【よど号ハイジャック事件】概要と背景、亡命の赤軍9名のその後などを解説

よど号ハイジャック事件とは1970年に起きた共産主義者同盟赤軍派学生9人が北朝鮮に亡命を果たした事件であり、日本初のハイジャック事件でもあります。よど号ハイジャック事件の経緯と背景、人質解放に関わった人物、ハイジャック実行犯の亡命後の足どりも詳しく紹介します。

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よど号ハイジャック事件とはどんな事件だったのか

「よど号ハイジャック事件」とはどのような事件だったのでしょうか?ここではそのあらましと、事件の詳しい経過を紹介します。

よど号ハイジャック事件は赤軍派による日本初のハイジャック事件

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よど号ハイジャック事件は、1970年(昭和45年)3月31日から4月5日にかけて起こりました。

3月31日に東京から福岡に向かって飛んでいた日本航空351便(よど号)が、赤軍派の若者達9名に乗っ取られ、韓国経由で北朝鮮へ向かったのです。

武力突入の可能性もありました。しかし結局は日本・韓国・北朝鮮が連携し、若者達は北朝鮮が亡命者として引き受けて解決します。人質の命を危険な目にさらすこともありませんでした。

よど号ハイジャック事件のあらまし

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そもそもよど号ハイジャック事件は、どのように始まって進行し、どのような結果になったのでしょうか?誰が加害者で誰が被害者なのでしょうか?

ここではその経過を追いかけながら、ひとつひとつのポイントを確認していきます。

よど号ハイジャック事件は1970年、日本航空351便で発生

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1970年(昭和45年)3月31日午前7時33分羽田発板付空港(現在の福岡空港)行きの日本航空351便(よど号)が、富士山の上を飛行中に、武器を持った若者達に占拠されました。

若者達は男性客を窓側に移してロープで縛りました。それから操舵室に押し入って機関士を拘束、パイロット2名に北朝鮮へ向かうように命令しました。

よど号ハイジャック事件犯と板付空港で一部人質解放後北朝鮮へ

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この命令に対してパイロットは「この便は国内線なので十分な燃料を積んでいない」と嘘の説明をして、午前8時59分に板付空港に着陸します。

警察はよど号をそこに釘付けにするため、故障を装った自衛隊機を滑走路に止めるなど、いくつかの偽装工作をしました。しかしこの偽装が若者達を逆に怒らせて、早く離陸を!と脅すようになりました。

幸いなことに機長の落ちついた説得が実り、若者達は乗客の一部を自由にすることに同意します。こうして午後1時35分に子供・病人・女性・高齢者等23名が自由になりました。

よど号ハイジャック事件犯は韓国で膠着状態が続く

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よど号は板付を飛び立って、午後3時16分に平壌らしい場所に着陸しました。しかしそこは韓国の金浦国際空港でした。韓国側も、そこが平壌に見えるように周囲にいろいろな偽装工作をしました。

しかし今回もその偽装は若者達に見破られてしまい、韓国側との交渉も進まなくなりました。

そのときパイロットが機内の様子を書いた紙コップを投げ落とします。この情報をもとに、韓国側はテロ専門部隊がよど号を攻撃することを検討し始めます。しかし安全第一を主張する日本側の説得で、攻撃を中止します。

よど号ハイジャック事件犯は山村運輸政務次官引き換えに乗客を解放

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日本政府は、北朝鮮政府によど号が安全に北朝鮮に向かうことができるよう要請しました。北朝鮮側は、乗客と乗務員と機体を安全に送り返すことを約束しました。

橋本運輸大臣もソウルに行きました。4月3日になると、山村運輸政務次官が人質の身代わりになることで、日本政府と若者達は合意しました。

そして残った乗客とキャビンアテンダントが自由になり、よど号は山村氏とパイロット達3名と犯人の若者9名を乗せて、北朝鮮へ出発することになりました。

よど号ハイジャック事件犯は北朝鮮に向かう

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4月3日午後6時5分によど号は金浦国際空港を離陸しました。しかし機長は朝鮮半島の正確な航空図を持っていない上に、北朝鮮側の管制官のサポートもありませんでした。

