秩父事件とは?事件の概要と時代背景、発生理由などを分かりやすく解説!

さらに農村の人々に追い打ちをかけるようにこの頃に行われていた国内の軍の拡大の為に伴う税金の増額や村にある学校を維持する為に必要な資金、そして国内の財政難が手伝って更に農村の人たちの負担を増やすこととなったのです。こうした背景から、彼らは一揆を計画するようになりました。

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秩父事件を引き起こした背景③自由民権思想の影響

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このように、国内で起きた経済政策の影響によって地域の産業が壊滅的な打撃を受け、困り果てた農村の人たちによってこの一揆が起こされたという事が分かりました。ではここからは彼らが一揆の為に組織を結成させる際に影響されたものの一つ、自由党の掲げる自由民権思想について前述した部分からより詳しく紹介していきます。

秩父事件の背景・自由党の思想①自由党の組織が誕生

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まずこの思想を掲げた自由党についてですが、これは有名な偉人の一人、板垣退助が1881年に結成した日本で初めての政党とされています。そしてこの組織の情報が、景気が絶頂期を迎えていたこの地域にも流れてくるようになりました。それによってこの思想はこの地域の者たちに多大な影響を与えていくこととなります。

こうしてこの地域にも自由党の思想が根付き始め、群馬にあった自由党の人たちの影響も相まってこの組織に入党するものも現れ始め、それによってこの地域にも組織が造られるようになっていきました。そしてここから貧困に苦しむ者たちによってこの組織の思想を汲んだ新たな組織が結成される事になります。

秩父事件の背景・自由党の思想②困民党に発展

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こうしてこの組織の人物たちを中心として新しい政党、困民党が生まれることとなります。この組織は各所で同じような境遇、思想を持った者たちの集会を開催することによって生まれました。この活動から発展して自由党に入る人々も現れるようになりました。

この当時自由党は政府による圧力によってあまり力がないといった状況でしたが、この組織が生まれたことによって一揆による直接的手段に打って出ることを決定し、その後この一揆を始めるにあたっての資金面での準備を始めることとなりました。

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この一揆に向けての資金面の準備に関しての活動は組織によって進められることになり、この地域の農村に住む者たち以外にも、埼玉県をはじめとして群馬県の者たちといった広範囲にわたって一揆の参加者を増やしていくこととなりました。

秩父地方の自由民権運動の始まり

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ここまで一揆がおきるまでの背景の一つである自由党について見ていきました。では次にこの組織に関して、前述した実際に入党したのは一体どのような人物だったのか、また具体的にどのような影響を受けて規模を拡大していったのかについて見ていきます。

中庭蘭渓と若林真十郎が入党

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この地方に一揆を先導したこの組織が誕生したのは明治15年の事でした。最初に入党した人物は教師だった中庭蘭渓という人物と、若林真十郎という男性でした。この二人を勧誘したのは若林という人物の実の兄だったといわれています。

そしてこの二人のこの組織においての活動に関しての詳細を示す具体的なものはあまり残されていませんでしたが、演説会を開催したといった記録などは残されており、比較的活発にこの組織において活動をしていたことが分かります。

群馬県の自由党の影響を受けて発展

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そしてこの地域の人々が最も影響を受けたとされるのが、群馬県にいた自由党員たちだとされています。彼らはこの組織の人たちと、峠を通じて財政面、そして文化といった面でも関係を持っていました。こういった所から情報が流れてくるようになり、そして多大に影響を受けていたようです。

また、群馬県の組織の者たちは福島の喜多方で起きた事件の際に支援に向かいましたが、その際に大衆での闘争における実態を勉強したとされています。そしてそういった部分も秩父の党員たちは影響を強く受けていたとされており、こういった所からも一揆への伏線はあったように推察されます。

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秩父事件で戦った「困民党」とは?

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ここまで自由党に関して、最初に参加した人は一体誰なのか、そしてこの地域の人たちが最も影響を受けた党員たちについて見ていきました。ではここからはこの記事内で紹介した事件で一揆を起こしたこの組織についての詳細を見ていきます。

秩父事件で戦った困民党の組織図

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ではまず組織図について見ていきます。まずこの組織は関東地方の政府の増税や蚕の糸の価格暴落で苦しむ農民を中心に作り上げられています。そして彼らを実質支配化に置き支配しているのがこの組織が生まれた直接的な原因である自由党員です。

そしてこの組織を指揮していたのは総理という役割で動いていた田代栄助という人物であり、彼は農村の人ではなく名主をしていた家の出身の者です。これ以外にも組織の財務を管理する会計長や計画の立案を行う参謀長といった役割で動く者たちがおり、上層部はこうした役割の元組織されていました。

秩父事件で戦った困民党の軍律

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そしてこの組織には5つに分けられた規律が存在し、これを破ってしまった場合には厳しい処罰が加えられると言うものでした。これによって組織は統率の取れたものとなり、一揆を確実に実行する為の戦力を作り出すのに貢献しました。

また、これ以外にもこの組織が掲げる目標と言う物があり、これは向こう10年間の負債の延納、40年賊や学校機関の一時的休校や税金の減額という要求を政府に飲ませるという目標を掲げました。そしてこれを実現させるために組織の農民たちと規律を正すための5つのルールと共に活動を始めたのです。

秩父事件で戦った困民党の私年号とは?

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まず私年号と言う物についてですが、これはその国を統治している者が定めた年号とは違った呼び方をしているものの事を言います。これに関しては古くから存在し、まだ伝聞の手段に乏しかった古代にはその地域ごとに呼び方が変わっていることもあるほどでした。

そしてこれは困民党も用いていたようで、この際には自由自治という名称で読んでいたようです。これは近年の私年号の中では有名であり、日本とロシアとの戦争時に勝利した日本を祝福して用いられた征露などと並んで知られています。

秩父事件で戦った「困民党」の主要人物

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ここまでこの事件内で主要な組織について、どういった内部構造をしているのか、どのような規律があるのかといった点について見ていきました、ではここからはこの組織内で主要だとされている人物たちについてその役割などを含めてまとめていきます。

秩父事件・困民党の主要人物①田代栄助

困民党蜂起―秩父農民戦争と田代栄助論 (1983年)

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この人物はこの組織の中で総理という役割の元彼らを指揮していた人物です。この人物は前述したように大宮郷の名手の家の出であり、弱い立場の人たちから信頼を置かれるような性格だったと言われています。今回の事件の際もこの役割の元指揮を取っていました。

そして一揆の中で幹部の一人が斬られるという問題からこの組織全体の統率が上手くいかなくなったことを皮切りに戦場から離脱をして他の幹部と共に各地を放浪している中、最終的には知り合いの家に隠れていたところを捕まえられてしまいます。その後は裁判で死刑の宣告を受け、次の年には刑が執行されました。

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