タコ部屋とは?
画期的な文明開化がスタートした明治維新のあとに、定められたもので土地を開拓していくために人の力が必要でした。
泊りがけで早朝から日が暮れるまで働きづめにしました。過酷な労働者が寝るために使った部屋が呼ばれています。
宿泊施設というと旅館や民宿の小綺麗な印象を持ってしまいますが、随分とかけ離れており食事は出たようですが劣悪な環境でした。どういった意味を持つのか、なぜタコなのかを解明していきます。
強制労働者が寝泊まりする部屋
北の大地である北海道の壮大な土地を開拓していくために部屋を設けたことが発端です。広々とした現場を耕していくには、とてつもない人数が必要でした。
一般人も参加しますが、罪人も狩りめぐらされ過酷な重労働をしました。寝る、食べるといった最低限の暮らしは確保できましたが、人が過ごすには粗末すぎた部屋でした。
なぜ「タコ」なのか?
鉄道の建設や道路整備などの重要な働き手となって朝から晩まで従事させました。部屋とは言い難い粗末な小屋に寝返りができないほどの定員を押し込み、寝泊まりさせたようです。
では、なぜ「タコ」でしょうか?一つの説ではなく、色々な諸説がありますのでご紹介します。
- 海に潜む生物タコが、一度蛸壺に入ると出てこれない姿が、就労者と重なる
- 最期はタコのように自身の足を食べるほど体を犠牲にして働くさま
- 過酷すぎる環境から糸が切れたタコのように逃げてしまう
- 他の地区から雇われた者だから他雇と呼んだ
どれも手酷い情景がイマジネーションできることから、働いていた人々は命をすり減らしてまでも開拓に力を注いだのです。抜け出すことができないいばら道の迷路を苦しみながらぐるぐる彷徨い、疲れ果ててしまう宿命なのでしょうか。
タコ部屋はどこから始まったの?
重労働を毎日休む日なく行い、休息も十分な環境でなかったために疲れはとれなかったことでしょう。起源となった背景と従事していた多くの人々についてご紹介します。
1880年代の北海道で始まった
初めは屯田兵が従事しました。ですが広すぎる大地には人手が足りませんでした。穴埋めをするかのように釧路にある刑務所に収監されている受刑者に依頼をかけたのです。
もともと罪を償う悪党でしたので扱いは相当粗悪でした。別の名を動く監獄と言い、恐れられていたのです。
囚人たちが強制的に働かされていた
朝日が昇ると同時に監修役が労働人の寝ている丸太を叩き、起こすところから一日のスタートです。枕は皆さんが想像するようなフカフカのものでなく木を切り倒したままの丸太一本を皆で使ったのでした。
夜遅くまで肉体労働は続き、座ることも許されませんでした。食事も立ったままで済ませるよう命じられたようです。野菜不足から体調を壊す者が多く病に倒れるほどだったのです。
食事内容も体力仕事に就く人たちの食事とは言い難い質素でヘルシーな内容でした。白ご飯と具はほとんど入っていない塩辛いだけの味噌汁とメザシが朝と昼に出たようです。
夜は、水にカレーの風味をつけただけのようなシャビシャビのカレーライスで、美味しいとお世辞でも言えないメニューだったようです。食べなければ体が持ちませんので、味わうことなく食べたのです。
残酷ともとれる条件は刑務所よりも酷いとされ、わざと乱闘騒ぎを起こして牢屋に戻されることを願った者もいたとされます。それほど酷い環境だったのです。
タコ部屋労働者の扱われ方
殺人や盗人などの悪いことをして囚われた人間でも恐れ入る場所でありました。一体どのような扱いを受けてきたのでしょうか?残虐でもあった黒歴史について検証していきましょう。
粗末な小屋に閉じ込められる
作業現場によって移動がしやすいように簡素な掘立小屋でした。薄い板の壁と木の皮で屋根を被せた作りでした。小さな窓が一つあるのみで光は入ってこず、喚起も皆無だったため常に薄暗くて湿気に帯びていました。
部屋に全員が入ると外側からカギが掛けられ出入りは一切できなくなります。脱走予防のため、ドアに鈴がつけられていました。寝ずに見張る番人もいたようです。
