秩父事件とは?
これは明治の時代に起きた農民たちによる政府に向けて武器を手に取り起こした蜂起事件です。では一体この事件はどのような内容だったのか、そしてこの事件はどんな背景があって起きたのかについてここでは見ていきたいと思います。
明治時代の秩父地方での農民一揆
この事件が起きたのは明治時代の17年頃の11月1日であり、関東地域の農村で働く者たち数千人が集まって政府に対して行った大規模な一揆として知られています。さらに関東地方以外にも長野県の農民も集まり一丸となって政府に対して訴えを起こしたといわれています、
そしてこの一揆をおこす経緯についてですが、まずこの地域では産業として蚕の糸の生産がおこなわれており、農民たちの大きな収入源の一つとして機能していました。しかしながらこの一大産業は、明治という動乱の時代の中で起きた経済不振に巻き込まれてしまうのです。
というのもこの頃に発生していたヨーロッパでの経済不振の一つとして糸の価格も大暴落をしてしまっており、この影響を日本儲けてしまい、国内での蚕の糸も普段の様な価格で売ることが出来なくなってい、農村の人たちの生活はかなり厳しいものになっていくのです。
生活の困窮が原因の事件
さらにこの一揆が行われた経緯の一つに、農民たちの貧困による生活苦が原因とも言われています。国内での価格不審によって、国内では更なる税金の増額が行われており、これによって農村の人たちの金銭面がさらに圧迫されるようになってしまったのです。
さらに国内外の経済不振を理由とした税金の増額による圧迫以外にも、村の学校を維持する為の資金や国の行政を拡大していくことに対しての村が払う町村費が更に増えていくこととなり、村の人たちはまともに生活をする事すら難しいほどに困窮していってしまいました。
こうした数々の金銭面でのマイナスな理由が重なり、生活の苦しさからの解放を訴え始めた農民たちが次第に集まり始めたことによってこの一揆は始まることとなりました。では次からは具体的にどのような訴えを起こしたのか、その内容について見ていきます。
秩父事件の概要
ここまでこの一揆による事件について、一体何が理由で起きてしまったのかという点を見ていきました。ではここからはこの事件そのものについて、農村の人たちによるどのような事件だったのか、その内容についてまとめていきます。
農民が負債の延納・減税を要求
まず農村に住む人たちは税金によって生まれた負債に苦しんでいる同じような問題を抱えた人たちを集め、集会を開くこととなります。これによって政府に対抗するための組織、困民党が生まれます。その中心人物たちは自由党と呼ばれる日本で初めて誕生した政党の人たちでした。
こうして集められた集団によって、明治時代においてかなりの規模を誇る一揆は始まりました。まず彼らは行政の人々に対して自分たちの抱える負債の延納、そして増額した税金に対しての減額を訴える為に、武器を手にして役所の占拠などに乗り出すこととなりました。
役所などを占拠
そして武器を手にした彼らは龍勢祭りの盛んな事で知られる神社にて決起し、生活の苦しみからの解放の為、自分たちの要求を政治関係者たちに訴える為に役所、さらには警察署や裁判所へ向かい次々と占拠していく大規模な一揆を引き起こすこととなります。
まず夕方にかけて親交を始めた彼らは税金の減額や負債の延納の要求をのませる為に現在の秩父市に当たる場所にあった役所を占拠します。その後警察署や裁判所を占拠しながら皆野という場所まで進行することとなります。しかし鎮圧に向かった警察などによって農村の人たちは次々と武力によって鎮圧をされてしまうのです。
この一揆の鎮圧のために動員された人員はかなりの数だったようで、ついには憲兵の人たちまでも鎮圧に参加することとなりました。徹底抗戦を続ける困民党でしたが、最終的には長野県まで転戦を続け、11月の9日には完全に鎮圧をされてしまうこととなりました。
1万人以上が参加・死傷者も
こうして終了した大規模な一揆事件ですが、参加した人員はなんと一万人以上にも及び、それに伴って被害も甚大なものでした。戦闘があったとされる各所では多数の負傷者と、一揆側では20名以上の戦死者を出し、警官2名とや無関係の一般市民の女性1名の合計3人が亡くなりました。
そしてこの一揆によって捕まえられた者たちは裁判によって死刑の宣告を受けたものが7名とこれに参加した人員数千名以上が実刑に処されることとなりました。そしてこの一揆は秩父暴動という名前が付けられ、二度と起こしてはならない事件として歴史にその名を刻む事になったのです。
