追求していくと不思議なポイントはあるかもしれませんが、都市伝説にしては随分昔から言い伝えられている話ではないでしょうか。姨捨山の伝説の疑問点や口減らしがあったとしても現実にあり得るかに迫ってみます。
実際はリスクが高く姨捨山伝説が現実にあったとは考えづらい
姨捨山の伝説が食べ物の不足からきているとして、山まで親を運んでいく労力があったのでしょうか。とてもリスクを負って親を運んでいくことになりますが、高い山へ反対にお腹が空くであろうことをするなら親に食べさせた方が早く、現実なら今に至って骨など瓦礫のように積まれているかもしれません。
時間の経過があるとはいえ、おそらくその場所には誰も近寄らず、反対に誰もが口を閉ざすのではないでしょうか。現実的に考えづらいことが都市伝説ではないか、と言われる理由かもしれません。
江戸時代ではむしろ若者が口減らしにあっていた
江戸時代には確かに墓地は位が高くなければ、手に入らなかったかもしれません。墓地が全くなかった記述はどこにもなく、あくまで「暮石」の価値が高かったとも言えるでしょう。少し触れましたが、老若男女いたはずの江戸時代では、若くて小さい存在である乳児が棄てられていたともされているのです。
帰ってこれず、自ら歩くこともできず、話をすることも困難な「子捨て」がされていたと言う説もあります。泣く子を黙らせる口減らしがあったとすれば、姥捨ての伝説もかき消されることになるのではないでしょうか。
日本各地にも姨捨山と類似した伝説は残されている
姨捨の伝説は、長野県や東北地域に限った話だけではありません。姥捨てや、子捨ての他に沖縄県では姥捨だけではなく妊婦飛ばしなど、人口を減らす目的の話が各地にあるのです。家族が多かった昔には、3世代まであると人数を減らす目的で殺してしまうこともある話もあります。
日本以外でもありますが、各地に口減らしの目的や人口を減らすなどされていたことも伝説にあるのです。日本各地に残されている姨捨山と類似した伝説は、地域など関係なく残されています。必ずしも全てが噂だけではなく、長野県内だけでも各地で様々な噂もある謎多き伝説でしょう。
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姨捨山は現代にもある?老人ホームを姥捨山と呼ぶことがある
姨捨山の伝説が事実に基づいているかは定かではありません。広まっている話の多くは、生活の苦しさから考えると全くあり得ない話とは言い難いでしょう。
現在も存在しているとは限りませんが、老老介護にもみて取れるように今の時代背景にも関係することが言えます。各地に伝わる説が必ずしも作り話でないことも言えるのが、現在の抱えている問題かもしれません。
高齢化社会が原因で介護施設が足りていない
必ず老人ホームが空いているとは限らない現在に、特に多いのが認知症の問題です。若い世代が介護するより問題視されているのが、老老介護の問題でしょう。特別養護老人ホーム(特養)では、認知症の程度によっては介護を受けられない、または施設不足も確かだからです。
子供の数より高齢化社会が進んでいる中、避けられないのが介護の問題ですが、診断内容によっては程度が重くても施設の割合が足りていない現状があります。過疎化によって地方でも問題に、都会においても大家族が減っているのが姨捨山の背景にあるのかもしれません。
遠い地域の老人ホームに追いやられることを姨捨山と呼ぶ例も
人里離れた地域に高齢の親などを入居させると、あまり顔を見る機会がないことが多いのではないでしょうか。離れた地域でも、老人ホームなら安心感があると言う思いから、あまり親の様子を見に行かない、しばらくすると自然に足が遠のくと言うことがあるかもしれません。
遠く離れた地域の老人ホームに入居させることは、ある意味追いやられることにも近く、現代版姨捨山と呼ぶ例もあるからです。近所の老人ホームが空いていないから、と遠くの施設に入居させることが仕方がないことでもあり悲しい現実ではないでしょうか。
南伊豆の老人ホームは立地の悪さから非難されている
南伊豆にある老人ホームは、まさに非難の対象になっています。立地の悪さから日帰りはもちろん、家族が訪れることも困難な場所にあり、いくら高齢化が進み施設がないからとは言え、厄介払いのために入居させている、困難な場所はまるで姨捨山のようだと非難が絶えません。
高齢化問題は今に始まった話ではありませんが、近年では特に子供が親の世話をすると言う形より、夫婦が支え合う老老介護の問題がクローズアップされているのです。そこには施設の問題はもちろん、介護サービスの問題も多きく関わってきていることは否めません。
「まんが日本昔ばなし」における「姥捨山」
「まんが日本昔ばなし」にも姨捨山は「うばすて山」として登場します。1976年1月10日の放送での話ですが、この話に心打たれた方も多いのではないでしょうか。
