そして乗客に代わって人質になることを申し出た山村新治郎運輸政務次官のその後についても紹介します。
よど号ハイジャック事件の人質乗客の中にいた故日野原重明氏
日野原氏は、よど号ハイジャック事件事件の犯人グループが機内で貸してくれた「カラマーゾフの兄弟」に強烈な印象を受けました。本の冒頭の部分に聖書のヨハネ福音書の一節があったのです。
クリスチャンである彼は、この一節を読んで心が落ち着き、ひょっとしたら起こるかもしれない自分の死(強行突入があった場合)を考えました。
金浦国際空港で自由になって、タラップを降り地面を再び踏みしめたとき、彼は「生きている」実感を改めて強く感じました。そして「この命は与えられた命なのだ」と実感したのです。
地下鉄サリン事件で大きな働き
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日野原氏はこの経験をきっかけに、これからは医師としての名声のためではなく、純粋に人を救うために活動しようと決心しました。
彼が聖路加国際病院の院長を務めていた1995年3月、地下鉄サリン事件が起こりました。このとき彼は院長として病院全体を使って被害者を受け入れる決意をし、大勢の患者の治療に活躍しました。
3年前、彼は大災害を想定して、聖路加の廊下・待合室に酸素の配管を準備し、広いロビーや礼拝堂を設けて多数の患者を受け入れることができるよう、病院を改装していたのです。
やがてターミナル・ケアの道へ
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やがて彼は残された時間を使ってターミナル・ケア(終末期医療)の問題に取り組み、 2017年7月18日に105歳で大往生を遂げるまで、現役の医師として働き続けました。
よど号ハイジャック事件の人質の運航乗務員
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3名の運行乗務員は、帰国後英雄として人々から迎えられました。しかしその後の人生航路は機長と他のふたりでは、大きく異なるものになってしまいます。
江崎悌一副操縦士(後に機長に昇進)と相原利夫航空機関士のふたりはその後も定年になるまで、日本航空で無事に勤務を続けました。
思いがけない行く末
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しかし石田機長は事件後にプライベートなトラブルをマスコミにスクープされ、それをきっかけに日本航空を退職します。
その後はさまざまな仕事を転々とし、最後は夜間駐車場の警備員として働き、2006年8月に生涯を終えました。
よど号ハイジャック事件で人質となった山村新治郎運輸政務次官
国交のない北朝鮮にひとりで乗り込むことになった山村新治郎運輸政務次官は、この英雄的な行動で世間にも名前が広く知れ渡ります。
そのせいか、彼は後に農林水産大臣や運輸大臣も経験し、順調に政治家としてのキャリアを築き上げることができました。
悲惨な最期
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しかし、そのキャリアは突然終わりを迎えます。1992年4月12日、彼は精神疾患をわずらう次女に自宅で出刃包丁でめった刺しにされて亡くなったのです。
この悲惨な事件は、皮肉なことに彼が自民党訪朝団団長として北朝鮮を訪問する前日に起こりました。
次女は責任能力なしという理由で罪に問われなかったのですが、自分の父親を殺してしまったことに苦しんで、事件の4年後に自死をとげてしまいます。
Contents
よど号ハイジャック事件の目的は何だったのか?
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9人の若者達は、どうして「よど号ハイジャック事件」という大きな事件を起こしてまで、北朝鮮に渡る必要があったのでしょうか?
ここでは、彼らがよど号ハイジャック事件を起こした理由について、考えます。
よど号ハイジャック事件の起きた背景
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よど号ハイジャック事件の起きた背景には、後述する共産主義同盟赤軍派の思想がありました。
また、オルグ(活動家)を彼らが海外に派遣しようとしても、主なメンバーはすでに公安警察に目をつけられていて、合法的な方法では日本を出国することができない、という内部の事情もありました。
よど号ハイジャック事件を起こした理由とは?
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赤軍派は、日本国内で自分たちの革命運動を続けるためには、国外に「亡命基地」が必要だと考え、海外の小国にメンバーを送り込む計画を立てていました。
そして「海外の小国」にメンバーを送り込む手段としてハイジャックを考えていたのです。
ところが1970年3月15日に、塩見孝也赤軍派議長が逮捕されたため、計画を早めてハイジャック計画を実行することに決めました。
よど号ハイジャック事件の犯人はなぜ北朝鮮を選んだのか
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よど号ハイジャック事件の犯人達は、目的地としてなぜ北朝鮮を選んだのでしょうか?
