一柳展也の生い立ちと現在は?金属バット両親殺害事件の真相とその後に迫る

一柳展也は金属バット両親殺害事件の犯人です。エリート一家で育った一柳展也は幼い頃から兄と比較され、受験ストレスで犯行に及んだと言われています。この記事では、一柳展也の生い立ちや事件の詳細、現在の一柳展也について紹介します。

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一柳展也とは?金属バット両親殺害事件の犯人

1980年11月29日のことでしたが、現在では神奈川県川崎市宮前区(当時高津区)で、金属バットで両親を殺害する事件がありました。あまりにも凄惨な事件の犯人こそ一柳展也です。事件を起こした当時は20歳でした。受験の抱える問題が浮き彫りにされたのですが、尊属殺とも言われる犯行はなぜ起こっのか。既に刑を終えて出所していますが、受験に追われた結果なぜ犯行に至ったのか、複雑な事柄について触れて見ます。

エリート一家で育ったことで、幼い頃から兄と比べられ続けてきた背景には何が写っているのか、両親はなぜ殺されてしまったのでしょうか。当時事件やなぜ犯行に及んだのか、そこに潜んでいる心の葛藤、どうして犯行に及んだかの理由など、世間が震撼した事件の詳細や現在についてご覧ください。

一柳展也の生い立ちと受験での失敗

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家族の中に兄がいますが、早稲田大学を卒業してその後大手の企業に勤務します。父親は東京大学を卒業するなど名門校を卒業し、某有名会社の支店長になりました。更に父方の祖父は東京商業大学(現在の一橋大学)を卒業後、某有名銀行の支店長にまで上り詰めます。父方の親族はこぞって、現在の筑波大学や慶応大学を出るなどまさにエリート中のエリートの家庭に生まれたのです。

母親も名門酒造家の娘であったため、名家であることは確かでしょう。学歴が全てではないですが、一流の家庭ではその考えはなかったのではないでしょうか。家族の辿った道から見て取れるように、進む道も自然と決められたレール上だったのかもしれません。

一柳展也の生い立ち①優秀な兄と比較されて育った

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学歴がものを言うかのような環境の下、一柳展也は渋谷にある小学校を経て渋谷区内の中学へと進みますが、その時には兄は早稲田大学付属高校に進学します。渋谷区立青山中学は都立日比谷高校へ向かうために、数多い志願者が多いとされていたため、難関だったようです。

当時は受験戦争も加熱していたため、志願者の多くは一流を望んでいたのでしょう。兄のようになるためかそれを越すためか必死に勉強に励んでいたと言いますが、勉強は追いつかずにいたのです。早稲田大学付属高校の兄と、頑張っても追いつかない一柳展也。順風満帆なエリート一家にいた兄とは、比較された環境で育ったといっておかしくありません。

一柳展也の生い立ち②3人の家庭教師をつけるも高校受験に失敗

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兄と同じ道へ進もうとするため、早稲田大学付属高校に受験しようとしますが、成績はそこまで及ばず、3人の家庭教師をつけ必死に勉強に励みます。早稲田大学付属高校や慶應大学付属高校へと挑みますが、どちらの高校にも受験は失敗するのです。兄は現役で早稲田大学理工学部に合格するのですが、道を閉ざされてしまったかのようにも見えたのですが、それで全てを諦めてしまったわけではありません。

現役合格を果たした兄の姿をどのような心境で見ていたかは、追いかける立場にとって焦りすらあったかもしれません。家庭の歴史などが一流なだけに、その後について重くのしかかっていたのでしょう。

一柳展也の生い立ち③私立海城高校に入学

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早稲田大学付属高校へ進んだ兄とは同じ道を歩まなかったとはいえ、神奈川県の桐蔭学園と都内の私立海域高校も受けていました。そこで、進学校の都内の私立海域高校への入学をすることに決めます。学歴がものを言う中で育った一柳展也も、兄と同じ道ではないとはいえ、学歴重視の家族の中で必死に勉学に励んでいた姿が見て取れるでしょう。

そこには父や兄と同じでないといけない、という思いがあったのかもしれません。父親の社宅に住んでいた家族でしたが、ちょうど1976年(昭和51年)には新築の物件にマイホームを建てた父親でしたが、家族と共に移り住んでいました。