このため機長は第二次世界大戦従軍中の経験を生かし、平壌郊外で見つけた小さな飛行場の滑走路に肉眼だけで着陸します。午後7時時21分でした。

こうして犯人の若者9名、パイロット2名と機関士1名と山村氏の身柄は北朝鮮側局の保護のもとに置かれました。その後機内に残された「武器」はすべてニセ物であることがわかりました。

よど号ハイジャック事件犯たちの亡命を受け入れる

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よど号が到着した後、北朝鮮側は「日本政府はやるべきことをやらなかった」と日本を非難しました。一方で人質達はゲストとして扱われ、食事と個室と映画などの娯楽が提供されました。

4月4日には北朝鮮は再度日本を非難しました。しかしその一方で若者達の亡命を受け入れ、機体と人質を日本に帰すと発表しました。

この発表を受けて、日本政府は北朝鮮政府に対して感謝の気持ちを示します。

よど号ハイジャック事件の人質全員が帰国する

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4月5日によど号は無事飛行場を離陸、管制官に示された飛行経路を飛んで北朝鮮の領空を脱出し、羽田空港に向かいました。

羽田空港では大臣などの関係者が出迎えて、よど号ハイジャック事件は無事に決着しました。

パイロット達と山村氏は英雄として大歓迎され、テレビ中継は高視聴率を記録しました。

よど号ハイジャック事件の犯人とは

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よど号ハイジャック事件の9名の若者達は、それぞれどのような経緯で犯行に至ったのでしょうか?

ここでは9名の若者達が所属していた組織と、犯行に至るまでの彼らそれぞれの経歴を、簡単に紹介します。

よど号ハイジャック事件は共産主義者同盟赤軍派の犯行

9名の若者達は、1969年(昭和44年)に結成された共産主義者同盟赤軍派(あるいは赤軍派)という組織に所属していました。

この組織は、左翼系のいろいろな組織の中でも、武装蜂起による革命を特に強く主張していました。後には連合赤軍や日本赤軍という組織に姿を変えて、世の中を震撼させる恐ろしい事件をいろいろと起こします。

詳細は後半で述べますが、その中には浅間山荘事件、山岳ベースリンチ殺人事件、国外におけるさまざまなテロ活動が含まれます。

浅間山荘事件

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1972年(昭和47年)2月19日、連合赤軍の5名が、軽井沢にある河合楽器の保養所である「浅間山荘」に管理人の妻を人質に219時間立てこもった事件です。

山岳ベースリンチ殺人事件

 

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連合赤軍が秘密基地としていた群馬県の榛名ベースで、規律違反者に対する「総括」(メンバー相互の批判や自己批判)が始まり、次第にエスカレートして行きました。

結局1971年(昭和46年)12月から2か月ほどの間に12名のメンバーが殺されました。

よど号ハイジャック事件の犯人①リーダーの田宮高麿

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田宮高麿(たみや たかまろ)は1943年(昭和18年)1月29日に生まれました。仲間の指導者格で、「まろ」というあだ名で呼ばれていました。

出身は岩手県ですが、育ったのは大阪です。大阪市立大学の第二部(夜間部)に在学中に新左翼の活動に加わりました。

関西ブント(関西共産主義者同盟)の下にある共産主義青年同盟の常任委員長を務めていました。

よど号ハイジャック事件の犯人②小西隆裕

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小西隆裕(こにし たかひろ)は1944年(昭和19年)7月28日に生まれました。東京大学理科三類に進学した、エリート医師の卵でした。東京大学ではキャッチャーとして野球部に在籍した時期もあります。

しかし彼はやがて野球部を退部して新左翼の活動に参加します。東大全共闘・医学部共闘会議議長となり、1969年(昭和44年)に赤軍派が起こした警視庁本富士警察署火炎瓶投てき事件に関係しました。

東京大学医学部は結局中退します。仲間の中では、田宮に次ぐ地位を占めていました。

よど号ハイジャック事件の犯人③柴田泰裕

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柴田泰裕(しばた やすひろ)は1953年(昭和28年)生まれで、仲間の中で最年少でした。

