船戸雄大とは?結愛ちゃん虐待事件の犯人で義父!
東京都目黒区で当時5歳の結愛ちゃんが日常的に手をあげられて小さな命を落としました。現在裁判が開かれその判決に注目が集まっています。船戸雄大とは直接の血のつながりはありません。新しいお父さんができて幸せな生活を送れたはずの家族になぜこのような悲劇が起きてしまったのか、船戸雄大、船戸優里の生い立ちからみていきます。
船戸雄大の生い立ちや性格とは?友人からの評価も紹介
船戸雄大とは一体どのような人物か、一緒になると決めたときに子供の存在をあらかじめ知っていたのに、受け入れられず手をあげたのか、その原因は彼の生い立ちが関係するのかをみていきます。
船戸雄大の生い立ち①出身は岡山県瀬戸内市
船戸雄大の生い立ちを遡っていくと住んでいたため出身が香川だと思われていますが、実は岡山県の瀬戸内市です。学生時代もこの自然に囲まれのんびりとした土地で育ちました。いつまでこの地に住んでいたのかは定かでありません。
船戸雄大自身も虐待を受けていた?
現代、家族がテレビに出てきて謝罪することも少なくないですが、今回に関しては全くありませんでした。これだけで判断はもちろんできませんが、もしかすると彼自身も小さいころからの心の闇を抱えていた可能性もあります。子供に手をあげる親の生い立ちをたどると幼少期につらい思いをした場合があります。その思い出を克服し幸せな家族を築く人も多いですが、同じことを繰り返してしまう悲しいケースもゼロではないのが事実です。
船戸雄大は学生時代バスケ部のキャプテンを務めた?
証言から学生時代にはバスケ部のキャプテンを務めていたことがわかっています。運動部はチームの厳しい練習に耐え、力を合わせることが大事なスポーツです。キャプテンの立場だとそのチームメイトをまとめ上げる責任力が必要です。
船戸雄大の生い立ち②東日本の大学を卒業か
船戸雄大の生い立ちをたどると大学を卒業したのかはっきりとした情報は出ていませんが、東日本の大学を卒業しているという意見もあります。どこの大学へ通ったかわかりませんが、大学に進学しているのだとしたら受験勉強にも真面目に取り組み頑張らなければならなかったはずです。
船戸雄大の生い立ち③全国を転々とする生活
岡山で生まれ育ち、東日本の大学へ進学し、その後は再び岡山、札幌、香川、東京と全国を転々とし仕事についていました。大学をストレートで卒業しているなら事件当時までの約10年間の間に北から南まで引っ越しを繰り返していました。
船戸雄大の生い立ち④香川県で妻、優里と結婚
香川で勤めているときに知り合い、家族ができる喜びを口にしていました。船戸雄大は会社の人にも2人のパパになることを話していました。これから幸せな家庭を築いていくと信じていました。
船戸雄大が慕った人物に送ったラインには「幸せ」の言葉
船戸雄大が自分の本当の兄のように慕っていた人物にも家族についてラインで報告していました。そこには「お金はないけれども幸せであり、子供たちの父親になるんだからこれから頑張って家族を支えていかなくては。」という内容が書かれていました。
船戸雄大は職場や友人からは信頼が厚かった
逮捕された当時は無職でしたが、以前は冷凍食品を取り扱っている会社で働いていました。上司や同僚、また友達からは良い印象ばかり出てきました。プロジェクトにも積極的に参加し、みんなで仕事を進めていました。家の中での様子と外での人付き合いにはかなりのギャップがあったことを、接点のあった人たちの証言からみていきます。
船戸雄大の事件を知った上司は「信じられない」とコメント
子どもが命を落とす悲惨なことが起きた後でも元上司は「今でも信じられない」とコメントしています。会社では明るい性格で、新しい環境でもまわりとうまくやっていくことのできました。仕事場での信頼があったことがわかります。
船戸雄大の親友も「やってないのでは?」とコメント
交流のあった友達からのコメントでは逮捕された後にもかかわらず「本当に彼が?」といわれるほどでした。誰とでも仲良くなれる性格で、子供に手を上げ命を奪うほどの心の闇を抱えているようにはみえず、社交性がありました。
船戸雄大が通った居酒屋の店主も好印象を持っていた
良く通っていた居酒屋の店主の証言によると、明るく気さくで人当たりが良い印象を与える人物でした。多くの人から「いつかやると思った」という証言より「信じられない」との声が多く上がっていることからも外の顔はとてもよかったことがわかります。しかし一方で、飲みに来る際は結愛ちゃん抜きでくる場合もあったとのことです。小さな女の子を家に残してきているのなら親として不適切な行動です。
船戸雄大は結婚をきっかけに東京へ上京
知り合った当時働いていたのは冷凍食品を取り扱っている会社でしたがそこを辞めて、家族で東京へ引っ越して新しい生活を始めています。家族からも遠く離れて知り合いのいない土地での子育てに不安があったと推測されます。小さなアパートを借りて近所の人ともコミュニケーションをとるなど、順調な生活を始めていたかのようにみえました。
船戸雄大は妻の船戸優里にDVを振るう気の荒い性格
外面はとても良い印象を与えてても、実は家の中では手をあげる気性の荒い人物でした。妻は自分の本当の子が手をあげられている状況でも怖くて止められなかったのではないかと推測されます。すでにお腹の中にもう一人の命を宿していても勇気を振り絞って子供たちを守るために離れられなかったのでしょうか。
船戸雄大の妻・船戸優里の生い立ちとは?母親としての一面は?