一柳展也の生い立ち④一浪して早稲田・明治・立教・法政に挑戦

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誰であっても言えますが、引っ越しという出来事は大きな気持ちの変化を生んだことでしょう。環境の変化は大きく左右していたのかもしれません。一浪して予備校に通いますが、中間試験では赤点を取るなど、クラスで下から2番目になってしまうほどになっていたのです。一流大学を目指しましたが、予備校に通っていたことを踏まえて、早稲田大学・明治大学・立教大学・法政大学、などに挑戦しますが、全てにおいて不合格になってしまいます。

プレッシャーが重なり、燃え尽きてしまったなかでのようになっていたのです。兄と徐々にかけ離れていくことを感じていたほど、少しのことで崩れてしまう状態だったのかもしれません。追い詰めるだけだった日々の中で、必死だった状況にあったのです。ピリピリと張り詰めた状況と、燃え尽き症候群とも捉えられる心境の中にいたことは確かでしょう。

一柳展也の生い立ち⑤二浪中に就職という選択肢もあったが断念

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もちろん他に選択肢がありましたが、そこで選んだ道がその後を左右するのです。一浪して挑戦した大学に受からなかったことから、別の予備校に通い二浪することを選びます。父親からは冷めたように「目的が見つからなかなら就職した方がいい」と言われ、母親からも「就職の道がある」と伝えられるも、父親に頼んで受験の道を選ぶのです。

就職に道を取ることは「裏切り」と感じたのでしょうか。両親の言葉は、受け入れ難いことだったかもしれません。正しい選択がどこにあったかを知るものは、その当時誰もいなかった可能性は高いでしょう。選択肢が与えられた分岐点だったのかもしれませんが、更なるプレッシャーに捉えられたのかもしれません。

一柳展也の起こした金属バット両親殺害事件の概要

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自分も父や兄のように、母のように、また自らも期待に応えないといけない、と張り詰め追い込んでいたのではないでしょうか。歯車は狂い出し、日に日に生活は変わって行ったのです。パチンコやアルコールに明け暮れるようになった一柳展也と、父親の関係は崩れていきます。月に7日程度しか通わなかった予備校に久しぶりに行くも、偏差値がとても及ばない結果が待ち受けているのです。

父親のキャッシュカードを無断に使用し買い物をしたり、それを咎める父親に責められ、遂には味方だと思っていた母親からも決定的な言葉を言われてしまいます。ある親子間の喧嘩から始まったことでしたが、誰にとっても簡単なことに捉えられなかったことに違いありません。今までのプレッシャー、父親の言葉、引き金になってしまったと捉えられる一言で、遂に脆く崩れてしまい犯行に及びます。

事件の概要①一柳展也は飲酒後に就寝中の両親を金属バットで撲殺

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全てに疲れ切ってしまったかの如く、犯行に及ぶ前ウイスキーを一気飲みします。その後学校で野球チームに入ってキャッチャーをしていたこともあり、それが関係してか金属バットを手にするのです。両親が就寝中、金属バットを手にしていたまま振りかざし、犯行に及んでしまいます。それは撲殺という恐ろしい犯行でした。数回にもわたる行為から、命を落としてしまった両親でした。

父親や母親の姿は後に警察官が驚くほどおぞましい光景だったそうです。両親とも金属バットで数回も殴られていることから、父親は頭蓋骨が割れ、母親については脳内飛び出ているほどだったとされています。更に血痕は、天井にまで達する凄惨な場と化していたのだというのです。その後の行動も、尋常ではなくすぐには通報しなかったのですが、それだけではありません。

事件の概要②強盗が犯人であるように偽装し第一発見者として通報

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犯人ではあるのですがその後、異常な行動に出ます。血に染まった金属バットはお風呂場で洗い、当然のように血痕が多く付着している服ですが、それを躊躇なく衣服も着替え、家中を荒らします。いかにも強盗が入り犯行に及んだかのように偽装したのです。そしてあたかも第一発見者として、近所に殺害されたことを告げ急いで駆け込みました。

朝方には被害者の家族のように、警察に通報します。その場にいることもままならない状況にも関わらず、偽装工作をするなど異常な行動だったことは明らかでしょう。犯行を誤魔化すために偽装工作をするのですが、そのままで犯行が成り立つことなどありません。