彼らは北朝鮮の独特の社会主義体制に共感して、この国を行き先と決めたわけではありません。北朝鮮は「もっとも近くにある日本帝国主義と敵対関係にある小国」だったからです。
よど号ハイジャック事件の甘くない現実
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彼らは北朝鮮を、彼らが考える共産主義革命の軍事基地に変えるつもりで、北朝鮮に行きました。
しかし現実は甘くなかったようです。彼らは北朝鮮でチェチェ思想(北朝鮮独特の共産主義)の徹底した洗脳教育を受けさせられたそうです。
よど号ハイジャック事件を起こした共産主義者同盟赤軍派とは
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よど号ハイジャック事件を起こしたのは、共産主義同盟赤軍派という集団です。
共産主義同盟赤軍派は、いったいどのような目的で結成されたのでしょうか?
この共産主義同盟赤軍派は後に先鋭化して、連合赤軍や日本赤軍に変わり、各地で大事件を起こすことになります。
よど号ハイジャック事件を起こした共産主義者同盟赤軍派とは?
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共産主義者赤軍派は1969年8月に、共産主義者同盟(ブント)から最左翼が分離して結成した集団です。
彼らは小さな蜂起(前段階蜂起)を繰り返し、(日本を含む)世界の共産主義革命へとつなげて行こうと考えていました。
そのためには世界のあちらこちらに小さな拠点で武装訓練を受ける必要がある(国際根拠地論)というように彼らの考えは発展し、よど号ハイジャック事件へとつながって行きました。
よど号ハイジャック事件の共謀犯も逮捕
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よど号ハイジャック事件には加わらなかっけれど、犯人たちの理論的な支柱となったり、犯行の準備を裏で手伝った赤軍派のメンバーも何人かいました。
彼らもよど号ハイジャック事件の後、この事件に共謀したため、逮捕・起訴されました。
裁判を受けたのは塩見孝也・前田祐一・高原浩之・川島宏・上原敦男の5人で、宣告された刑はそれぞれ懲役18年、懲役8年、懲役10年、懲役4年、懲役5年6か月でした。
よど号ハイジャック事件の共産主義者同盟赤軍派のその他の事件
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共産主義者同盟赤軍派は、最初から海外に目を向けてよど号ハイジャック事件を起こしたのではありません。
彼らが起こしたもうひとつの有名な事件として、1969年11月5日に起こった「大菩薩峠事件」を紹介します。
これは最初から最後まで、国内で完結した事件でした。そのため彼らの一部は、ここでの失敗をきっかけに海外の拠点づくり(国際拠点地論)に注目するようになります。
大菩薩峠事件
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1969年11月、共産主義同盟赤軍派は武装した部隊が首相官邸と警察庁を襲撃する「11月闘争」を起こそうと計画していました。人質をとって牢屋にいる仲間を奪い返すつもりだったのです。
その武装訓練を山梨県の大菩薩峠周辺で行うため、近くの山荘に多くのメンバーが潜伏していました。
しかし計画は公安警察に筒抜けになっていて、11月5日に機動隊が突入、その場にいた53名が逮捕され、刃物や火炎瓶等の武器も押収されたという事件です。
連合赤軍と日本赤軍と政治テロ
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政治テロに関しては、ここで取り上げた「よど号ハイジャック事件」をはじめ、その前段階といえる「大菩薩峠事件」がまずあげられます。
そして共産主義同盟赤軍派がさらに先鋭化した連合赤軍、活動場所を海外に求めた日本赤軍が起こしたさまざまなテロ事件も忘れることはできません。
浅間山荘事件
1972年2月19日、連合赤軍のメンバー5名が、軽井沢にある河合楽器の保養所である「浅間山荘」に管理人の妻を人質に219時間(10日と3時間)立てこもった事件です。
事件は結局、2月28日に機動隊と長野県警の合同部隊が山荘へ強行突入し、管理人の妻を無事解放して犯人5名を全員逮捕して終わりました。
しかしその途中で死者3名重軽傷者27名を出すことになります。より詳しい内容は、次の記事を参照して下さい。
山岳ベースにおけるリンチ殺人
浅間山荘が起こった当時、連合赤軍は警察に追われたため、中部山岳地帯の山小屋(山岳ベース)を転々としながら、軍事訓練や次のテロ活動の計画を立てていました。
群馬県の榛名ベースには、「新党」を作るためのべ29名が集まりました。しかしこの榛名ベースで規律違反者に対する「総括」(メンバー相互の批判や自己批判)が始まり、次第にエスカレートして行きました。