移動中は縄や鎖で繋がれる
脱走しないように一斉が網で繋がれており、足には重たい鉄の塊と鎖が装着されました。歩くだけでも重労働な上に、さらに過酷な勤めをさせていました。同じ日本人ではありましたが、奴隷として扱われていたのです。
栄養のない食事と過酷な就労で、げっそりとやせ細り骨と皮しかないような姿になっていくのでした。雇い主たちは、勤めをしてくれてお疲れ様などの労い言葉など一切なく、心の中で微塵も思っていなかったことでしょう。
逃走者は見せしめに殺されることも
絶えられなくなって逃げる者もいました。山の奥深い場所にあったため日々の疲れから体力もなく、すぐに連れ戻されます。大勢の見る中で棒で叩いた後に裸のまま外に縛りつけ放置したといいます。
多くが絶命し亡骸は山奥に遺棄されました。ラッキーなことに脱走成功したとしても、人の出入りがない山奥ですから道に迷い遭難し、そのまま息絶えた者も多くいました。逃げるも地獄だったのです。
タコ部屋の労働によって作られた建設物
多くの人が苦しみながら作られたものが多く存在しています。何気なく通っている建物が、実は冷たい汗を流しながら働いた囚人たちの結晶であるかもしれません。
5か所の素晴らしい功績現場ではありますが、現在は使われずひっそりと佇んでいるものが多いです。順番にご紹介します。
常紋トンネル
蒸気機関車の立派な姿と生音が聞ける場所として鉄道ファンの中で人気の場所になっていました。長さ507mの穴を掘るのに36カ月かかったのです。
そして立派に完成するまでに100人もの命が魂となりました。開通後に電車がいきなりトンネル内で停まってしまうトラブルが相次いだため、供養をし今でも毎年6月に採り行われています。
地震で壁が倒壊し修復作業を行った際に、たくさんの人の骨だろうとされる物が発見されたため、携わった就労者に追悼の意を称し、碑が立てられ今もひっそりと陽を浴びています。
このトンネルについて詳しく知りたい方は、こちらも良かったらご覧ください
越川橋梁
オホーツク海に面した斜里郡に作られたコンクリート製の鉄道が通る橋です。戦後の物資不足のため強度を高めるための鉄鋼は使用されずに完成しています。
鉄不足から線路が作れなかったため作業が途中でストップしますが、結局開通自体がキャンセルとなり一度も橋は使われることなく姿を残しています。
11名の命が亡くなっていながら使われることなく月日が流れる悲しい歴史として残っています。平成10年に国の重要有形文化財として登録されています。
深名線
今は使われていない線路となってしまっていますが121.8kmの長さを誇り21駅を繋いでいました。廃線となった背景には、利用者がさほどおらず赤字経営が続いていたため、短い区間で運行するバスに切り替えました。
大掛かりな施工でしたが、信号切り替えの一切なかったレールは、常に運転士が乗車せねばならず負担が大きかったようです。
狩勝トンネル
旭川から釧路までを繋ぐ通路として作られています。完成するまでに7年かけたと言われているのですが、この間に日露戦争が起きておりますので実質施工している期間は相当短期間なものだったようです。
劣化に伴う漏水でつららができてしまうことから、事故防止のために新しくトンネルを作り現在はひっそりと佇んでいます。
浅茅野飛行場
たくさんの人数を集めた作業だったと言います。朝鮮人も要請されたのですが日本政府や警察関係者が詳しい資料を公開しないため、どれほどの人員だったのか明らかになっていません。
証言によると800人前後だったようです。他にも宇都宮刑務所から100名、一般人220名ほどの労働者が汗水出して作り上げました。
昭和初期からタコ部屋は徐々に姿を消す
きつい肉体労働もありましたが、虐待のような劣悪な環境と人間として扱われない冷酷さが浮き彫りとなり、世間では批判の声が挙がるようになってきたのです。
これがきっかけとなりブラックな労働形態を排除しようという動きが強まりました。ただ、すぐには撤去できるような簡単な事情ではなかったようです。真相と経緯についてご紹介していきます。