事件の概要③親族からの通報で一柳展也は逮捕

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翌朝通報した後ですが、一柳展也について不思議に感じたのは親族でした。親族に追求されるとあっけなく犯行を認めます。そして親族からの通報によって逮捕され、その後は犯行の経緯を淡々と語ったとされています。現場検証をする際も、金属バットを探している警察官に、手袋について聞くほどの余裕があったのです。

警察で殺害の再現をする時には、ダミー人形の頭の部分を戸惑うことなく叩いて見せるほどだったと言います。精神的に追い詰められている、もしくはどこかで既に精神は崩壊していたのかもしれません。心神喪失状態だったことが伺えるのではないでしょうか。

一柳展也の金属バット両親殺害事件の動機

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動機を辿ってみると、理由が一つだけにあったとは考えにくいかもしれません。金属バットで数回も殴り、天井まで血が飛ぶほどの殺意が生まれたのは、様々な要因が含まれていたのではないでしょうか。受験のストレスが加わったこともありますが、積み重なったものが爆発してしまった結果の末に、犯行に至ったことも確かでしょう。

環境や態度、言葉は大きく関係して、時に心を乱してしまうことはあり得ます。常に一流でなければならない、その感情も大きく左右していたことでしょう。徐々に高ぶった思いに、最終的に決定打がなされたことも言えるのではないでしょうか。

一柳展也の動機①エリート一家で育ち父は厳しかった

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まず一つに、一流と言われる一家に育ったことで、父親はかなり厳しく育てたことで、自分を追い込んでしまったことが言えるのではないでしょうか。兄には及ばない、エリート家庭にふさわしくないのではないかと自分を責めたこともあったでしょう。「なぜできない」と言われる度に、自らを追い詰めていったのではないでしょうか。

コンプレックスを抱いてしまうほど、比べられてしまうことに対してなお一層の厳しさを感じていたのかもしれません。「できる人間」と学歴重視の家庭では考え、少しのことでも「できない理由が分からない」と捉える環境は辛いものを感じられます。必要以上に厳しかった父親の元、どうすれば納得を得られるか、小さい頃からの愛情と感じない思いがあったかもしれません。

一柳展也の動機②浪人中であることを責められていた

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また、後に分かることですが「育て方が悪い」「血筋のせい」と、パワーハラスメントとも捉えられる内容を母親には伝え攻めていた父親です。決して「非を認めない」のが「学歴が良い」ということを態度に表していたのでしょう。浪人中であることで「大学に行かず酒をくらい、ドロボーを養うくらいなら明日にも出て行け」と言い放ったという父親の言葉もあります。もうこの家にはいられない、と感じた父親に対して果たして「父親」の愛情を見たでしょうか。

本心ではない一言であったかもしれない言葉でも、常に繰り広げられる態度と言葉、単に怒られていると捉えること不安もあったでしょう。自分はダメなんだと感じてしまい「明日にも出て行け」という言葉は、父親の本心と捉えてもおかしくありません。

一柳展也の動機③母親の一言が最終的な引き金に

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父親が厳しかった反面、それまでは全てをかばい続けた母親がいたのです。両親を殺害する前夜には、そんな母親も父親の「出て行け」との言葉に対して、追い詰めていた姿から既に疲れ切っていたのでしょう。決して母親であれば口にしては行けない言葉を発してしまいます。喧嘩には違いないのですが、全てを抱え込んで最後の唯一の支えだった母親でさえ遂に発してしまうのです。

最終的な引き金になってしまった言葉ですが、我慢をし、プレッシャーを背負っていた一柳展也はもろ刃のごとく崩れてしまう一言でした。唯一の味方だった母親でしたが、遂に発したのです。「あなたはダメな子」という言葉を。母親が発してしまった言葉は一言でも、重みのある、何かが途切れた一言だったことは間違いありません。

一柳展也の事件後の行動と判決

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どんな状況にあったとしても、奪われた2人の命があることは確かです。そこから逃れることは決してできないのが現実と言えます。金属バットで両親を撲殺する、そのような見るに耐えない事件後の法廷の様子はどうだったのでしょうか。1984年(昭和59年)1月には論告求刑が行われ、今まで綴ってきた日記が読み上げられました。