1969年(昭和44年)に神戸市立須磨高等学校に入学した頃から赤軍派の活動に参加します。ハイジャックに参加したときは、高校1年生で、まだ16歳の未成年でした。

よど号ハイジャック事件の犯人④田中義三

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田中義三(たなか よしみ)は1948年(昭和23年)7月23日 生まれです。青森県三沢市の出身ですが、7歳ごろに熊本県(母親の出身地)に移り住み、そこで育ちます。

大学は明治大学(夜間学部・政経学部Ⅱ部)です。1960年代末に新左翼活動に身を投じ、社会主義学生同盟に参加しました。

1969年(昭和44年)には既に赤軍派に加わっていて、警視庁本富士警察署火炎瓶投てき事件にも関係しました。よど号ハイジャック事件の際は、操舵室に押し入って機長に模造品の日本刀を突き付けています。

よど号ハイジャック事件の犯人⑤吉田金太郎

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吉田金太郎(よしだ きんたろう)は1950年(昭和25年)生まれです。高校時代に新左翼活動に参加して、制服・制帽姿で創刊したばかりの機関紙の事務所を訪れて、よく手伝いをしていたそうです。

京都市立堀川高等学校卒業後、日立造船で工員と働いていました。大学生が多い仲間の中では、ただひとりの労働者です。

ただし彼の祖父は裕福な実業家で、純粋な労働者階級の出身ではありません。

よど号ハイジャック事件の犯人⑥岡本武

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岡本武(おかもと たけし)は1945年(昭和20年)7月17日生まれです。

弟の岡本公三(おかもと こうぞう)は、1972年(昭和47年)5月に他の2名と共に、イスラエルのテルアビブの空港で乱射事件で有名になりました。公三は兄の武のことをとても尊敬していたそうです。

出身は熊本県です。京都大学農学部に入学しましたが、結局は中退してします。1968年(昭和43年)には東大安田講堂事件に参加しています。

よど号ハイジャック事件の犯人⑦魚本公博

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魚本公博(うおもと きみひろ)は1948年(昭和23年)3月19日の生まれです。結婚で名字を変えていて、元の姓は阿部です。

関西大学に入学しましたが、除籍処分になっています。

よど号ハイジャック事件の犯人⑧若林盛亮

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若林盛亮(わかばやし もりあき)は、1947年(昭和22年)2月26日に滋賀県草津市で生まれました。

同志社大学経済学部在学中によど号ハイジャック事件を起こしました。大学は除籍処分になっています。

よど号ハイジャック事件の犯人⑨赤木志郎

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赤木志郎(あかぎ しろう)は1947年(昭和22年)11月4日に生まれました。大阪市立大学在学中によど号ハイジャック事件を起こしました。大学は除籍処分になっています。

よど号ハイジャック事件のその後や裁判の判決

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よど号ハイジャック事件は、北朝鮮が実行犯9名を亡命者として受け入れて、一応の決着を迎えました。

その後の彼らの足取りは、北朝鮮の複雑な政治システムの中で途絶えてしまったようにも見えますが、決してそうではありません。

また逆に、向こうの社会の中で安定した身分を得てのうのうと暮らしたわけでもないようです。

よど号ハイジャック事件の亡命犯は警視庁により国際手配されている

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よど号ハイジャック事件犯達は、亡命することで逃げおおせたわけではありません。日本政府は全員を国際指名手配したので、北朝鮮を出国すればお尋ね者として追跡される生活が待っています。

実際、後述するように、柴田泰弘はは日本に極秘で帰国した際に、田中義三はカンボジアとベトナムの国境で逮捕されたのをきっかけに、どちらも日本で裁判を受けて服役しました。

よど号ハイジャック事件の亡命犯は北朝鮮に手厚い歓迎を受けていた

よど号ハイジャック事件犯達は、北朝鮮の保護の下で暮らしています。

彼らのほとんどは、1970年代後半までには日本からやって来た女性と結婚して、家庭を持ちました。一見テロや秘密工作とは無縁の平穏な生活を送っているようにも見えます。

しかし彼らも、北朝鮮の秘密工作活動とは無縁だったわけではありません。彼らや彼らの妻たちの中には、日本人拉致事件にかかわったと考えられている者もいます。

よど号ハイジャック事件の犯人の犯田中義三は懲役12年の判決

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田中 義三は1996年(平成8年)3月24日、カンボジアで北朝鮮大使館員とともに公用車に乗ってベトナム国境に向かいますが、結局はそこで逮捕され、タイに身柄が移送されます。

