伊勢崎市同居女性餓死事件とは?監禁による餓死事件
犯人である金井幸夫は、中学校の特別支援の学級でクラスメイトであった主婦の長谷川三根子さんを2度にわたり自宅に呼び出し監禁状態にしています。
一家総出で監禁・暴力・食事を与えないといった劣悪な環境の下餓死させました。遺体は身長158cmで体重はたったの26kgしかなく、骨と皮しかない状態でした。
小学3年生ほどの重さであり、今まで息をしていたことが不思議であるほどでした。当時男の両親と姉・幸夫の長女という家族構成です。
母親と姉は、日々の壮絶な男の暴力から逃れるため、また鬱憤晴らしに犯行に加担しており、被害者でもあり共謀者です。
その背景には、姉が弟に犯されるなど複雑な環境が存在しており、支配された第三者が介入しにくい家庭という箱の中で起こった深い人間の心闇を考察していきます。
伊勢崎市同居女性餓死事件の概要と判決まで
事が判明したのは、男からの一本の電話からでした。妻が動かないと訴えてきたため救急隊が現場へ駆けつけると、本当に今まで生存していたのかと目を疑うような、ガリガリに痩せたミイラのような姿の亡骸が布団に横たわっていました。
家庭環境は複雑で、彼女を痛みつけるときだけ悲しいことに一家は団結していたのです。それも主犯の男のターゲットが自分に向かないように共謀したのでした。時系列でこの一連をみていきます。
長谷川三根子さん1度目の家出は連れ帰された
1993年に彼女が幸夫から呼び出されています。結婚している人妻でありますが1度目の家出をし、事件現場となった家で生活をします。
なんの疑いもなく、群馬県太田市に位置する鳥之郷団地へ足を運びますが、足取りを捉まれ兄と夫の弟から連れ戻されています。凶悪犯の家族構成は、金井幸夫37歳と両親・38歳の姉・男の前妻の間に儲けた長女14歳です。
本来であれば中学生で学業に部活動に励んでいたでしょうが通学せず、家の中に引きこもった生活をしていました。
長谷川三根子さんの兄は幸夫に謝罪させ声も録音していた
男が妹の同級性で素行が悪いことを知っていました。今後一切連絡と接触をしないよう語らせ録音します。
涙を流して詫びていますが、これから起こる悍ましい出来事から想定すると、心から反省とは到底思えず演技だったといえるでしょう。
長谷川三根子さん2度目の家出から3年10ヶ月の監禁が始まる
1度あることは2度あるとも言いますが、1998年に再度家出をしてしまいます。頻繁に連絡を取り合う間柄は途絶えりことなく継続していたようです。
2年前に群馬県太田市から幸夫の両親・姉が逃げるように引っ越しているため行方がわからない状況でありましたが、電話で聞いていたのでしょう。当時の通話料が30万にも及んでいたといいます。
払いきれない請求書を目にし、彼女は旦那から怒られると悟ったのでしょうか。縁を切ることを録音までさせておきながらも、離れられない関係だったのでした。
なんと伊勢崎市の借家を探し当て一緒に暮らすようになったのです。彼女が帰宅しないため父親が訪ねてきましたが、「いない」と母親が帰しています。
三根子は男と隠れて、ときが過ぎるのを待っていました。このときに引き返されていたら、命は守られていたのでしょうか。悔やまれるものであります。
長谷川三根子を虐待することで母と姉は結託した
三根子が来たことで、新たなるターゲットが登場し一家の女たちは喜んだといいます。凄まじい暴力が自分らに向かなるからです。
痛い思いをしなくても済むという安堵感で満たされたようでした。家事をしない・口答えする・大小便の粗相をするといった日常生活の指摘を繰り返し、彼女に激高したのです。
今まで主婦として家の事を全般に行っていたことから、現場がゴミ屋敷化していたために、どこを片付けたらいいのか何を触ったらいいものかが判断できなかったとされます。
バラバラだった親子は、悲しい出来事ではありますが団結し、攻撃していったのです。傷つけることしか収束できない絆というものは、何とも哀れなことでしょうか。
心は麻痺し、荒んでいたことでしょう。今までの男の支配力のパワーが表れているようでした。
暴行に飽き足らず、長谷川三根子に食事まで与えられなかった
人間の欲求の一つでもある、食事は生きていくために必要な日常の行動であります。それさえもこの場では許されませんでした。まるで透明人間かのような扱いを受け、胃袋が満タンになることは一切ありません。