「自分のやったことだが、この苦しみは永遠に続くだろう」「戦前戦後の苦しい時期を生き抜いて、やっとマイホームを手に入れたが、子供に殺されてしまうのは悲惨すぎる」と言い、更に「自分はどうしようもない人間」と語られています。まさに本心そのものの言葉だったに違いありません。

事件後の一柳展也①両親・兄や親族に後悔の言葉を述べる

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1984年(昭和59年)2月に最終弁論が行われましたが、世間が騒いだこの事件に対して次にのように語っています。そこには残された兄や親族への想いが込められていました。世間に対しての言葉も含まれているのです。世間では大きな事件として取り上げられてことに対して、まず言葉が述べられます。「世間を騒がせた」ことについて深くお詫びの言葉を告げつつ、残された兄や親族にも謝罪の言葉を残しているのです。

更に残された兄や親族に対しても語りました。「兄や親族には自分と血が繋がっていることで、これからずっと苦しみを与えてしまう」と語った上で「死んでお詫びしたい」と、涙して後悔や反省の言葉を述べています。

事件後の一柳展也②発達障害・心神喪失・心神耗弱の判定が出た

この事件の裁判には1年以上の歳月がかかったのですが、それまで至るまでには精神鑑定が行われていたことが挙げられています。生まれついて持っていて周りからは「劣っている」ように思われがちな発達障害。善悪の判断ができない状態や精神的に病に陥っている心神喪失。または飲酒などによって判断にかけることもあり得る心神衰弱の状態であった可能性があるとして、様々な観点から判断される事柄になります。

発達障害は誰が悪いわけではなく、1人の責任だけではないのではないでしょうか。受験の抱えるストレスの問題も加わり、更に精神鑑定から発達障害・心神喪失・心神衰弱の判定が出ます。発達障害こそ生まれもったことなので、自身でコントロールは難しかったかもしれません。

事件後の一柳展也③懲役13年の実刑判決を受け入れる

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1984年(昭和59年)4月までに、17回の公判を開かれた結果、痛ましい事件の判決が言い渡されます。両親に咎められたのは、精神的に不安定だった時であり、ただの喧嘩として受け入れられなかったことを語った上です。一柳展也に責任能力が全くなかったとは言い切れないことを告げた上で、冷酷かつ残忍であったことを裁判官は述べています。

その上で、犯行1年以上にわたる精神鑑定の結果発達障害であること、前科がないこと、親族の通報は自主に近いこと、事件後に素直に自供していること、反省や後悔が見受けられたこと、厚生の可能性があることを含めて13年の実刑判決を下しました。求刑が18年だったことを踏まえると、温情判決といっておかしくありません。温情判決の結果を踏まえて、弁護側は控訴はせず、有罪判決が確定したのです。

一柳展也の服役中の様子

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判決を受け入れた後、千葉刑務所に服役することになります。刑に服していた生活は、後に明らかにされているのです。看守たちからも心証は悪くなかったと言われているのですが、刑務所内で際立った問題も起こさなかったとされています。大きな事件を起こした人間が、必ずしも不真面目に過ごしているとは限りません。

態度が悪いから、刑に処せられているとは限らないのではないでしょうか。凶悪犯のレッテルを貼られてしまいましたが、真面目に刑に服していた姿が見受けられるかもしれません。

服役中の一柳展也①運動場で金属バッドを振り回す

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服役中での出来事ですが、野球部に所属していたこともあったのですが、服役中は休憩中に運動をするようにされていたことから、ある時運動場でよく野球をしていたそうです。起こした事件が凄惨だったことから、運動場である時金属バットを振り回し、フルスウィングで素振りの練習をしていたところ、服役中の人たちが反応してしまい報告され青ざめることもありましたが、やめるように注意されることすらなかったと言います。

服役中で休憩中の運動は率先してするようになっていたため、禁止されることもなく、問題にもなならなかったそうです。その行為が取り上げられたこともなく、問題を起こしてもいません。勧めて行うようにする運動なので、咎められることはありませんでした。

服役中の一柳展也②服役中にいじめを受けた

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野球経験があった中で素振りなどをしていましたが、服役中はどうだったのでしょうか。経験があるとは言え、打席でも捕手としてもあまり上手くいかなかったようです。真面目に過ごしていた半面なことがあったのですが、それは会話からだったとされています。話をした中でも「話をするとつまらない」という理由から、いじめを受けていたというのです。

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