秩父事件を引き起こした背景①養蚕で栄えていた
ここまで農村の人たちが集まり引き起こしたこの事件について、その内容を見ていきました。ではここからはこの事件が起きた背景である、前述したこの地域の主要な産業である蚕の糸の産業についてどのようなものだったのか、より詳しく見ていきます。
秩父事件の背景・養蚕業①養蚕がさかん
一揆がおきたこの地域では江戸時代ごろから蚕の養殖が産業として有名でした。農村の人たちは傾斜のきついこの地域に蚕の主食として知られる桑の葉を多数植え、育てながらこの虫が作り出す糸を売却しており、彼らの収入源のほとんどを占めていました。
そういった事からも、農村の人々はこの産業に対して効率を上げる為に桑の木をさらに増やしたり、この業務に関して使用する道具の更なる改良にも力を入れていきました。まさにこの地域は蚕の糸によって支えられていた地域といっても過言ではありませんでした。
秩父事件の背景・養蚕業②海外への生糸輸出が好調
更にこの産業を後押ししたのは国外化への輸出物として注目されたという点です。1859年頃から始まったアメリカやヨーロッパへの国内での最も大きな輸出物は生糸だったことからも、この頃のこの地域におけるこの産業はかなり潤っていたことが分かります。
こういった国外への展開が好調となった事によって当時はこの地域は好景気にみまわれていました。これによって非常に派手な祭りなどが数多く開催されるようになり、さらには娯楽や舞踊といった芸能も知られるようになっていき、様々な人たちがこの地域に訪れるようになるなど活気にも満ちていきました。
秩父事件を引き起こした背景②デフレ政策で生糸大暴落
ここまでこの事件が起きた地域での盛んにおこなわれていた産業、そしてそれによって景気が好調になった時期もあったという事について見ていきました。ではここからなぜこれだけ好調だった状況から一揆をおこさなければならないほどに経済状況が悪くなったのかについて見ていきます。
秩父事件の背景・主要産業の暴落①デフレ政策の影響を受ける
なぜ蚕の糸による産業で潤っていたこの地域が不景気になっていったのかという事ですが、まずその発端は1881年に日本の経済の責任者に松方正義という人物が就任したところから始まります。ここから国内の経済全体がこの人物の政策によって混乱していくこととなります。
そしてこの人物の政策が始まってから1年後、デフレ政策によって本格的な影響が生まれ始めます。それはこの地域も例外ではなく、特にこの地域の財源の根幹を担っていた蚕の糸の販売価格に関しては、許容できないほどの深刻な大打撃を受けることとなったのです。
秩父事件の背景・主要産業の暴落②生糸大暴落・生活困窮
こうしてこの地域の蚕から作り出される糸の価格は一気に下がり、大暴落が引き起こされてしまうこととなります。収入源のほとんどを事実上失ってしまった農村の人たちは多額の負債を抱える事になってしまい、生活が一気に困窮してしまうこととなったのです。
さらに農村の人々に追い打ちをかけるようにこの頃に行われていた国内の軍の拡大の為に伴う税金の増額や村にある学校を維持する為に必要な資金、そして国内の財政難が手伝って更に農村の人たちの負担を増やすこととなったのです。こうした背景から、彼らは一揆を計画するようになりました。
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秩父事件を引き起こした背景③自由民権思想の影響
このように、国内で起きた経済政策の影響によって地域の産業が壊滅的な打撃を受け、困り果てた農村の人たちによってこの一揆が起こされたという事が分かりました。ではここからは彼らが一揆の為に組織を結成させる際に影響されたものの一つ、自由党の掲げる自由民権思想について前述した部分からより詳しく紹介していきます。
秩父事件の背景・自由党の思想①自由党の組織が誕生
まずこの思想を掲げた自由党についてですが、これは有名な偉人の一人、板垣退助が1881年に結成した日本で初めての政党とされています。そしてこの組織の情報が、景気が絶頂期を迎えていたこの地域にも流れてくるようになりました。それによってこの思想はこの地域の者たちに多大な影響を与えていくこととなります。