一家の暮らしは裕福とはいえない貧困層であったことから、他人の面倒までみるほどの懐ではありませんでした。
1日2回から1回へと減っていき、見るからに痩せていきました。空腹に耐えきれず、残飯を漁って飢えをしのごうとしていました。彼女は必死に生きようとしていたのです。
父親だけが、見兼ねて長谷川三根子に食事を与えた
日に日にやせ細っていく姿を身近で見ていて、哀れに感じたのでしょう。家族には内緒で食べるものを与えていました。
また家に戻そうと提案し気遣った様子もありましたが、病院へ連れて行き治療をさせるなどといったことはしていませんでした。
足腰がおぼつかない彼女でありましたが、命の危機を感じたのでしょう。勇気を振り絞って外に逃げています。食べておらず体力もない弱い体は、あっけなく連れ戻されてします。
その役目をしたのは、父親でした。あれだけ気に留めた行動を起こしていますが、家族の目が怖かったのでしょうか。自分に力が向いては困ると思ったのかもしれません。
2度目の脱出失敗で手足をガムテープで縛られるようになり、家という恐怖の箱の中で弱っていくのを、ただ待つだけという死のレールが敷かれていました。
長谷川三根子の死が近いことを知っても一家は黙認し続けた
骨と皮だけの姿になり、逃げる気力も動きもできなくなり、目を見開いているだけの放心状態が続きました。か細い声で、痛いことや苦しいことを訴えていますが誰の耳にも届かず日数だけが過ぎていきます。
2001年11月頃からは、誰もが死を悟ったようです。体の衰弱が明らかであり、病院へ連れて行くにも家へ返すこともできない状態でした。父親が仕事を休んで、ひたすら監視していました。
心配で傍にいたのではなく、いつ息絶えるのかを生の目で見届けようとしていたのです。気まぐれで幸夫がご飯をあげようとしたら、受け取ろうとした手を姉が叩き、米が床に落ちてしまったのです。
それでも必死に命を繋ぎ止めようとした彼女は、口に入れたといいます。ただ弱り切った体は、悲鳴を上げていました。咬むことも飲み込むこともできなかったのです。
長谷川三根子の死後2日、幸夫の通報で事件が発覚した
11月10日に亡くなったとされます。朝には冷たくなっており、暗い部屋の中で一人寂しく幕を閉じたのでした。2日後に警察を呼んだのですが、悪びれる気配は全くありませんでした。
救急に、妻が息をしていないと通報し、放置していたら息をしなくなったと告げています。その声は大切な人が死んでしまったときの取り乱す様子はなく、淡々としており落ち着いていました。
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亡骸は、今まで息をしていたのが不思議だったような姿でした。一切の水分を摂っていないことから骨に皮は張り付き乾燥しており、ミイラを見ているようだったといいます。
行方がわからず、会いたいと願っていた彼女の両親と夫は、その場に崩れ落ちたのでした。どんな姿でも生きて会いたかったと愛する三根子と無言の再会を悔やんだのです。
怒りと悲しみが一気に襲ってきたことでしょう。しばらく顔を見ていなくても、愛する人を失った空虚感は、そう簡単に立ち直ることはできなかったのです。
伊勢崎市同居女性餓死事件の判決
このままでは死んでしまうと一家は悟ったとされますが、誰一人救おうと行動しませんでした。一緒の屋根の下で暮らしていたはずなのに、いないものとして過ごされ、人として生きていくことを全て奪われています。
4人は、殺人罪として前橋地裁に起訴され、主犯として刑罰を受けた幸夫は懲役12年、暴力という痛みを与え続けた母親と姉には共謀犯として8年、父は4年の実刑は2002年11月に確定しています。
ただ、この刑罰に関して、徐々にと苦しみを与え続けその経緯を楽しんでいるかのような残忍な行いであり、命を軽く見ているのではないかと年数が短すぎるのではという声もあるようです。
また一家にとって主となっている男の存在が恐怖でしかなく、自分が被害に遭わないように仕方なく主従しているといった闇も見えています。
従うしかなかった彼女らは、ある意味被害者でもあり心に傷を負った同士が寄り添っている関係性がありました。痛みつけるターゲットを常に仕留めておかなければ、一家として保てなかった異質さも際立っています。
第三者が介入できにくい家庭と言われる悪の箱の中で日常的に行われていた地獄のような日々は善悪の判別もできないほど、心を蝕んだのでした。
伊勢崎市同居女性餓死事件のその後は?
