常人であればすぐ死んでしまいそうな極限の環境で生き延びた彼はしばらくの間ヒーローのように扱われていました。しかし、この英雄譚の裏側には恐ろしい事実が隠されていたのです。
3ヶ月後の5月14日に番屋へやって来た漁師が異変に気付く
深い雪と氷に閉ざされていた北の海にも春が訪れ、悲しい事件が起こった荒れ狂った海は穏やかになっていきました。海には漁をするために人が近づくようになり、事件の真相に疑問をもった人が件の彼が過した小屋に訪れました。
しかし、小屋の様子がおかしいことにその小屋を訪れた人が気づきました。温かくなってきた中で小屋の中を満たしていたのは異様な臭いでした。生臭い地のような香りの元を彼は探しました。
人骨などが見つかり死体遺棄などの容疑で船長が逮捕
小屋の中にはなんと、箱に詰められた人の骨が放置されていたのです。それだけではなく、おそらく調理のために剥がされた皮などもありました。頭蓋骨は破壊され、中には脳みそが残っていませんでした。これの意味するところに気づいたその人はすぐに通報しました。
これが発端となり生き残った青年は警察に捕まり、起訴されることとなります。彼の罪状は最初は正しく届け出をせずに死体を放置したことでしたが、事情聴取をするうちに彼が人を食べたことが明らかになりました。
船長は死亡した乗組員の死体を食べたと認めるも殺人は否定
裁判の中で、青年が先に死亡した船員の肉を食べていたことを素直に認めました。ただ、空腹のために殺害して食したのではなく、餓死してしまったあとに肉を食べたのだという供述は曲げませんでした。
追求されると悲しげになぜ自分が殺さなければならないのかとつぶやく場面もありました。本当にどうしようもなくて、生きるために仕方なく食べたのだと彼は力なく語りました。その姿は信じてもらえなくても仕方がないと諦めていたようでもありました。
人を殺害した上で食べている事件も世界にはありますので興味のある方はこちらの記事もご覧ください。
ひかりごけ事件はどのようにして起こった?船長が食人に至るまで
さて、ではここからは彼が人を食べるに至った経緯についてご紹介します。彼が恐ろしい選択をするまでに、いったい何があったのでしょうか。
難破した“第五清進丸”から生還したのは船長と乗組員の2名
命からがら流れ着いた先で幸いにも小屋を見つけ、暖を取って消えそうな命の灯火をなんとかつなぐことができたのは、7人いた乗組員のうち、船長とひとりの乗務員だけでした。のちに3名は遺体が発見されますが、残りは行方不明のままです。
生き延びたふたりも、冬の海に落ちたことで体温は低下し、少ない食べ物しかなかったために満足に栄養を摂ることも叶わなかったために次第に衰弱していきました。
陸地に上陸するも約1ヶ月半後に乗組員が餓死してしまう
やがて船長をのこして乗務員が息を引き取ってしまいます。極寒の地で1人になってしまった際の彼の不安は計り知れないものだったでしょう。自分の死んでしまうのではないかという気持ちも次第に膨らみます。
このままでは死んでしまう、しかし精の付く食べ物などこの状況では手に入らないと苦悩する彼は、すぐそこに、大枠でいえば動物の肉に分類されるものがあるという事実に気づいてしまったのです。
餓死した乗組員を食べて生き延びた船長
倫理感やその行為に対する嫌悪感から、そこには大きな苦悩があったことでしょう。しかし不安、恐怖、空腹という極限の状態に置かれた彼は、ついに死んでしまった同胞の肉を食らうという選択肢をとってしまいます。
それは苦悩の果ての選択でしたし、彼もできることなら他の方法を考えたかったでしょう。しかし生きる為には仕方が無いとはいえ、その行為はのちに世間からひどくバッシングを受けることとなりました。
ひかりごけ事件のその後!船長が受けた判決とは
日本の法律には、彼が行った行為を直接処罰できるようなものはありません。では、そんな中で司法はどのような裁きを下したのでしょうか。
ひかりごけ事件の第1回公判は非公開のまま行われた
この一件は当時報道されていなかったため、この裁判の時点では世間的な知名度はありませんでした。軍に関わる内容であったため、政府や警察は極力市民にこの事件を知られたくなかったこともあり、裁きの場はあくまで秘密裏に設定されていました。
裁判では人を食べる事への善し悪しを決める法律はないため、彼がどのような状態で人の遺体を傷つけるに至ったのかが争点となりました。やむを得ない状況だったのか否かを審議し、その後半は2度にわたり行われました。
第2回公判で懲役1年の実刑判決を受けた船長
遺体を損壊した罪により、彼は1年の実刑を言い渡されました。これがこの国の司法が人の共食いという行為に対してくだすことのできた唯一の罪状でした。
実刑が下ったと言うことは遺体を食した際の状況がやむを得ない場合ではなかったと判断されたと言うことでもあります。生きるためにという船長の供述は、受け入れられなかったのです。
網走刑務所で服役した船長!模範囚であり20日早く仮出所
この件にかなり重く責任を感じていた彼は、素直に刑を受けいれていました。元から人柄は悪くなかった彼は粛々と刑務所での日々を過ごしました。そして、一年足らずで元の生活へ戻ることが出来ました。
彼の中には大きな罪に意識があり、償いを少しでもしたいと日々模範的に生活していました。それが認められたと言うことですが、彼の気は沈んだままでした。