労働条件の改善を要求する声が高まった
環境を少しでも居心地のよい物に変えていくよう呼びかけ運動が始まりました。そして縛られている労働者を自由にさせようと北海道の同庁も乗り出し訴えてきました。
ですが、建設業者と政治家が闇でタッグを組んでおり運営していたことが要因で、強い裏のルートには立ち位置出来ず、簡単に問題解決とはスムーズにならなかったのです。
GHQがタコ部屋をなくすように指令を出す
この噂はたちまち拡がり、日本国軍のトップの耳にも入ります。国家連合を交えている他国に日本の裏実態を知られてしまうことを恐れ、最高司令部は直ちに解散し粗悪な労働環境を排除するよう命じました。
新聞社も大きく取り上げるようになり、徐々に明るい日差しが立ち込めるようになったのでした。
アメリカの建設重機が導入される
同時に、働く側の人権を守る動きが活発になり始めます。社会的地位を維持しながら賃金を得ることができるような環境作りに人々は興味を示していました。
効率よく作業が進んでいくように、米から重機を輸入し人員が削減されます。過酷だった労働から解放されつつあったのです。
裏では、借金の返済ができなくなった者を集めては、以前のような仕事を与えていた背景は急にはなくなりませんでした。戦後1955年以降の急速な発展を遂げていった後は、徐々に影を潜めていきました。
タコ部屋は現代でもある?
これらの話は歴史上のものであり今は一切なくなっているのでしょうか?人権の尊厳を掲げている現代では、労働の自由も定められています。ですが名前を変更し姿を残していると囁かれています。
実際に起こっているストーリーをご紹介します。
多重債務者はタコ部屋に送られることがある
自転車操業のようなお金のやり繰りで、返済が滞ってしまった人や貧困層をターゲットとし、食事と寝る部屋付きの簡単な仕事で儲かるからと、おいしい言葉を並べて騙して連れて行かれることがあるようです。
銀行からの正当な利息借り入れではなく、いわゆる闇金業者から借金をし高額な利息がつくため、完済すら難しいとも言われています。
そういった返済できない人が送られ以前のような劣悪さはないものの、酷い環境のようです。借金を抱えている人は働いても手元には、わずかなお金しか残らずいつまで働けば完済となるのか見通しすら見えなかったようです。
騙されて入った人は、主に住まいのなかったホームレスだったため、暖もとれて食事にありつける場所に気に入って進んで仕事を従事していたと言います。
法律で闇貸しが禁止されているため、報道されていません。ですが実際に起こっているニュースであります。
タコ部屋は社員寮として存在する
求人誌やネットに、日当9000円前後で3食の食事と寮付きといったような記載があるものが見受けられます。現在はタコ部屋表記が禁止になっているので、あからさまには表現できないのですが募集は存在しています。
応募して出向いたら実は危険だったというパターンが多いようです。働けば給料は日払いで貰えますが寮の部屋代や食費などが引かれるので、手元にはわずかなお金しか残らないとされています。
過酷な労働と僅かな給料
明るくなれば働く時間として動いたようで、外が暗くなり周りが見えなくなるまでと曖昧ではありました。稼働時間や条件など法に則ったルールはここでは通用しないとされています。
食事休憩として30分ほど自由時間がありますが、疲労で倒れてしまったり、暑さで熱中症のような症状が出てしまった人も適切な治療は一切なく横になるだけだったようです。
わずかに残るお金と日々の蓄積されていく疲れ、肉体的にも精神的にも過酷で人権の尊厳など保たれる現場ではなかったようです。
現在のタコ部屋「朝日建設事件」とは?【実話】
まだほんの少し前である平成の時代にも反社会組織が関与し過酷な労働を強制し、奴隷のように扱っていたトラブルが実際にありました。3人もの尊い命が奪われ、土の中で発見されたのです。