宮崎勤は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人
4歳から小学1年生までの幼女に近づいては連れ去り、殺めた上でわいせつな行為に及んでいます。1988年から一年間にかけて4人の小さな命が奪われています。
骨を遺族の住む自宅前に置いたり、遺体の手を焼いて食べたなど異質を放った男であります。彼の起こした影響は凄まじく、メディアやマンガなどで改正が行われました。
すでに死刑となっているためこの世に存在しない凶悪人でありますが、生まれ育った背景を辿り、なぜ幼い子供たちに手を出してしまったのか考察しながら、日本に与えた影響など解明していきます。
宮崎勤の生い立ち
まずは、宮崎の育った環境からみていきましょう。裕福な家庭に育ち不自由のない少年時代を過ごしています。貧困から心が荒み、犯罪に手を染める傾向が多いとされる中、なぜ歪んだ思考が形成されてしまったでしょうか。
お坊ちゃんであった彼のプロフィールや経緯について時系列で追っていきたいと思います。
宮崎勤の生い立ち①1962年、東京の裕福な家庭に生まれる
現在のあきる野市で長男として生まれます。近隣では名の知れた社会的地位の高い家庭でした。祖父は町会議員をしており、父は新聞会社を経営していました。
家族構成は祖父母と両親、妹が2人の7人家族でありました。両親は共働きで忙しく動いていたようです。現在では当たり前のように女性が社会進出していますが、当時は珍しい例であり、キャリアウーマン気質だったのでしょう。
幼い子供たちを自宅において勤めに出ていたため、親との関係は気薄であり会話も少なかったようです。小さい故に寂しい思いを抱えていたようでした。
このときの孤独感が後にとんでもない歴史に残るトラブルを発生させたのです。
宮崎勤の生い立ち②祖父と住み込み男性によって育てられた幼少期
裕福な家庭であったため現在でいうベビーシッター役として30代の知的な遅れのある男性を住み込みで依頼していたといいます。生まれたばかりの彼を、シッターと祖父の2人で可愛がっていました。
産後すぐに子を預けて仕事に出ている母は、朝早くに畑へ農作業に行き、夕方薄暗くなると帰ってくる生活だったため、親子のコミュニケーションはほとんどない状態でした。
祖母は、嫁である母に対して厳しい人で妊娠中も家でゆっくり休むことはなかったようです。よって身ごもっている間も周囲の目を気にして、食べる物も少なくしていたようで、未熟児として宮崎は生まれています。
父、母には構ってもらえなかったものの祖父たちには非常に可愛がられました。愛情をもって接してくれた祖父が死亡した数か月後に悍ましい事件を起こしています。
心の支えを亡くしてしまったことで彼の中で、何かが崩れていったのでしょう。
宮崎勤の生い立ち③先天性の障害によりつらい幼少期を送る
大変珍しい症例であり、150人ほどしか存在しなといされていた手のひらを上に向けることができない障害を持って生まれきました。
手術も検討したようですが、成功するのは非常に稀であることを医師から説明されて留まっています。リスクを負うくらいならと、両親は自然のままで過ごすことを選択したのでした。
家の中で生活をする分には支障がなかったようです。ところが幼稚園へ通うようになり、集団生活を送る中でリトミックやままごと遊び、おやつを貰うとき、手のひらを上にできない彼は、お友達からからかいの対象になったようです。
先生も何も対処しなかったことで辛い経験をしており、大人に成長してもトラウマとして根強く残っています。ある意味、子供は正直ですのであるがままを告げたことがショックだったのでしょう。
宮崎勤の生い立ち④怪獣博士と呼ばれた小学校時代。成績は良かった
怪獣が大好きで、生態について詳しかったことからあだ名をつけられています。決してクラスの中心的な人物とまでは、いかないものの勉強については常にトップ上位でした。
特に算数と英語は優れていて母が近所の人に自慢するほどだったようです。気薄だった関係でも、褒められたら嬉しかったことでしょう。
点数が良いことだけを嬉しがっていただけですので、頑張って勉強している工程などはあまり気に留めていなかったようでした。
宮崎勤の生い立ち⑤中学時代から負けず嫌いな一面が見えだしてくる
チャレンジ精神が旺盛であり、1年2年と陸上部に所属しています。3年では将棋に熱中しクラブに入っています。攻略本を熟読して独自に学び、対戦相手と勝つまで没頭しました。
負けると大変悔しがる姿を前面に出していたといいます。空手にも挑戦しており通信教育で型を習得する腕前でした。
興味のあることには前向きに試そうとする意欲が強く、誰よりも負けたくない一番が良いという意思が強かったようです。
宮崎勤の生い立ち⑥障害を気にして遠方の高校に進学、成績は下がる
唯一コンプレックスがありました。それは生まれながらにしての障害です。誰にも打ち明けることができず内にしまっていましたので、両親もそれほど気にしているものだとは感知していなかったのです。
わざわざ片道2時間も所要する遠い高校を選び通いました。てっきり両親は英語が得意な息子だったために、教員になるための有利な学校を選んだのだと喜んでいたようでした。
そんな明るい気持ちもつかの間、学力は自信がありましたが徐々に悪くなっていき、次第には下位から数えたほうが早いほどにまで落ちてしまいます。遠距離を毎日通うため疲れがでてしまったのでしょうか。
志望は明治大学を考えていましたが、到底叶えるほどの力は身に着けていませんでした。
宮崎勤の生い立ち⑦影が薄くパズルにのめり込んだ大学時代を送る
東京工芸大学の短期大学部に進学しました。画像技術科を専攻します。80人ほどの同級生の中にタレントの川崎麻世がいたようですが、当時の印象は残っていないくらい影が薄かったとされます。
この頃のブームはパズルで、自分の作品を専門誌に投稿したり、回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった腕前だったようです。一つのことにのめり込むと真っすぐに熱中し、自分を追い求めたのです。
宮崎勤の生い立ち⑧印刷会社に就職するも解雇される
卒業後は、叔父の紹介で就職をしています。ツテで入ったものの本人はやる気もなく勤務中の態度はかなり酷かったとされます。決定的なのは、上司から転勤の依頼をされます。
通常ならば内心は嫌だと思っていても、上からの指示は絶対的ですから従わなくては務まりません。彼はあっさり断ってしまいます。
ある意味、潔いともとれますがお坊ちゃん育ちだったためか、自分の思った通りにならないことは拒否していたのです。結果、退職しなければなりませんでした。しばらくは家の中で引きこもっていました。
このままではいけないと悟ったのでしょう。父の事業の手伝いをしています。新聞の原稿などを取引先へ受け取りに行くだけという簡単な仕事でありました。
長男でしたので、後は継がせたいという想いもあったのかもしれません。移動に車がないと困るだろうということから、車のプレゼントをしています。
宮崎勤の生い立ち⑨アニメ同人誌を発行するが仲間から嫌われる
独自の考えや負けず嫌いがあるためか、協調性がなく異質なオーラを解き放っています。何冊か作成したかったようですが、一方的な要求が多いため、周りから距離を置かれてしまいます。
願いは叶うことなく一回きりで終わっています。このときからアニメにも興味を持ちだし、異次元のキャラクターに熱中し出すのでした。
宮崎勤の生い立ち⑩ビデオサークルに参加・6,000本のテープを所有
多数のサークルに所属して、日本中のメンバーが録画したアニメ番組や特撮放送のビデオをコピーしては分け合ったり、集めるようになります。
彼の場合は、所持し自宅に保管しておくことだけで満足してしまったため、ほとんどは手つかずの状態でした。ここでも自我を主張し、無理な要求をしていたため仲間から嫌われています。