こうしてこの地域にも自由党の思想が根付き始め、群馬にあった自由党の人たちの影響も相まってこの組織に入党するものも現れ始め、それによってこの地域にも組織が造られるようになっていきました。そしてここから貧困に苦しむ者たちによってこの組織の思想を汲んだ新たな組織が結成される事になります。
秩父事件の背景・自由党の思想②困民党に発展
こうしてこの組織の人物たちを中心として新しい政党、困民党が生まれることとなります。この組織は各所で同じような境遇、思想を持った者たちの集会を開催することによって生まれました。この活動から発展して自由党に入る人々も現れるようになりました。
この当時自由党は政府による圧力によってあまり力がないといった状況でしたが、この組織が生まれたことによって一揆による直接的手段に打って出ることを決定し、その後この一揆を始めるにあたっての資金面での準備を始めることとなりました。
この一揆に向けての資金面の準備に関しての活動は組織によって進められることになり、この地域の農村に住む者たち以外にも、埼玉県をはじめとして群馬県の者たちといった広範囲にわたって一揆の参加者を増やしていくこととなりました。
秩父地方の自由民権運動の始まり
ここまで一揆がおきるまでの背景の一つである自由党について見ていきました。では次にこの組織に関して、前述した実際に入党したのは一体どのような人物だったのか、また具体的にどのような影響を受けて規模を拡大していったのかについて見ていきます。
中庭蘭渓と若林真十郎が入党
この地方に一揆を先導したこの組織が誕生したのは明治15年の事でした。最初に入党した人物は教師だった中庭蘭渓という人物と、若林真十郎という男性でした。この二人を勧誘したのは若林という人物の実の兄だったといわれています。
そしてこの二人のこの組織においての活動に関しての詳細を示す具体的なものはあまり残されていませんでしたが、演説会を開催したといった記録などは残されており、比較的活発にこの組織において活動をしていたことが分かります。
群馬県の自由党の影響を受けて発展
そしてこの地域の人々が最も影響を受けたとされるのが、群馬県にいた自由党員たちだとされています。彼らはこの組織の人たちと、峠を通じて財政面、そして文化といった面でも関係を持っていました。こういった所から情報が流れてくるようになり、そして多大に影響を受けていたようです。
また、群馬県の組織の者たちは福島の喜多方で起きた事件の際に支援に向かいましたが、その際に大衆での闘争における実態を勉強したとされています。そしてそういった部分も秩父の党員たちは影響を強く受けていたとされており、こういった所からも一揆への伏線はあったように推察されます。
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秩父事件で戦った「困民党」とは?
ここまで自由党に関して、最初に参加した人は一体誰なのか、そしてこの地域の人たちが最も影響を受けた党員たちについて見ていきました。ではここからはこの記事内で紹介した事件で一揆を起こしたこの組織についての詳細を見ていきます。
秩父事件で戦った困民党の組織図
ではまず組織図について見ていきます。まずこの組織は関東地方の政府の増税や蚕の糸の価格暴落で苦しむ農民を中心に作り上げられています。そして彼らを実質支配化に置き支配しているのがこの組織が生まれた直接的な原因である自由党員です。
そしてこの組織を指揮していたのは総理という役割で動いていた田代栄助という人物であり、彼は農村の人ではなく名主をしていた家の出身の者です。これ以外にも組織の財務を管理する会計長や計画の立案を行う参謀長といった役割で動く者たちがおり、上層部はこうした役割の元組織されていました。
秩父事件で戦った困民党の軍律
そしてこの組織には5つに分けられた規律が存在し、これを破ってしまった場合には厳しい処罰が加えられると言うものでした。これによって組織は統率の取れたものとなり、一揆を確実に実行する為の戦力を作り出すのに貢献しました。
また、これ以外にもこの組織が掲げる目標と言う物があり、これは向こう10年間の負債の延納、40年賊や学校機関の一時的休校や税金の減額という要求を政府に飲ませるという目標を掲げました。そしてこれを実現させるために組織の農民たちと規律を正すための5つのルールと共に活動を始めたのです。
秩父事件で戦った困民党の私年号とは?
