望に打ちひしがれました。
機内にも食べ物はなく、生存者の中のひとりが死者の肉を食べることを提案し、キリスト教徒であった彼らの中にはその提案に嫌悪感をあらわにする者もいましたが、最後にはやむなく全員がそれを承諾して生存者の全員が人肉を食べて生き延びました。
日本の一件と同様、生き残る為に選択を迫られ、やはりこちらでも人々は明日の命をつなぐために食べることを選択しました。極限の状況下ではやはり人は自身の命のためにやむを得ずそういった選択をしてしまうものなのでしょう。
日常的に私たちは生きていくために栄養摂取という名目の元他の動物の肉を食らっています。これらの事件はみんなその延長線上に位置しているものであり、なにかを犠牲にして生きているという意味では普段の私たちとなんら変わらない行為をしているに過ぎないのです。
生還後は世界中から避難殺到
必死に生き延び、なんとか救助を呼ぶことができた彼らを待っていたのは、生き残るために行った食人を批判する多くの心ない声でした。特にキリスト教ではこの行為はタブー視されているため、神に背く罪人であるかのような言葉が彼らに投げかけられました。
実際にその行為を行った彼らとしても罪の意識を感じながらも仕方なく行ったため、その世間の声は深く心に突き刺さりました。生き残る為に仕方ないとは言え、やはり船長と同様彼らも自分の行ったことに苦しむことになりました。
実際に死地に立たなかった人間たちが必死で生きた人達に心ない言葉を吐きその生存自体を後悔させるような動きは世界共通の人の業であるということがこの一件でよくわかります。そういう人たちは果たして自分が同じ立場だったらと考えたことがあるのでしょうか。
生きるためにすべてのことが肯定されるわけではありませんが、すでに命のない人だった肉塊を前に生死の境に立たされるほどに飢えた人間がはたしてどれほどの尊厳を見いだせるのでしょうか。
カトリック教会は彼らが罪に当たらないと発表
そんな状況を重く見た教会はすぐに彼らは生き残る為に仕方なくそれを行ったのであり、彼らには罪はないという見解を公式に発表しました。船長の時とは違い、教会は彼らに寄り添い彼らの立場になって考えてくれたということでしょう。
この例を見るとやはり当時の日本の司法は船長の立場に立って考えるということが足りなかったのかもしれません。宗教ではっきりと食人を否としている文化圏でさえもそれを罪でないと断言したのですから、無宗教の日本ではなおのこと認めてあげるべきだったのではないでしょうか。
ひかりごけ事件の由来となった短編小説『ひかりごけ』
冒頭で一度ご紹介しましたが、この事件の名前の由来は小説のタイトルです。ではここでは、この小説はどういったものなのかについてご紹介していきます。
1954年の武田泰淳による短編小説『ひかりごけ』が事件名の由来
この小説は船長の噂話を元にしたフィクションです。事実とは異なる部分も多く、この小説では船長は最終的に殺人を犯してしまっていますし、元から食人を好んでいるような描写があります。
この話は実際に元にされた彼にインタビューなどをしたということはないため、読む際にはあくまで実際の事件とは切り離し、別のものとして楽しみましょう。
ウワサを基に描かれた『ひかりごけ』によって船長は風評被害に
この小説が公開されたのは事件から10年ほど経った頃でしたが、これが元になり事件の知名度が上がってしまい、小説のように彼が人を殺して食べたのではないかという噂が大きく広まることになってしまいました。
彼は反論しても仕方ないと世間に対して弁解することはしませんでしたが、その内心にはどれほどの罪悪感と絶望があったでしょうか。生きるためにした行為が結局どこまでいっても彼を苦しめたことは皮肉と言うほかありません。
小説のタイトル『ひかりごけ』とは暗所で光るコケのこと
標題は、実在する苔の名前からとられています。作中ではこの苔に似た光の輪が罪人の背後に現れるという表現が使用されています。罪の象徴とされているものの名前が事件の名前として有名になってしまったということもまた彼にとっては不名誉なことでしょう。
作者はこの作品を発表する前にそれを世に送り出すことでどのような影響があるのかを慮るべきでしたが、それを怠ったために彼は生涯この作品という十字架を背負わねばならなくなっていました。
小説だけでなくさまざまなメディアで注目を集めたひかりごけ事件
実際の事件が元となっていることもあり話題を呼んだこの作品は、様々なメディア展開がされました。どのような展開があったのか、一部をご紹介していきます。
1992年には熊井啓監督によって映画化された『ひかりごけ』