タイでは偽ドル札を使った罪で起訴されましたが無罪になりました。

タイで身元を明かす

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しかしこのとき自分の身元を明かしたので、2000年(平成12年)6月に日本に身柄が引き渡され、国外移送目的略取罪など3つの罪で起訴されました。

彼はは2002年(平成14年)2月に東京地裁で懲役12年の判決を受けます。控訴は棄却され、上告は取り下げたので、2003年6月に刑が確定し、刑務所で服役をはじめます。

よど号ハイジャック事件の犯人の柴田泰裕は懲役5年の判決

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柴田泰弘は田宮高麿の命令で、1985年(昭和60年)春に極秘で日本へ帰国しました。革命のための資金と新しい仲間を集めるためです。

地下に潜伏し、他人になりすまして活動していましたが、1988年(昭和63年)5月6日に偽造旅券を使った疑いで逮捕され、指紋で本当の身元がわかってしまいました。

彼は強盗致傷罪・国外移送目的略取罪等で起訴され、1990年(平成2年)12月に一審で懲役5年の判決が言い渡されます。1993(平成3年)年11月に控訴審で刑が確定し、刑務所に入ることになりました。

よど号ハイジャック事件実行犯の現在

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世間を大きく騒がせたよど号ハイジャック事件ですが、北朝鮮に亡命した後の犯人達は、その後どのような生活や活動を続け、どのように歳を重ねて行ったでしょうか?

ここでは現在(2019年)の時点で判明している9名の消息を、簡単に紹介します。

よど号ハイジャック事件犯リーダー田宮高麿は北朝鮮で死亡

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田宮高麿は日本女性と結婚し、息子が2人と娘がひとりいます。子供は3人とも日本に帰りましたが、日本人拉致事件で国際手配されている妻の森順子は、今も平壌で暮らしています。

突然の最期

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田宮 高麿は北朝鮮で仲間と共に活動を続けました。しかし 19951130日に、心臓麻痺が原因で突然亡くなりました。

遺骨は彼の兄が持ち帰り、彼の希望に従って実家の菩提寺で眠っています。

亡くなる前日に赤軍派関係者を平壌駅まで見送っているのですが、そのときはとても元気な様子でした。そのため彼の死因は本当に心臓なのか、疑っているジャーナリストも多くいます。

よど号ハイジャック事件犯の小西隆裕は北朝鮮で生活している

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小西隆裕は今も平壌で暮らしています。1976年に事件の前から恋仲だった女性と結婚しました。娘が2人います。妻子は既に日本に戻っています。

1995年に田宮高麿が亡くなってからは、彼に代わって仲間の代表者を務めています。

よど号ハイジャック事件の実行犯及び彼らの妻達には、日本人拉致事件に関係した疑いがかけられています。しかし小西は拉致は一切行っていないと主張しています。

よど号ハイジャック事件犯の柴田泰裕は日本帰国後有罪判決

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柴田泰弘は、19775月に結婚して、娘が2人います。しかし妻とは後に離婚、娘2人も既に日本に戻っています。

1985年春に田宮高麿から、革命の資金集めと新しい仲間をスカウトする命令を受けて、密かに帰国しました。しかし身元がばれて逮捕、199311月に懲役5年が確定します。

寂しい最期

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19947月に刑期(未決勾留期間を含む)を終えて出所。かつての仲間からは距離を置いて、大阪のアパートでひとり暮らしをしていました。

しかし彼は2011年に自宅で死亡しているのが見つかりました。周囲の状況におかしな様子はなかったため、病気で突然亡くなったのだと考えられています。

よど号ハイジャック事件犯の田中義三は日本帰国後有罪判決

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田中義三は19775月に結婚して、3人の娘がいます。妻子はすべて日本に帰国しています。

19963月、カンボジアから北朝鮮大使館員2名とともにベトナムに向かっているところを国境で逮捕されました。偽ドル問題でタイに身柄が移送され、そこで自分の身元を明かして日本に引き渡されました。