血の通った人間が行うことではないような生き地獄の一連は、世間が震撼しました。遺族の悲しみは計り知れないものです。何もあの日と感情は変わっていなくとも陽は昇り毎日が必ず訪れます。
月日だけが流れていきましたが、全員の刑期が終了しているとされます。遺族からしてみると、のうのうと表にできてきた彼らを一生恨んでいくことでしょう。
現在はどのような状況なのでしょうか?その後に迫ります。
2019年現在、主犯含め全員出所も足取りは不明
塀の中で罪を償い、表社会へ出されています。秋田県に嫁いだ一番下の妹は、身元引き受け人を拒否していますので、どこでどのように暮らしているのか闇に包まれています。
以前から定職に就かずに姉の障害者手当と、少しばかりの父のバイト料で生計を立てていたことから考察すると、まともに従事しているとは考えにくのではないでしょうか。
職に就いたとしても、長くは続かないことでしょう。生活保護を受けているか、もしくは改心し真面目に精を出しているのかもしれませんが特殊な家庭環境だったため性分というものは、そう簡単に変えることは難しいのではないでしょうか。
事件現場の家屋の現在も不明
6畳と4畳半の2部屋しかない年季の入った狭いトタン屋根の木造住宅であったのですが、今はどうなっているのかさえも不明です。
今にも崩れそうな家屋だったことから取り壊され、新しい住宅地となっている可能性も否めません。もし現状があったとしても、壮絶な出来事がなされた現場には誰もが足が遠くのではないでしょうか。
気持ちよく過ごせる空間ではないことは確かでしょう。
伊勢崎市同居女性餓死事件主犯の金井幸夫の生い立ち
長男として生誕した彼は、甘やかされて育てられる一方で、近隣住宅にまで聞こえるほどの大きな声で泣き叫び、両親からの虐待を受けていたとされる複雑な環境でした。
結果、精神不安定な男が形成されたのではないかとされています。一体どのような幼少期を過ごしていたでしょうか。みていきましょう。
金井幸夫の両親はまともに仕事をしていなかった
狭い住宅の中に、両親・姉・妹の5人の家族住まいでした。父親は難聴ぎみであり競輪好きだったことから、ほとんどをギャンブルに使ってしまいます。
母親はというと、一定作業を行う工場に勤めておりましたが長続きはせずに辞めてしまっています。お金を家庭に入れない旦那と家計の危機を感じない妻であったため非常に貧しい生活でありました。
両親ともに仕事が長続きせず、社会から疎遠となっており独特のグループを作り上げていったのです。幸夫が特別学級へ入っていますが、両親も知的な発達遅れがあったとされます。
金井幸夫は母親から溺愛と暴力を受けて育った
待望の長男であったことでしょう。べたべた甘えさせる生活をさせた反面、近所に泣き声がこだまするほどの酷い虐待もしていたとされます。教育に関して一貫性がなく、戸惑っていたようです。
親の気分によって対応が異なったのでしょう。そんな幼少期を過ごしていますので、何をしたらいけないことなのか判別できなかったのです。自分の感情を出せず内に秘めてしまう少年になってしまったのでした。
後に、弱い者に対しては絶対的な力を見せつけ支配していくこととなってしまうのです。
金井幸夫は小さい子をいじめ、こき使っていた
少なからず親からの乱暴で、心に傷を負っていたことでしょう。心の歪みとして表れ始めることとなります。不安定な教育を受けてきた彼は、異質な雰囲気を放っていました。
人見知りをし、感情を見せない子供でありましたが、両親からの虐待で心を閉ざしてしまっていた可能性が高いでしょう。