一柳展也の生い立ちと現在は?金属バット両親殺害事件の真相とその後に迫る

更に残された兄や親族に対しても語りました。「兄や親族には自分と血が繋がっていることで、これからずっと苦しみを与えてしまう」と語った上で「死んでお詫びしたい」と、涙して後悔や反省の言葉を述べています。

事件後の一柳展也②発達障害・心神喪失・心神耗弱の判定が出た

この事件の裁判には1年以上の歳月がかかったのですが、それまで至るまでには精神鑑定が行われていたことが挙げられています。生まれついて持っていて周りからは「劣っている」ように思われがちな発達障害。善悪の判断ができない状態や精神的に病に陥っている心神喪失。または飲酒などによって判断にかけることもあり得る心神衰弱の状態であった可能性があるとして、様々な観点から判断される事柄になります。

発達障害は誰が悪いわけではなく、1人の責任だけではないのではないでしょうか。受験の抱えるストレスの問題も加わり、更に精神鑑定から発達障害・心神喪失・心神衰弱の判定が出ます。発達障害こそ生まれもったことなので、自身でコントロールは難しかったかもしれません。

事件後の一柳展也③懲役13年の実刑判決を受け入れる

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1984年(昭和59年)4月までに、17回の公判を開かれた結果、痛ましい事件の判決が言い渡されます。両親に咎められたのは、精神的に不安定だった時であり、ただの喧嘩として受け入れられなかったことを語った上です。一柳展也に責任能力が全くなかったとは言い切れないことを告げた上で、冷酷かつ残忍であったことを裁判官は述べています。

その上で、犯行1年以上にわたる精神鑑定の結果発達障害であること、前科がないこと、親族の通報は自主に近いこと、事件後に素直に自供していること、反省や後悔が見受けられたこと、厚生の可能性があることを含めて13年の実刑判決を下しました。求刑が18年だったことを踏まえると、温情判決といっておかしくありません。温情判決の結果を踏まえて、弁護側は控訴はせず、有罪判決が確定したのです。

一柳展也の服役中の様子

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判決を受け入れた後、千葉刑務所に服役することになります。刑に服していた生活は、後に明らかにされているのです。看守たちからも心証は悪くなかったと言われているのですが、刑務所内で際立った問題も起こさなかったとされています。大きな事件を起こした人間が、必ずしも不真面目に過ごしているとは限りません。

態度が悪いから、刑に処せられているとは限らないのではないでしょうか。凶悪犯のレッテルを貼られてしまいましたが、真面目に刑に服していた姿が見受けられるかもしれません。

服役中の一柳展也①運動場で金属バッドを振り回す

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服役中での出来事ですが、野球部に所属していたこともあったのですが、服役中は休憩中に運動をするようにされていたことから、ある時運動場でよく野球をしていたそうです。起こした事件が凄惨だったことから、運動場である時金属バットを振り回し、フルスウィングで素振りの練習をしていたところ、服役中の人たちが反応してしまい報告され青ざめることもありましたが、やめるように注意されることすらなかったと言います。

服役中で休憩中の運動は率先してするようになっていたため、禁止されることもなく、問題にもなならなかったそうです。その行為が取り上げられたこともなく、問題を起こしてもいません。勧めて行うようにする運動なので、咎められることはありませんでした。

服役中の一柳展也②服役中にいじめを受けた

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野球経験があった中で素振りなどをしていましたが、服役中はどうだったのでしょうか。経験があるとは言え、打席でも捕手としてもあまり上手くいかなかったようです。真面目に過ごしていた半面なことがあったのですが、それは会話からだったとされています。話をした中でも「話をするとつまらない」という理由から、いじめを受けていたというのです。

決して金属バットを振り回して暴れたのではなく、その反対にいじめを受けても大人しく過ごしていたのでした。反発することなく耐えていたという話があります。刑務所内でいじめがあったものの、看守たちの間では評判も高く、問題を起こしたこともないまま過ごしていたのです。1997年に刑期を満了し、無事に問題も起こさず出所しています。

金属バット事件後の世間の反応と一柳展也の現在

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両親を撲殺した判決が下されたのですが、服役し出所したことは確かです。本人だけの問題ではないので、出所後も大事かもしれません。世間の反応や現在の彼の様子は如何なのでしょうか。事件が風化されるかのように過ぎ去ったかと思われた、現在の事件現場は実に閑静な住宅地でした。高級住宅地と呼んでおかしくない誰もが憧れたのは神奈川県川崎市宮前区宮前平(みやまえだいら)です。

その3年後の「金曜日の妻たちへ」で、宮前平は撮影場所に選ばれます。高級住宅地に住んでいる方々は、憧れの地で起こった事件をどう捉えているのでしょうか。また現在はどのようになっているかになります。そこには様々な想いが渦巻いていたことは言うまでもありません。

『宮前平』は通称「金属バットのところ」となった

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一柳展也が起こした事件はその地の方々にとって、語ってはいけない「禁句」とされていたようです。「金曜日の妻たちへ」の撮影中にも、事件の取材ではないかと感じた住民たちは、口を揃えるように何も知らないかの如く語ることはしません。聞き出そうとするも、覚えていないなど言葉を濁すのです。その中でも口を開いたかたによって分かったこともあります。

一柳家の親族も土地を次々に離れて行き「宮前平」の名を出すと「金属バットのところ」とされ、その事件後は徐々に口を閉ざすようになったそうです。世間でも大きなニュースになった地域だけに、いつの間にか自然と語らなくなったことが伺えるでしょう。

2012年時点で事件現場の家は取り壊されている

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凄惨な事件のあった現場ですが、現在どうなっているのでしょうか。閑静な住宅地にあった住宅地に、父親はマイホームを建てたのですが、事件のあった家をそのままにはできません。父親の建てた家でしたが、その姿を見ることはできません。2012年時点で事件現場となった家は取り壊されています。

金属バットで両親を殺害した現場を残しておくことは、後に取り上げられる対象になり、また地域の方々の感情も乱すことに繋がることでしょう。親族だけではなく近隣の方々にとって、いつまでも残されて良い物件ではないことが伺えます。当時の事件を覚えている人物は多くいることが確かですが、家は既に取り壊され、忘れ去ろうとしているのかもしれません。

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