最初は決められた作業から外される程度であった「総括」が、次第に暴力的なものになり、ささいな理由で総括されて死者が続出するようになっていったのです。
残酷な「総括」
亡くなった人たちの死因は殴られたことによる内臓破裂や氷点下の屋外に長時間放っておかれたことによる凍死、食べ物を与えられなかったことによる衰弱死などです。
一部のメンバーには、「死刑」が宣告されて、アイスピックやナイフでめった刺しにされた後で絞め殺されました。
1971年12月から2か月ほどの間に12名のメンバーが殺されました。恋人や兄弟同士、妊娠した女性も含まれていました。亡くなった人の遺体は衣類を全部はがされて、裸で地中に埋められました。
日本赤軍が起こした国際テロ
日本赤軍(にほんせきぐん、Japanese Red Army)は、1971年に結成され2001年に解散した武装集団です。
1971年2月26日に、共産主義者同盟赤軍派の「国際拠点地論」に基づいて、「海外にも活動拠点と同盟軍が必要」という理由で重信房子(しげのぶ ふさこ)達が、パレスチナで創設しました。
当初はPFLP(パレスチナ解放人民戦線)といったパレスチナの左翼武装組織と協力しながら、中東地域でさまざまなテロ活動を起こしました。
日本赤軍を有名にした事件
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日本赤軍を世界的に有名にした事件には、1972年5月30日にイスラエルのベン・グリオン国際空港で起こした「テルアビブ空港乱射事件」があります。
この事件では、奥平剛士・安田安之・岡本公三の3人が、一般市民を対象にした無差別乱射を行って、100名以上の死傷者を出しました。
このとき岡本公三は逮捕(後に開放されて、レバノンに亡命)されますが、後の2人は犯行現場で死亡しました。
組織の弱体化による解散宣言
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しかし1980年台後半になると、「国際根拠地論」に基づく日本赤軍の武装理論は、国際情勢の変化によって時代遅れになります。
その結果各国の反政府支援者と協力する機会も減少し、活動資金も減少して行きます。そしてその頃になると、国際手配されていたメンバーも次々逮捕され、組織は壊滅状態に追い込まれました。
2000年11月には最高指導者の重信房子も、日本国内で逮捕されてしまいます。そして2001年には重信自身が解散宣言を行い、日本赤軍の歴史は完全に終了しました。
共産主義同盟赤軍派とオウム真理教の関係
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よど号ハイジャック事件をはじめ、1960年代から1970年代の次第に先鋭化していく新左翼運動を追いかけていくと、1990年代に次第に過激化していった、オウム真理教の動きと共通点があることがわかります。
共産主義同盟赤軍派の活動とオウム真理教の共通点
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共産主義者同盟赤軍派もオウム真理教も、若い人たちの「世の中を良くしたい」「もっと良い自分になりたい」というポジティブなエネルギーを、洗脳によってネガティブな政治テロ・宗教テロへと向かわせました。
どちらも最後は、身内で固まってしまって閉じた世界を作り上げ、政治や宗教をもて遊んで自分勝手な理屈を作り上げ、最後は血なまぐさいテロ事件を起こすことでは共通しています。
たとえば、仲間どうしのリンチ殺人事件を起こした連合赤軍と、リンチまがいの「修行」で何人もの信者を死亡させたオウム真理教の間には、共通点があると感じ入られます。
オウム真理教が起こした宗教テロ
一方宗教テロに関しては、やはりオウム真理教が起こした一連の事件を無視することはできないでしょう。
彼らの起こしたテロ事件は数え上げることができないほどですが、特に影響の大きかった「坂本弁護士一家殺害事件」「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」の3つを「オウム3大事件」と呼んでいます。
1980年代末期から1990年中期の間に、彼らにが起こした事件で29人が死亡し、負傷者は6,000人を超えています。
坂本弁護士一家殺人事件
坂本弁護士一家殺害事件は、1989年11月4日にオウム真理教の幹部6人が、この問題に取り組んでいた坂本堤(さかもと つつみ)弁護士を、家族と共に殺害した事件です。
坂本弁護士は、出家信者の脱会相談を家族から受けたことをきっかけとして1989年(平成元年)5月から「オウム真理教被害者の書会」を組織しました。
彼はオウム真理教がインチキだとあばき、宗教法人の認可を取り消す訴訟を起こす準備に入りました。そのため教祖の麻原彰晃(あさはらしょうこう、本名松本智津夫)は、彼の殺害を指示しました。
犯行決行
