小林薫死刑囚の生い立ちや性格は?奈良小1女児殺害事件の概要と裁判も

2006年2月14日、彼の情状鑑定書が地方裁判所に提出されました。鑑定内容は犯罪精神医学に詳しい方達による面接などを通じておこない、小林薫は犯罪などを繰り返し起こす「反社会人格障害」及び「ペドフィリア」と診断されました。

小林薫は減刑を望まず

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彼は、徹底して極刑を望んでいました。なので減刑を受けないために、悪い印象を与えるだけの発言を繰り返していました。最初に行われた公判の際にも、反省する気持ちがまったくないことや、更生する自身も持ち合わせていないことを伝え、早く判決を受け、第二の宮崎勉、または宅間守として名前を世の中に残したいという旨を言っていました。

小林薫の判決は求刑通りの死刑判決

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6月5日の公判では、検察側は容疑者の犯行を、自らの欲望を満たすための犯行であるとした上で、被害者の両親の処罰感情も激しいものだったと語ります。さらに、当の本人は謝罪もせず、そして反省の態度もまったく示していないことから、更生する意欲がまったく欠如しているため、更生することは不可能だろうとして彼に極刑を与えることを要求していました。

そして9月26日に、最終的に奈良地裁は、彼に命をもって償うことを是とし、求刑通りに死刑を言い渡しています。図らずとも、彼が望む死刑をそのまま罰として与える結果となりました。言い渡しの後、彼はこぶしを握り締め、何度かうなづいたようです。これでこの事件に一旦の区切りがついたこととなります。

小林薫のその後と現在は?

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この項では、死刑が言い渡された後の彼の行動や、現在の状況などを紹介していきます。死刑は執行されたのか?いつされたのか?また、彼は遺族に対し手紙を残していますがその内容についても触れていきます。

小林薫は遺族に手紙を出したが受け取り拒否

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2006年10月30日、彼は被害者遺族への手紙を、弁護士に託しています。内容としては、自分が人として最低な行動をとり、その結果有山楓ちゃんを死なせた事に対する謝罪。意見陳述を聞いて心が打たれていたが、公判中に謝罪の気持ちを表すことができなかったということ。刑の執行を持って罪を償うということの三点です。

しかし、遺族側は公判中の態度から、その反省が本当の姿ではないとして、受け取りを拒否しています。言い渡しの際にはガッツポーズも見せています。死刑を言い渡された犯罪者の姿としては到底ふさわしくないのでこの反応は至極当然の結果であるように思います。

小林薫は2013年に死刑執行

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彼は2013年2月21日に、大阪拘置所で死刑が執行されました。同じ日には、土浦連続殺傷事件、名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件の死刑囚と共に死刑が執行されています。享年44歳です。

遺族の傷は癒えることはありませんが、これでこの事件は完全に区切りとなります。判決自体は遺族の望み通りの結果である極刑になったことが、せめてもの慰めになればと思います。

小林薫が起こした「奈良小1女児殺害事件」の真相

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この項では、小林薫が逮捕後に語ったこととそれにまつわるエピソードの一部を紹介していきます。また彼の公判中の態度についての真相についても考察を綴っています。気になった方は是非とも読んでみてください。

小林薫は第二の宮崎勤、宅間守になりたかった?

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小林薫死刑囚の根底には死刑を望んでいる節があり、公判中は死刑になるために反省する姿を見せることができなかったと語っています。小林薫は減刑を望まず、の項でも紹介した通り、第二の宮崎勤、宅間守になりたかったのかと言われると疑問が残ります。宅間守死刑囚とも面会し、小林薫死刑囚とも面会した長谷川博一教授は彼のことを、他の面会した二人の死刑囚とは違うという事を先述した上で、世間的に悪である行為を行ったことはしっかりと認識していると述べています。

ここまでくると、彼の言い渡しの際のガッツポーズとは、長年の念願が叶った瞬間故に、自然と出てしまった行動なのかもしれません。どちらにせよ、彼がおこなったことは到底許されるものではありませんが。

宅間守についての記事もこちらで紹介されています。気になった方はこちらの記事についても参照して下さい

被害者の死因について小林薫が語ったこと

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死刑が確定して後、彼は獄内の雑誌にて手記を連載していました。そこでは裁判では語られなかった話が綴られています。それはどういった内容なのか、奈良小1女児殺害事件の真実足り得るのかを考察、解説していきます。

手記を書き始めた理由

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彼が獄内雑誌にて手記を書きたい理由は、事実と検察の筋書きとの相違を伝えたいといった理由でした。容疑者は死刑になりたいので争わずに法廷では成り行きを受け入れていたために、法廷にて真実を語ることを拒否していたのです。ですので死刑確定後に、手記にて真実を書き記していったようです。

女児の殺害についての真相

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この手記に記された内容によると、殺害の意思を持って犯行に及んだわけではなく、わいせつ行為に及ぼうとする前に、間違って溺れさせてしまった、ということでした。

睡眠薬ハルシオンを飲ませ、お風呂に入浴させていたところ、気づいたら溺れていたという内容ではありますが、その真実の是非はさておき非常に短絡的で思慮に欠ける行動であったのは言うまでもありません。そもそも睡眠薬を用いて強引に眠らせたこと、眠りながら浴場に浸かっているのに目を離す軽率さなど、彼の行動の愚かさには、枚挙に暇がありません。

弁護人はにわかに小林薫の主張を信用しなかった

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実際に、2005年、彼は弁護人を奈良から東京にわざわざ呼び出してこの真実を語っていたようです。睡眠薬として使用したハルシオンは、分解が早いので、司法解剖の結果、遺体から検出されなかったこととも矛盾はしません。

誤って死なせてしまったために自暴自棄になり、死刑判決のためにその後の行動につながったと言いますが、彼の主張を裏付ける証拠もなく、裁判をひっくり返すには主張が弱かったため、弁護士の対応は相応のものに落ち着きました。この弁護士の対応に対し、彼はひどく失望したようです。

その後の小林薫死刑囚の行動

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この発言に関しては、かなりの執着を見せ、弁護士の解任の嘆願をおこなったり、続く公判では真実を告げようとしました。しかし自分の言葉はどうせ信用されないからと、発言を取り下げ、黙することを選んだと関係者に告げるなど、単なる思いつきの嘘を否定されたとは思えないほどの執着を見せていました。

しかし実際に関わった人たちにも確信を持つことはできず、また真相は結局わからなかったため、現状を維持した結果、刑が執行される運びとなりました。

小林薫が引き起こした事件がきっかけで注目されたこと、変わったこと

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小林薫が引き起こしたこの事件は、各所に影響を及ぼし、様々な議論や集会が行なわれました。この章ではそれらについてどういったものか、どのような影響を及ぼしたのかについて解説していきます。

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