まず私年号と言う物についてですが、これはその国を統治している者が定めた年号とは違った呼び方をしているものの事を言います。これに関しては古くから存在し、まだ伝聞の手段に乏しかった古代にはその地域ごとに呼び方が変わっていることもあるほどでした。
そしてこれは困民党も用いていたようで、この際には自由自治という名称で読んでいたようです。これは近年の私年号の中では有名であり、日本とロシアとの戦争時に勝利した日本を祝福して用いられた征露などと並んで知られています。
秩父事件で戦った「困民党」の主要人物
ここまでこの事件内で主要な組織について、どういった内部構造をしているのか、どのような規律があるのかといった点について見ていきました、ではここからはこの組織内で主要だとされている人物たちについてその役割などを含めてまとめていきます。
秩父事件・困民党の主要人物①田代栄助
この人物はこの組織の中で総理という役割の元彼らを指揮していた人物です。この人物は前述したように大宮郷の名手の家の出であり、弱い立場の人たちから信頼を置かれるような性格だったと言われています。今回の事件の際もこの役割の元指揮を取っていました。
そして一揆の中で幹部の一人が斬られるという問題からこの組織全体の統率が上手くいかなくなったことを皮切りに戦場から離脱をして他の幹部と共に各地を放浪している中、最終的には知り合いの家に隠れていたところを捕まえられてしまいます。その後は裁判で死刑の宣告を受け、次の年には刑が執行されました。
秩父事件・困民党の主要人物②加藤織平
彼はこの組織内で副総理の役割を担っていた石間村上農出身の人物で、非常に高い指揮能力を持っていたとされています。貧しい者たちの面倒をよく見ていたことから質屋の良助と呼ばれていました。まさに人の上に立つべき人間だったという事がよく分かります。
この一揆の中では副総理という役割の中で表立って指揮を執るものの、本陣が崩壊するとこちらも離脱をして東京まで逃げ延びます。しかし最後には神田で捕まえられてしまい、先の人物たちと同様裁判の結果死刑を宣告されてしまい、同じ年に刑が執行されました。
秩父事件・困民党の主要人物③新井周三郎
この人物は現在の寄居町出身で、組織の中では甲大隊長という役割を担っていました。彼は当時この組織のある地域で教師に空きがあるという話を聞き、副総理の家を訪れた際に困民党の存在を初めて知ります。そして人々の生活が苦しんでいるという状況を見ていられずに組織へ参加することとなりました。
一揆の中では4日目に捕虜の男に斬られ重傷を負ってしまいます。これによって一揆の統制が乱れてしまい、混乱を引き起こすこととなってしまいます。その後は故郷に帰り身を潜めていたものの捕まえられてしまい、同じく裁判で死刑を言い渡され、亡くなってしまいます。
秩父事件・困民党の主要人物④高岸善吉
この人物は小隊長という役割を請け負い、吉田村での指揮を行っており、明治17年にこの組織に参加をしました。また、蚕の産業を行っていた人物でもあり、この地域とは縁の深い人物でもあります。こういった経歴から蚕の産業を営む者たちを助ける為に動く活動家としての側面も持っています。
一揆の中では小隊長として部隊を動かし、あらゆる場面で多大な活躍をした人物として知られています。その後は仲間と行動を共にして東京まで逃げ延びることに成功しますが、最期には捕まえられてしまい、副総理と共に死刑の宣告を受ける事になりました。
秩父事件・困民党の主要人物⑤坂本宗作
上吉田村という地域出身のこの人物は伝令使という役割を一揆の中で担っていました。一揆に際しては鉢巻を巻いて参加をし、そこには戒名が書かれていたことからこの一揆におけるこの人物の覚悟が見て取れます。また、戦地においては本陣が崩れた後は他の仲間たちと共に信州の一揆を指揮していました。
一揆には後半まで参加し、最終的には他の人たち同様に逃げることとなります。その後は秩父の山中まで逃げ延び、そこの炭燃小屋に身を潜めていたところを見つかってしまい、捉えられることとなります。そしてほかの幹部たち同様に彼も死刑となり翌年に刑が執り行われました。
困民党の主要人物⑥菊池貫平
この人物は一揆における主要な人物として知られています。有数の蚕業を営んでおり、参謀と言う役割でこの組織の中核を担っていました。そして厳しい規律として有名なこの組織の5つの規律を作ったのもこの人物であり、これによって組織は一気に統率が履かれたとも言われています。
一揆の際は本陣が崩れてしまった後に新しく総理として指揮を執りますが、事件の後は行方が分からなくなり、裁判にも出席していませんでした。そして裁判後甲府で見つかり捕まえられた菊池は恩赦によって死刑ではなくなり、明治38年には故郷へ帰ることとなりました。
困民党の主要人物⑦井上伝蔵
下吉田村出身であるこの人物は一揆における役割の中でも重要な会計長の役割を担っていました。明治17年に組織に参加してからは価格の下落により生活に苦し人々を見たことから幹部として組織のしっかりとした構築とその運動に力を尽くすようになります。こういった活躍もあってこのような重要な役職に付けたと考えられます。
そして一揆の後捕まえられることを恐れた彼は北海道まで逃げ延びることに成功し、そこで潜伏して生活を始めます。裁判には出席せずに死刑を宣告されるものの、潜伏先で名前を変えてそこでできた家族と共に生活をしていました。そして大正の時代まで生き、その生涯を家族の元で終えることとなります。
秩父事件の起きた場所の地域性
ここまでこの大規模な一揆を引き起こした組織の主要な人物たちについて見ていきました。ではここからはこの事件が引き起こされた地域性は一体どのようなものだったのか、そして一揆がおきたことと地域性との関係性についても絡めて見ていきたいと思います。