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最初は坂本弁護士だけを通勤中に襲って殺害する予定でした。しかし犯行を決行予定日の11月3日が祝日だったため、深夜に家族(夫人と1歳の長男)ごと襲って全員殺害することに決めました。
こうしてオウム真理教の6名は、翌日の11月4日の午前3時ごろ、坂本弁護士の自宅に押し入って家族3人を殺害しました。3人の遺体は見つけにくいようにバラバラの場所に埋めました。
坂本弁護士一家が突然行方不明になった事件は、最初からオウム真理教の犯行が疑われていました。しかしはっきりした証拠がないまま年月だけが流れていきました。
元メンバーの自供
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その間、オウム真理教側はテレビなどのメディアに盛んに登場し、自分たちはまっとうな宗教団体で、坂本弁護士の件をはじめ疑われている事件に関しては全て無実だと、盛んに宣伝しました。
実行犯のひとりである岡﨑 一明(おかさき かずあき)は、その後教団を脱会して暮らしていましたが、良心がとがめたため1995年5月に全て犯行を自供しました。
この結果、坂本弁護士一家の遺体は9月にすべて発見され、事件はオウム真理教の犯行と断定されました。
松本サリン事件
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松本サリン事件は、1994年6月27日に、長野県松本市の住宅街で発生しました。オウム真理教教徒が、猛毒の神経ガスのサリンを静かな住宅街に散布した事件です。
戦争の起こっていない地域で猛毒の神経ガスが使われた、世界ではじめての事例です。この事件で8名が死亡し、600名以上が負傷しました。
オウム真理教この地にサリンを散布したのは、麻原彰晃が後に起こすことになる地下鉄サリン実験のためにサリンの実験をしたかったのだと考えられています。
冤罪未遂事件でもあった
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松本サリン事件は、事件の第一発見者の河野義行さんが、半ば公然とサリン散布の疑いをかけられた冤罪未遂事件でもあります。
河野さんに対する疑いは、翌年1995年3月20日の地下鉄サリン事件の発生まで続きました。
また河野さんの妻は、サリンの影響で植物状態になってしまい。14年後の2008年8月に、回復することが無いまま亡くなりました。
地下鉄サリン事件
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地下鉄サリン事件はオウム真理教によって、営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線・丸ノ内線・日比谷線のそれぞれにおいて、運転中の地下鉄の車内で、サリンがまかれた事件です。
地下鉄サリン事件で地下鉄の乗客、乗務員や駅員、被害者の救助に当たった人などの間にサリンによる症状が現れ、死者13名、重軽傷者4,000名近く(もしかしたらそれ以上)の被害が出ました。
この事件は1995年3月20日に発生しました。詳細は次の記事を参照して下さい。
無茶な「修行」とリンチ殺人
オウム真理教の教団内部でも、連合赤軍事件の「総括」と同じように、組織内部で殺人が行われました。
オウム真理教の場合、無茶苦茶な修行や脱会しようとした者に対するリンチなどによって、わかっているだけでも5名が殺されて、30名以上が行方不明になっています。
オウム真理教の教祖麻原彰晃(本名は松本智津夫)は、一連の事件で起こったたくさんの殺人のことを、「ポア(現世より「ステージの高い」世界へ生まれ変わること)」と呼んで、正当化していました。
よど号ハイジャック事件に関する書籍の紹介
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島田滋敏「よど号事件最後の謎を解く」
この文庫本は、2016年出版と出版年が一番新しいため、よど号ハイジャック事件関連の書籍のなかで、最も手に入りやすいものです。
鳥越俊太郎検証・よど号グループ「拉致疑惑と帰国」
この本は、よど号ハイジャック事件の犯人とその妻たちで、今も北朝鮮に留まって活動を続けているメンバー6人の主張をまとめた本です。
これを読んでどのような意見を持つかは自由ですが、この問題に興味を持つ人は、一度は目を通すべきではないかと考えます
よど号ハイジャック事件のまとめ
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よど号ハイジャック事件は、日本がはじめて経験するハイジャック事件でした。
よど号ハイジャック事件は共産主義同盟赤軍派の若者たち9人が起こした事件で、その後の日本赤軍や連合赤軍が起こすことになる、さまざまなテロ事件のさきがけにもなっています。
またよど号ハイジャック事件では、ひとりの犠牲者も出しませんでした。これは日本政府が人名尊重の立場から、テロリスト達の要求を受け入れたためで、武装突入が多い中、大変珍しい事例です。