船戸雄大についてみてきましたが、ここからは船戸優里の生い立ちをみていきます。自分のお腹を痛めて産んだ子がつらい、怖い思いをしているのになぜ助けてあげられなかったのでしょうか。再婚の場合、何か意見をすることで自分も子供も捨てられてしまうのではないかと発言できない、相手が何をしていてもみてみぬふりをするケースが増えています。
船戸雄大の妻・船戸優里①香川県出身
彼女の生い立ちをたどると知り合うことになる香川に実家があります。そこで知り合い、結婚する関係に至りました。バツイチであった彼女は前の夫ともそこでで暮らしていました。
船戸雄大の妻・船戸優里②前夫との間に結愛ちゃんが生まれる
いつもにこにこしている女の子で、前の夫と家族で写っている写真もSNSにアップされていました。そのことからも生まれた当時は幸せな時間を過ごしていたと判断できます。両親の愛情を十分に受け、すくすくと育っていくことのできるはずだった小さな命でした。
船戸雄大の妻・船戸優里③前夫と離婚し生活保護を受ける
その生活も長くは続かず、2015年に離婚することを決めました。その際に母親の元へ引き取られることになります。離婚後は生活保護を受けながら生活を送っていました。この時も写真をたくさんアップしており、大切に育てていたと判断できます。
船戸雄大の妻・船戸優里④地元香川県で再婚
自分の地元である香川で船戸雄大と知り合い、再婚を決めました。子供だけでの生活で心細かった時には大きな支えになったと判断できます。しかしこの出会いが自分の子を苦しめ、命を落とす惨劇を招くことになるとはだれも想像していなかったでしょう。
船戸雄大の妻・船戸優里⑤長男出産
結婚を決めたころ、お腹には新しい命が宿っていました。母親は生まれる前から10か月もの間自分のお腹の中で大切に育てていかなければなりません。そんな状況にいたなら今現在つらい思いをしている結愛ちゃんを授かった時のこと、生まれてきた時を思い出し、勇気を振り絞り助けてあげることができなかったのかと悔やまれます。
船戸雄大の妻・船戸優里⑥上京後はキャバクラ店に在籍?
東京に上京してから夫が仕事をしていたかははっきりとしていません。目黒区の都会で家族4人が暮らしていくためには安定した収入がなければなりません。仕事をしていない夫に代り、夜の世界で仕事をしていたと推測されています。
船戸雄大が起こした「結愛ちゃん虐待事件」とは?