「まんが」とは言え、話に聞くだけではなく、姿を見たことで感情移入してしまうこともあるでしょう。放送された時のナレーションは市原悦子さんです。長野県地方の昔ばなしとして紹介されている話ですが、どのような話でしょうか。
内容は姨捨山伝説「枝折型」
「まんが日本昔ばなし」では、青年が60歳を過ぎた親を山に捨てに行くも、戻ってきて親を床下に隠すと言う話です。そこへ国のお触れが出て、隣国が攻め入るのに知恵を働かせる親の話になっています。
最初は「枝折型」のように息子の身を案じているのですが、隣国が攻めいる時に知恵を働かせ解決させ、親の知恵と知った国が今度は敬うようにした姿はどこか「複合型」にも近いでしょう。長野県地方の話とはなっていますが、60歳を過ぎた年齢で姨捨山に行くと言う話は東北地方のことも指しているのかもしれません。
『うばすて山』を見た反応
「まんが日本昔ばなし」の「うばすて山」を見た方の反応は様々で、長野県には怖い話も存在するといった話もあります。または伝説が本当なら悲しいという意見や、地域によっては話が異なるなど様々です。
無事に連れ帰った話が多い、置いてきた話もあるなど様々ですが、影響が多かったことは確かでしょう。その内容を見て初めて姨捨山の話を知ったという方も中にはいます。悲しい話が含まれている一方、親を大切にしないといけないという意味も含まれていることが伺えるかもしれません。
姨捨山をモデルにした映画があるデンデラ
姨捨山をモデルにした映画はいくつかありますが、その中でも怖いとも捉えられる内容もあります。必死に生きようとする姿を描いた話、小説を元にした映画など様々ですが、怖いとも言われるのはある意味悲しみから生まれる内容に復讐心が加わった内容が盛り込まれたりなど様々です。
小説からの内容ではカンヌ映画祭でグランプリを受賞するなど、姨捨山の伝説には魅了するものがあるのでしょう。
姥捨のその後を描いた「デンデラ」
悲しく怖い内容について触れましたが、姨捨のその後を描いた「デンデラ」という映画があります。棄てられた老人たちが必死に生きようとする話ですが、そこに生まれるのは「生きる」だけではありません。
棄てた者たちへの復讐心が見て取れることでしょう。姨捨の内容ではあるものの、その後を描くといった映画「デンデラ」も、また悲しく恐ろしい話なのかもしれません。
同名小説をモデルにした映画「楢山節考」
どこか宗教的要素も加わっていると感じるかもしれませんが、見るものにショッキングな感情を抱かせる内容になっている「楢山節考」は、まさに小説と同名になっています。
モデルにしていることは確かですが、70歳を迎えた親と子の姿、自然の中では致し方ないくらい現実なら恐ろしさも感じる内容は、第36回カンヌ映画祭でグラン王離に輝いたことも頷ける内容になっているでしょう。悲しみや優しさの中でショックも受ける内容になっているのが、映画「楢山節考」です。
姨捨山の伝説にまつわる「大和物語」の一説
「大和物語」にも記載があったことに触れましたが、その内容は息子の嫁に関係する内容です。おばの存在を忌み嫌っていた嫁は、旦那である息子に年老いたおばを棄てるように迫るという内容になります。
騙して月夜におばを連れていった息子でしたが、後悔して迎えに行くという内容です。その内容は「大和物語156段」に長野県更級のこととして詠まれています。姨捨山の伝説の一つに挙げられる事柄として、記されているのです。
長野県に伝わる「おじろく・おばさ」の風習
長野県下伊那郡天龍村に伝わる悲しく、切ないおじいいさんとおばあさんの話もあります。姨捨山の話では親を棄てる、という話になっていますが「おじろく」とはおじいさんで「おばさ」とはおばあさんです。生まれてから亡くなるまでの生涯、村から出ることができず、無償で家主のためにだけ働き奴隷のように扱われ、誰よりも身分が低い存在だったと言われています。
しかもその風習はは数百年も続き、生まれてからなので、何も知らず知らされないまま話もできず、働き続けるも厄介とされていたという話もあるのです。
その「おじろく・おばさ」について興味のある方はこちらもご覧ください。
姨捨山は実在しないと思われるが現代では他人事ではない
姨捨山には諸説があり、現代ではあり得ないと感じるかもしれませんが、現実にあった可能性は否定できません。高齢化社会の現在、食に苦しんだ昔とは違っても介護の問題は避けて通れない深刻な事柄です。
周りにサポートはもちろん、自分の身に置き換えて姨捨山が実在してもしなくても、現在では他人事ではない現実を受け入れなければいけません。
姨捨山に関する記事はこちら
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