200312月に懲役12年の刑が確定、熊本刑務所で服役。しかし200611月に肝臓癌が見つかって大阪医療刑務所へ移送され、2007年に亡くなりました。

よど号ハイジャック事件犯の吉田金太郎は北朝鮮で死亡

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吉田金太郎は、平壌で肝臓の難病にかかりました。19858月に、仲間達は彼の実家へ「平壌まで来られないでしょうか?」という内容の手紙を届けました。

しかし家族が到着するのを待たず、彼は9月始めに亡くなりました。葬式は平壌で仲間達が行い、遺骨は10月にやっと到着した家族に渡されました。

実は既に死亡していた?という説

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その後よど号ハイジャック事件の実行犯達は、彼のことを全く話題にしなくなります。このため吉田は1977年以前に強制収容所に送られて既に死亡していた、という見方もあります。

この見方のひとつの理由は、仲間の中で吉田だけが独身のままだったからです。他の仲間は全員が1977年までに日本出身の女性と家庭を持ったにもかかわらず、というわけです。

よど号ハイジャック事件犯の岡本武は北朝鮮で死亡とされる

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岡本武は1980年代のはじめに田村高麿と、今後の活動方針を巡って対立しました。そのせいか、彼は1983年以降、支援者の前にも姿を見せなくなります。

彼は1976年に結婚しました。娘が2人いますが、ふたりとも既に日本に戻っています。

彼は土砂崩れに巻き込まれ、妻と共に亡くなったとされています。しかし1980年代の終わり頃に漁船で北朝鮮から脱出を図ったため、強制収容所に送られて亡くなった、という説も伝えられています。

よど号ハイジャック事件犯の魚本公博は北朝鮮で生活している

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阿部公博は結婚後、妻の姓の魚本を名乗るようになりました。今も平壌で暮らしています。魚本には息子が2人と娘がひとりいますが、妻子は全員帰国しました。

魚本公博は、よど号ハイジャック事件だけでなく、有本恵子さんの拉致事件に関係した容疑で指名手配されています。

よど号ハイジャック事件犯の中で拉致事件でも国際指名手配されているのは、魚本だけです。

よど号ハイジャック事件犯の若林盛亮は北朝鮮で生活している

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若林盛亮は、1976年に結婚し、現在も妻と共に平壌で暮らしています。若林にはふたりの息子がいますが、どちらも既に日本に戻っています。

よど号ハイジャック事件犯の赤木志郎は北朝鮮で生活している

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赤木 志郎は1976年に結婚し、娘がひとりいます。妻子は既に日本へ戻っていますが、本人は現在も平壌に住んでいます。

平壌に納豆ブームが起こった時期があり、そのとき納豆を食べすぎて入院したというエピソードがあります。

よど号ハイジャック事件実行犯が住む「日本人村」とは?

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彼らは北朝鮮の平均的なレベルをはるかに上回る生活をしています。彼らが住んでいる平壌の「日本人村」と呼ばれるアパートでは、巨大なアンテナでNHKの衛星放送が受信できます。

衛星放送を通じて日本のドラマも楽しむことができるし、日本国内の事情も把握しています。彼らは決して陸の孤島に住んでいるわけではありません。

やっぱり孤独?

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しかし彼らはやはり孤独かもしれません。現存する仲間は4名だけになってしまいました。彼らと結婚した女性のうち平壌在住の2名を加えても、合計で6名です。

平壌で生まれて育った彼らの子供達は、全て日本に戻ってしまいました。妻達も、多くは逮捕覚悟で帰国しています。

よど号ハイジャック事件実行犯は日本に帰りたがっている?

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よど号ハイジャック事件犯達は、インターネットでネットサーフィンをすることは許されていません。しかし仲間や支援者との間で電話や電子メールのやり取りをすることは、当局より許されています。

この恵まれた環境と支援者の協力によって、彼らは日本の人々とSNSなどを通じてコンタクトを取っています。

よど号ハイジャック事件犯がSNSで情報・愛国心を発信?