小説が発表された約40年後、その映画が世に送り出されました。主演は釣りバカ日誌などで有名な三國連太郎さんです。著名な俳優さんを起用されていることからもこの作品への力の入り方がわかります。それだけやはりこの事件は衝撃的なのでしょう。
今から30年程前というかなり昔の作品ですが、DVD化もされていますので興味のある方はぜひご覧になってみてください。
取材から描かれた合田一道によるノンフィクション作品も
噂だけで書かれたフィクション小説がある一方で、真摯に事件と向き合い辛抱強く取材を行い書かれた著作もあります。断片的だった彼の供述を繋ぎ合わせ、整理し筆者は計3冊ものノンフィクション作品を仕上げました。
筆者が北海道出身ということもあり、土地の地理や事件の様子、実際の冬の過酷さなどよく理解されており、生涯非難され続けた船長の内面や苦悩によく寄り添った作品です。現在も購入可能なのでこの事件をより深く知りたい方はぜひ読んでみてください。
オペラや舞台でも描かれたひかりごけ事件
フィクション小説を元にした舞台も行われました。最近だと2006年にも公演されています。現代においても、この一件は人々の心を今でも釘付けにする魅力があるのでしょう。元から小説も戯曲風に仕上げられており、より原作の雰囲気を忠実に楽しめます。
極限の状態で人はどのような選択をするのか、自分ならどうするかなどを考えるきっかけとして、舞台や映画に触れてみてもよいでしょう。
問われる倫理観
ひかりごけの小説が世に出ることによって、事件の当事者であった彼は生涯苦しむことになりました。表現の自由は保証されるべきものですが、一人の人間の一生を苦しいものにしてよいのでしょうか。
発明家には「技術者倫理」が問われる
現代では技術者が新しい技術を世の中に出す際、それがどのような影響を世に与えることになるのかを考えなければなりません。悪用されることはないか、人類にとって危険ではないのか技術者の責任を以て吟味するのです。
それが技術者として当然の行為であり、これが蔑ろにされて自身の発明により人類に大きな不幸が訪れれば、それは技術者自身の罪となり本人にふりかかるでしょう。
どんな発明をしても自由ですが、だからこそ発明家自身がその影響を考慮しなければ人類は間違った方向へ技術を進化させてしまいます。その命運を握っているかも知れないという責任をひとりひとりが持たなくてはならないのです。
発明家にそれが求められているのは、過去に無責任な発明によりたくさんの危険な兵器を生み出してきてしまっているからです。過去ひどい失敗をしてしまったとしてもそこから学びそれを生かすことは素晴らしいことです。
「小説家倫理」は必要か
今回の一件ではひとりの小説家が世に送り出した小説が発端となり、事件の加害者となった青年に風評被害が起こりました。書き手はまだ事件の風化もしていない時期に事件のことを本人に確かめるでもなく噂のみを元として青年が殺人を犯したかのような作品を生みました。
本当の事件を元にしているのであればその小説が世に出たときどのようなことが起こるのか少し考えれば予測できたはずです。もしこの作品が販売されなければ彼も多くの人に殺人者と噂されることなく生涯を過ごせたかもしれません。
書き手はそのことについて考えるべきだったという意見もあるでしょうし、作り話を書くことにそのようなことを気にする必要はないと言う人もいるでしょう。どちらか正解だと断言することはできませんが、小説を出版することで一人の人生に不名誉の風評被害を生んだことは確かです。
その責任は、書き手が背負うべきものであるはずです。しかし責任を背負うと言っても、ひとりの人生の責任は誰にもとれません。つまり、終えないほどの責を産むようなことはするべきではないという考え方もあるでしょう。
自由だからこそ気をつけねばならないこと
表現には自由があり、書くなということは誰にもできません。しかし、だからこそ、書く側がよく考え、その作品の影響を慮る必要があるのではないでしょうか。そのような倫理感を、できることなら小説の作者も持つべきなのかも知れません。
この問題にも正解はありませんが、皆さんもぜひこの倫理の必要か否かについて考えてみてください。
食人による事件で初めて刑が科されたひかりごけ事件
生存するために仲間を食らい生き延び、そのことを罪に問われて世間からも非難されてきたこの一件は、その恐ろしい過酷な状況で私たちが一体どういった行動をとればよいのかについて考えさせられます。
禁忌を破った男というセンセーショナルな一面から小説や映画などの題材にもなりましたが、その実態はただ「生きたい」という生物として当たり前の願望をもち行動したひとりの人間の物語です。みなさんも自分なら彼の立場に立ったときにどうするか、ぜひ考えてみてください。