出身は熊本県です。京都大学農学部に入学しましたが、結局は中退してします。1968年(昭和43年)には東大安田講堂事件に参加しています。
よど号ハイジャック事件の犯人⑦魚本公博
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魚本公博(うおもと きみひろ)は1948年(昭和23年)3月19日の生まれです。結婚で名字を変えていて、元の姓は阿部です。
関西大学に入学しましたが、除籍処分になっています。
よど号ハイジャック事件の犯人⑧若林盛亮
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若林盛亮(わかばやし もりあき)は、1947年(昭和22年)2月26日に滋賀県草津市で生まれました。
同志社大学経済学部在学中によど号ハイジャック事件を起こしました。大学は除籍処分になっています。
よど号ハイジャック事件の犯人⑨赤木志郎
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赤木志郎(あかぎ しろう)は1947年(昭和22年)11月4日に生まれました。大阪市立大学在学中によど号ハイジャック事件を起こしました。大学は除籍処分になっています。
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よど号ハイジャック事件のその後や裁判の判決
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よど号ハイジャック事件は、北朝鮮が実行犯9名を亡命者として受け入れて、一応の決着を迎えました。
その後の彼らの足取りは、北朝鮮の複雑な政治システムの中で途絶えてしまったようにも見えますが、決してそうではありません。
また逆に、向こうの社会の中で安定した身分を得てのうのうと暮らしたわけでもないようです。
よど号ハイジャック事件の亡命犯は警視庁により国際手配されている
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よど号ハイジャック事件犯達は、亡命することで逃げおおせたわけではありません。日本政府は全員を国際指名手配したので、北朝鮮を出国すればお尋ね者として追跡される生活が待っています。
実際、後述するように、柴田泰弘はは日本に極秘で帰国した際に、田中義三はカンボジアとベトナムの国境で逮捕されたのをきっかけに、どちらも日本で裁判を受けて服役しました。
よど号ハイジャック事件の亡命犯は北朝鮮に手厚い歓迎を受けていた
よど号ハイジャック事件犯達は、北朝鮮の保護の下で暮らしています。
彼らのほとんどは、1970年代後半までには日本からやって来た女性と結婚して、家庭を持ちました。一見テロや秘密工作とは無縁の平穏な生活を送っているようにも見えます。
しかし彼らも、北朝鮮の秘密工作活動とは無縁だったわけではありません。彼らや彼らの妻たちの中には、日本人拉致事件にかかわったと考えられている者もいます。
よど号ハイジャック事件の犯人の犯田中義三は懲役12年の判決
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田中 義三は1996年(平成8年)3月24日、カンボジアで北朝鮮大使館員とともに公用車に乗ってベトナム国境に向かいますが、結局はそこで逮捕され、タイに身柄が移送されます。
タイでは偽ドル札を使った罪で起訴されましたが無罪になりました。
タイで身元を明かす
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しかしこのとき自分の身元を明かしたので、2000年(平成12年)6月に日本に身柄が引き渡され、国外移送目的略取罪など3つの罪で起訴されました。
彼はは2002年(平成14年)2月に東京地裁で懲役12年の判決を受けます。控訴は棄却され、上告は取り下げたので、2003年6月に刑が確定し、刑務所で服役をはじめます。
よど号ハイジャック事件の犯人の柴田泰裕は懲役5年の判決
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柴田泰弘は田宮高麿の命令で、1985年(昭和60年)春に極秘で日本へ帰国しました。革命のための資金と新しい仲間を集めるためです。
地下に潜伏し、他人になりすまして活動していましたが、1988年(昭和63年)5月6日に偽造旅券を使った疑いで逮捕され、指紋で本当の身元がわかってしまいました。
彼は強盗致傷罪・国外移送目的略取罪等で起訴され、1990年(平成2年)12月に一審で懲役5年の判決が言い渡されます。1993(平成3年)年11月に控訴審で刑が確定し、刑務所に入ることになりました。
よど号ハイジャック事件実行犯の現在
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世間を大きく騒がせたよど号ハイジャック事件ですが、北朝鮮に亡命した後の犯人達は、その後どのような生活や活動を続け、どのように歳を重ねて行ったでしょうか?