よど号ハイジャック事件犯達は、2014年に支援者の協力で「何でもアリ!? よど号のyobo-yodo」というTwitterのアカウントを開設しました。

彼らは直接Twitterにアクセスはできませんが、支援者とのメールのやり取りを介して、メッセージの発信を続けています。

Twitterでは、魚本公博が皇室への敬意を表したり、赤木志郎が「愛国思想に目覚めた」と発言したりしています。彼らも70代になって、故郷である日本への思いがつのっているのかもしれません。

サイトも開設

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よど号ハイジャック事件の犯達はSNSだけでは物足りなくなったのか、201711月末に自分たちのウェブサイトを開きました。

サイトでは、国際情勢や日本の政治に対する意見と共に、日々の様子を発信しています。

その内容を見ると、日々の様子はあまりにも穏やかです。今日の政治に対する意見も、SNSなどを見慣れていると特に過激とは感じません。彼らにとって武装闘争の時代は、もう過ぎ去ったのでしょう。

よど号ハイジャック事件犯に対する日本の姿勢とは

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Twitterのアカウントを開設したよど号ハイジャック事件犯達ですが、彼らへの日本人からの返信は「ヘイト」の連続だったと小西隆裕は語っています。

実際、彼らが心の底では希望している帰国問題に関しては、今でも厳しい反応があるようです。

フォロワー数約4,000名

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しかしながら20197月現在、彼らのツイッターアカウントのフォロワーは約4,000名います。

あれだけの大事件を起こしたグループとやり取りできるアカウントとしては多すぎるとも少なすぎるとも感じます。

もしかしたら、よど号ハイジャック事件の現在は、知る人ぞ知るトピックになりつつあるのかもしれません。

よど号ハイジャック事件の被害者について

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よど号ハイジャック事件に関係したのは、犯人の若者達だけではありません。この事件に巻き込まれて大変な経験をすることになった被害者も、立派な関係者です。

被害者としてあげるべきなのは、まず人質となった乗客、そして次によど号に乗っていた乗務員でしょう。

よど号ハイジャック事件犯から解放された人質となった乗客

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乗客の中には医者が多くいました。事件の日に福岡で、日本内科学会総会が行われる予定だったのです。その中には虎ノ門病院の沖中重雄や聖路加病院の日野原重明といった重鎮(じゅうちん)と呼ばれる医者もいました。

なかでも日野原氏にとって、このよど号ハイジャック事件は転機となる事件でした。彼はこの事件をきっかけに今までの名声を追う人生をやめて、これからは人々を救うための医業に徹しようと決心したのです。

その後日野原氏と彼が院長を務める聖路加病院は、1995年の地下鉄サリン事件で、大きな働きをすることになります。

よど号ハイジャック事件の阻止を努めた運航乗務員

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よど号ハイジャック事件の被害にあったのは、乗客だけではありません。パイロット2人と航空機関士1人、そしてキャビンアテンダント4人も同じように被害者です。

犯人達の一部は操縦室に侵入して相原利夫航空機関士を拘束しました。

そして石田真二機長と江崎悌一副操縦士を脅して、平壌に行くように命令しました。この命令に対して3人は最初から最後まで落ちついて対応しました。

パイロット達の手柄(1)

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副操縦士は、平壌まで飛ぶことが可能なだけの予備燃料を積んでいたにもかかわらず、「この便は国内線なので十分な燃料を積んでいない」と犯人に嘘の説明をして、国外への飛行を止めようとしました。

また副操縦士は、韓国の金浦国際空港では操舵室の窓から犯人の数と場所や武器などを書いた紙コップをこっそりと落とし、外部に情報を伝えるのに成功しました。

パイロット達の手柄(2)

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一方機長は、よど号がまだ板付に止まっている間に、冷静な説得で女性・子供・病気の者を自由にさせることに成功しました。

さらに機長は、北朝鮮の小さな飛行場の滑走路で難しい夜間着陸をすることになったとき、第二次世界大戦に従軍していたときの経験を生かして無事にやり遂げました。

よど号ハイジャック事件の被害者の現在

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よど号ハイジャック事件に巻き込まれた人々人は、その後どのような人生を歩むことになったのでしょうか?

ここでは人質のひとりであった医師の日野原重明氏、冷静沈着な態度を貫いた3名の運行乗務員について述べることにします。

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