小さな女の子が苦しみや恐怖を感じながら命を落とすとても残虐な心痛む事件です。親に甘えたい年頃だったのになぜ命を落とすことになってしまったのでしょうか。自分の生い立ちにつらい思い出があると手をあげてしまうケースが多いです。ここではその詳細をみていきます。
船戸雄大の結愛ちゃん虐待事件①自宅アパートでの死亡を確認
発覚したのは船戸雄大自ら警察に「食事をとっておらず嘔吐を繰り返していた、息をしていない」と電話をかけたことでした。駆け付けた警察はそこであばらが浮き出るほどひどいく、ぐったりとしている状態でみつかりました。そのまま緊急搬送されましたが病院で息を引き取りました。
船戸雄大の結愛ちゃん虐待事件②死因は肺炎
死因は肺炎によって引き起こされた敗血症でした。発見されたときの体重は5歳の女の子の体重平均を大幅に下回っていました。低栄養によって内臓が萎縮してしまうことによって引き起こされたと推測されます。内臓までボロボロになっていたことからも、長い期間ひどい扱いをされ続けていたことが明らかでした。
船戸雄大の結愛ちゃん虐待事件③普段から十分な食事を与えられていなかった
育ち盛りの女の子が食事制限をされ、朝はスープのみ、昼は茶碗にほんの少しだけ盛ったご飯、夜は茶碗半分のご飯しか口にしていませんでした。最期亡くなる前には食事は全く受け付けることができないほど衰弱していました。毎日毎日空腹のまま、それがいつ終わりご飯をもらえるのかもわからない生活を送っていました。
船戸雄大の結愛ちゃん虐待事件④病院にも連れて行かれなかった
衰弱しきってしまい嘔吐を繰り返したり、体中痣だらけでしたが病院には連れて行ってもらえませんでした。亡くなる約1か月前からは自分の力で起き上がることもできず、弟のオムツを履かされ、ほぼ寝たきりの劣悪な状態で過ごしていました。
船戸雄大の結愛ちゃん虐待事件⑤反省ノートを書かされていた
船戸雄大は毎日の出来事を日記に記したり、反省ノートを書くことを強制していました。その内容が全文公開された際には涙が止まらない人も多かったのが事実です。暗くて寒い部屋でひたすら「自分が悪い、これからはいい子になります、もうゆるしてください」と書き続けていました。育ち盛りで遊ぶことが楽しくて楽しくてしょうがない女の子が、遊んだ自分が悪い子だった、もう遊ぶことはしませんと書き残しています。
船戸雄大の結愛ちゃん虐待事件⑥1人だけ寝室を分けられていた
長男は両親と同じ部屋で寝ていましたが、結愛ちゃんだけは別の部屋で暗くて寒い中、朝の4時に自分でアラームをかけ、平仮名の練習を義務付けられていました。小学校に入るときに平仮名をまだ書けない、読めない子も中にはいます。そんな中、小学校に入る前の女の子がとても過酷な状況に置かれていたことがわかります。
船戸雄大の結愛ちゃん虐待事件⑦冷水シャワーや殴打の虐待も
日常生活の中で船戸雄大は常に殴る蹴る行為をつづけていました。殴る際には浴室へ連れて行き、冷水をかけ続けました。殴られ体中に傷ができている状態なのに、さらにそこに冷たい水を浴びせ続ける残酷な出来事です。母親はこのことについて殴っている姿をみたことは全くない、知らなかったと発言していました。しかし直接殴っているところをみていなくても、体中に痣ができている子供の状態から何がされているかははっきりとわかっていたはずです。
船戸雄大はなぜ結愛ちゃんを虐待したのか?
なぜここまで残酷なことを繰り返していたのでしょうか。最近では連れ子がひどい虐待を受けるケースが増えています。結婚する前から相手に子供がいることを知っていて、それを承知で結婚したのにどうしてこのようなことが起きてしまうのでしょうか。彼の生い立ちを見る限りでも社交性があるようにみえますが、心の中にはとてつもない闇をかかえていたのでしょうか。
船戸雄大の結愛ちゃん虐待の理由は「モデル体型にしたかった」
警察の取り調べではモデル体型にさせるため、船戸雄大がダイエットをさせていたと答えています。成長する過程でこれからどんどん体型は変わっていくもので、親のエゴと取られてもおかしくない発言です。たった5歳の女の子が痩せることを強いられ、毎日自分で体重を計りその記録を強制されていました。
4歳の息子を虐待死させた筒井麻衣に関する記事はこちらをご覧ください。
なぜ船戸雄大から結愛ちゃんを助けられなかったのか?児童相談所の役目は?
小さな命を落とすことになったこの事件ですが、実は東京に引っ越す前からその兆候はみられていました。突然起きたことではなく、何年にもわたり続いていたことならどうして事前に防ぎ、幼い5歳の女の子の命を救ってあげることができなかったのでしょうか。児童相談所の動きからみていきます。
船戸雄大と児童相談所の対応①香川県では2度も保護されていた
以前にも保護されていたのが明らかになっています。最初は一人で外に出されているところを近所の人が発見しましたが、この時目の上は腫れあがり口からは血を流していました。次は同じく一人外に出されているところをパトロール中の警官がみつけました。その後書類送検されていますが不起訴となり、しばらくしてから家に戻されています。
船戸雄大と児童相談所の対応②品川児童相談所は動かず
家に帰るのと施設にいるのとどっちがいいか聞くと「施設」と答えています。このことからも危機迫っている状況がわかりましたが、2ヶ月以上親から離しておくことはできず家に帰りました。一家が引っ越した際には香川から品川へ注意するよう連絡を入れていました。しかし引き継ぎは資料と電話によるもので、実際にこれまでに負った怪我の写真などはなかったため危険性が伝わらなかった可能性があります。