ここでは現在(2019年)の時点で判明している9名の消息を、簡単に紹介します。
よど号ハイジャック事件犯リーダー田宮高麿は北朝鮮で死亡
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田宮高麿は日本女性と結婚し、息子が2人と娘がひとりいます。子供は3人とも日本に帰りましたが、日本人拉致事件で国際手配されている妻の森順子は、今も平壌で暮らしています。
突然の最期
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田宮 高麿は北朝鮮で仲間と共に活動を続けました。しかし 1995年11月30日に、心臓麻痺が原因で突然亡くなりました。
遺骨は彼の兄が持ち帰り、彼の希望に従って実家の菩提寺で眠っています。
亡くなる前日に赤軍派関係者を平壌駅まで見送っているのですが、そのときはとても元気な様子でした。そのため彼の死因は本当に心臓なのか、疑っているジャーナリストも多くいます。
よど号ハイジャック事件犯の小西隆裕は北朝鮮で生活している
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小西隆裕は今も平壌で暮らしています。1976年に事件の前から恋仲だった女性と結婚しました。娘が2人います。妻子は既に日本に戻っています。
1995年に田宮高麿が亡くなってからは、彼に代わって仲間の代表者を務めています。
よど号ハイジャック事件の実行犯及び彼らの妻達には、日本人拉致事件に関係した疑いがかけられています。しかし小西は拉致は一切行っていないと主張しています。
よど号ハイジャック事件犯の柴田泰裕は日本帰国後有罪判決
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柴田泰弘は、1977年5月に結婚して、娘が2人います。しかし妻とは後に離婚、娘2人も既に日本に戻っています。
1985年春に田宮高麿から、革命の資金集めと新しい仲間をスカウトする命令を受けて、密かに帰国しました。しかし身元がばれて逮捕、1993年11月に懲役5年が確定します。
寂しい最期
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1994年7月に刑期(未決勾留期間を含む)を終えて出所。かつての仲間からは距離を置いて、大阪のアパートでひとり暮らしをしていました。
しかし彼は2011年に自宅で死亡しているのが見つかりました。周囲の状況におかしな様子はなかったため、病気で突然亡くなったのだと考えられています。
よど号ハイジャック事件犯の田中義三は日本帰国後有罪判決
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田中義三は1977年5月に結婚して、3人の娘がいます。妻子はすべて日本に帰国しています。
1996年3月、カンボジアから北朝鮮大使館員2名とともにベトナムに向かっているところを国境で逮捕されました。偽ドル問題でタイに身柄が移送され、そこで自分の身元を明かして日本に引き渡されました。
2003年12月に懲役12年の刑が確定、熊本刑務所で服役。しかし2006年11月に肝臓癌が見つかって大阪医療刑務所へ移送され、2007年に亡くなりました。
よど号ハイジャック事件犯の吉田金太郎は北朝鮮で死亡
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吉田金太郎は、平壌で肝臓の難病にかかりました。1985年8月に、仲間達は彼の実家へ「平壌まで来られないでしょうか?」という内容の手紙を届けました。
しかし家族が到着するのを待たず、彼は9月始めに亡くなりました。葬式は平壌で仲間達が行い、遺骨は10月にやっと到着した家族に渡されました。
実は既に死亡していた?という説
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その後よど号ハイジャック事件の実行犯達は、彼のことを全く話題にしなくなります。このため吉田は1977年以前に強制収容所に送られて既に死亡していた、という見方もあります。
この見方のひとつの理由は、仲間の中で吉田だけが独身のままだったからです。他の仲間は全員が1977年までに日本出身の女性と家庭を持ったにもかかわらず、というわけです。
よど号ハイジャック事件犯の岡本武は北朝鮮で死亡とされる
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岡本武は1980年代のはじめに田村高麿と、今後の活動方針を巡って対立しました。そのせいか、彼は1983年以降、支援者の前にも姿を見せなくなります。
彼は1976年に結婚しました。娘が2人いますが、ふたりとも既に日本に戻っています。
彼は土砂崩れに巻き込まれ、妻と共に亡くなったとされています。しかし1980年代の終わり頃に漁船で北朝鮮から脱出を図ったため、強制収容所に送られて亡くなった、という説も伝えられています。
よど号ハイジャック事件犯の魚本公博は北朝鮮で生活している
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阿部公博は結婚後、妻の姓の魚本を名乗るようになりました。今も平壌で暮らしています。魚本には息子が2人と娘がひとりいますが、妻子は全員帰国しました。
魚本公博は、よど号ハイジャック事件だけでなく、有本恵子さんの拉致事件に関係した容疑で指名手配されています。
よど号ハイジャック事件犯の中で拉致事件でも国際指名手配されているのは、魚本だけです。
よど号ハイジャック事件犯の若林盛亮は北朝鮮で生活している
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若林盛亮は、1976年に結婚し、現在も妻と共に平壌で暮らしています。若林にはふたりの息子がいますが、どちらも既に日本に戻っています。
よど号ハイジャック事件犯の赤木志郎は北朝鮮で生活している
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赤木 志郎は1976年に結婚し、娘がひとりいます。妻子は既に日本へ戻っていますが、本人は現在も平壌に住んでいます。
平壌に納豆ブームが起こった時期があり、そのとき納豆を食べすぎて入院したというエピソードがあります。
よど号ハイジャック事件実行犯が住む「日本人村」とは?
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彼らは北朝鮮の平均的なレベルをはるかに上回る生活をしています。彼らが住んでいる平壌の「日本人村」と呼ばれるアパートでは、巨大なアンテナでNHKの衛星放送が受信できます。
衛星放送を通じて日本のドラマも楽しむことができるし、日本国内の事情も把握しています。彼らは決して陸の孤島に住んでいるわけではありません。
やっぱり孤独?
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しかし彼らはやはり孤独かもしれません。現存する仲間は4名だけになってしまいました。彼らと結婚した女性のうち平壌在住の2名を加えても、合計で6名です。
平壌で生まれて育った彼らの子供達は、全て日本に戻ってしまいました。妻達も、多くは逮捕覚悟で帰国しています。