【よど号ハイジャック事件】概要と背景、亡命の赤軍9名のその後などを解説

よど号ハイジャック事件犯は北朝鮮に向かう

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4月3日午後6時5分によど号は金浦国際空港を離陸しました。しかし機長は朝鮮半島の正確な航空図を持っていない上に、北朝鮮側の管制官のサポートもありませんでした。

このため機長は第二次世界大戦従軍中の経験を生かし、平壌郊外で見つけた小さな飛行場の滑走路に肉眼だけで着陸します。午後7時時21分でした。

こうして犯人の若者9名、パイロット2名と機関士1名と山村氏の身柄は北朝鮮側局の保護のもとに置かれました。その後機内に残された「武器」はすべてニセ物であることがわかりました。

よど号ハイジャック事件犯たちの亡命を受け入れる

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よど号が到着した後、北朝鮮側は「日本政府はやるべきことをやらなかった」と日本を非難しました。一方で人質達はゲストとして扱われ、食事と個室と映画などの娯楽が提供されました。

4月4日には北朝鮮は再度日本を非難しました。しかしその一方で若者達の亡命を受け入れ、機体と人質を日本に帰すと発表しました。

この発表を受けて、日本政府は北朝鮮政府に対して感謝の気持ちを示します。

よど号ハイジャック事件の人質全員が帰国する

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4月5日によど号は無事飛行場を離陸、管制官に示された飛行経路を飛んで北朝鮮の領空を脱出し、羽田空港に向かいました。

羽田空港では大臣などの関係者が出迎えて、よど号ハイジャック事件は無事に決着しました。

パイロット達と山村氏は英雄として大歓迎され、テレビ中継は高視聴率を記録しました。

よど号ハイジャック事件の犯人とは

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よど号ハイジャック事件の9名の若者達は、それぞれどのような経緯で犯行に至ったのでしょうか?

ここでは9名の若者達が所属していた組織と、犯行に至るまでの彼らそれぞれの経歴を、簡単に紹介します。

よど号ハイジャック事件は共産主義者同盟赤軍派の犯行

9名の若者達は、1969年(昭和44年)に結成された共産主義者同盟赤軍派(あるいは赤軍派)という組織に所属していました。

この組織は、左翼系のいろいろな組織の中でも、武装蜂起による革命を特に強く主張していました。後には連合赤軍や日本赤軍という組織に姿を変えて、世の中を震撼させる恐ろしい事件をいろいろと起こします。

詳細は後半で述べますが、その中には浅間山荘事件、山岳ベースリンチ殺人事件、国外におけるさまざまなテロ活動が含まれます。

浅間山荘事件

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1972年(昭和47年)2月19日、連合赤軍の5名が、軽井沢にある河合楽器の保養所である「浅間山荘」に管理人の妻を人質に219時間立てこもった事件です。

山岳ベースリンチ殺人事件

 

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連合赤軍が秘密基地としていた群馬県の榛名ベースで、規律違反者に対する「総括」(メンバー相互の批判や自己批判)が始まり、次第にエスカレートして行きました。

結局1971年(昭和46年)12月から2か月ほどの間に12名のメンバーが殺されました。

よど号ハイジャック事件の犯人①リーダーの田宮高麿

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田宮高麿(たみや たかまろ)は1943年(昭和18年)1月29日に生まれました。仲間の指導者格で、「まろ」というあだ名で呼ばれていました。

出身は岩手県ですが、育ったのは大阪です。大阪市立大学の第二部(夜間部)に在学中に新左翼の活動に加わりました。

関西ブント(関西共産主義者同盟)の下にある共産主義青年同盟の常任委員長を務めていました。

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