小平事件とは?連続強姦殺人の犯行詳細や犯人の小平義雄の生い立ちも

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また、小平の軍歴は機関兵として海軍陸戦隊の一員として従軍しています。機関兵とは軍艦などのエンジンの動作を専門に維持管理及び操業させるための兵科です。

第1の犯行を行った時は海軍衣糧廠でボイラー技師をしていたので機関兵であったのは事実と考えても矛盾はありません。

実際、その仕事に従事していた時は部下を持つ主任の立場として働いていました。

ただ、海軍陸戦隊に機関兵が本格的に配属されていたという点も疑問がのこり、その中でも機関兵が本格的に戦闘に従事することはもっと疑問の残る点でもありあます。

この点から、小平の従軍中の虐殺に関する供述は慎重に研究する必要があるといえます。

軍関連の自他の行動に関しては、組織をあまり良く思っていない節もあるのも事実です。軍の風紀の乱れが小平の犯行の一因となったといっているかのような供述もあります。

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たとえば、海軍衣糧廠に務めていた時の話として、女子寮内で寮生と将校や下士官が性交するのを見たなどとも述べています。

小平事件の犯人小平義雄の生い立ち

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小平の犯行の背景を明らかにする意味で生い立ちや、小学校時代の様子を明らかにしていきます。

家庭環境は恵まれているとは言えず、特に父親に関しては、自宅へ女を連れ込み小平義雄ら子どもたちの前でセックスを始めるなどの事もあったようです。

小平義雄は商人宿の3男として生まれる

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小平は1903年に栃木県都賀郡日光町(現:栃木県日光市)で宿屋を営む両親の6番目の子、3男として生を受けました。

小平の生まれた地域は当時、盛況をを博していた足尾銅山関係者が頻繁に利用したため賑やかな状況でした。

母方の親戚には弁護士や裁判官などを勤め、犯罪傾向全く無かったが、父方の親戚には精神疾患を抱えたものや、窃盗や傷害などの犯罪傾向を有するものが多数いたとのことがわかっています。

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この父親の影響か定かではありませんが、小平が成長するにつれて宿屋の経営もうまくいかなくなり、山林や田畑も人手にわたってしまいました。

小平義雄の小学生時代はあまり成績が良くなかった

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小平の尋常小学校の成績は男子23人中21番目でした。「操行」の成績は6年間「丙」であり、品行は良くなかったと考えられます。

小学校4年生の時には残っていた査定記録には「不注意にして不熱心なれば成績不良なり」と書かれています。

また、吃りがひどく意思がうまく伝わらない時は、たちまち激昂し、弱い者いじめも頻繁であったと言われています。

小学校一年の査定では「不注意、不熱心、無精にして喧嘩せざる日なし」と記載されています。一方、この頃から女性には優しかったそうです。

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逮捕後には小平に対し知能テストが行われたようです。結果は中の下程度であったが、計算能力も良好で知識も豊富だったとの記録が残っています。

また死刑執行が決まり、死刑囚となり妻の面会を受けて改悛の情を見せてからは読書なども行っており、知能は決して低くないであろう、エピソードも残っています。

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また、逮捕されてからの供述では小平は自らを「人面獣心」であると認識し、「腰から下は獣ですよ。」とも言っています。

自己分析がきちんと出来ているという面でも知能はむしろ高いのではないかという印象を持ちます。

小平義雄は海軍に入り中国で婦女暴行や妊婦の殺害をしていた

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小学校卒業後、東京へ出て見習工や店員として2年ほど働いていました。その後、地元へ戻り精鋼所に勤務しました。18歳のとき海軍に志願して入隊しました。

入隊後は軍艦の乗組員としてオーストラリアやヨーロッパに寄港し、その先で売春婦を知り、一晩泊まって4、5回やったこともあると言っています。

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済南事変で中国に従軍したときは市街戦で中国兵6人を刺殺し、この時の軍功で勲八等旭日章をもらっています。

後の供述では、このとき中国のターク-では中国人の家に押し入り、女を強姦したり、妊婦の腹を裂いて胎児を引き出したりするなどの虐殺行為を行ったと供述しています。

小平義雄は結婚するも浮気がバレ義父を殺害

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1929年の24歳の時に、海軍を除隊し、精鋼所に復職しました。1932年には工場長の姪を紹介され見合い結婚しています。

しかし、すぐに妻は実家に帰ってしまいました。これは親戚の娘を妊娠させ私生児を生ませたことによるものです。義理の両親はこれで小平と娘を離婚させようとしました。

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妻に帰宅を迫り、何度も実家を訪れました。一向に帰ろうとしない妻に立腹し、ついには鉄棒をもって襲撃してしまいます。

このとき、義理の父を撲殺し、他6人に重症を追わせています。この事件で懲役15年の刑となりますが、2度の恩赦が偶然あり、わずか6年で仮出獄してしまいます。

小平義雄は罪を隠し再び結婚した

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1944年の小平は2度目の結婚をするが、この時には前妻の実家を襲撃し、懲役刑を受けていたことは秘密にします。そして、2度目の結婚では男の子一人を授かります。

この子には死刑の間際にも行く末を案じ、子煩悩な一面を見せることもありました。しかし翌年には太平洋戦争の激化により、東京一円も空襲がひどくなり、妻子を富山に疎開させます。

この後、小平は海軍衣糧廠の女子寮に住み込みとして働きます。そして終戦を挟んで1年余りの間に少なくとも女性7人にたいして強姦殺人を繰り返します。

小平事件と同じ手口が使われた事件①第二小平事件

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第二小平事件とは1946年から約1年間に連続して発生した強盗殺人事件です。

小平と同様に犯人は「就職口を斡旋する」と言葉巧みに被害女性を山林に連れ出し、金品を強奪しました。

このため、被害者を騙す方法が小平事件と共通点があるため第二小平事件と呼ばれています。犯人は「群馬の小平」とも呼ばれています。

小平事件と同様に3つの事件が発生

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第二小平事件は自供から5件の殺人事件が発覚したとされていますが、そのうち起訴されたのは3件で、有罪が確定しています。

第1の事件

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11月13日に買い出しに来ていた女性に大宮駅で声をかけ埼玉県入間郡霞ヶ関村(現:埼玉県川越市)の雑木林に誘い込み絞殺しました。

第2の事件

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1946年12月21日に約1ヶ月前の事件と同様に、買い出しに来ていた女性に声をかけました。

茨城県猿島郡五霞村(現:茨城県猿島郡五霞町)の山林に誘い込み絞殺したそうです。

第3の事件

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同じく、大宮駅に買い出しに来ていた女性に声をかけ、タバコ購入の斡旋をすると言葉巧みに騙しました。

埼玉県北足立郡馬宮村(現:埼玉県さいたま市西区)の山林に誘い込み絞殺しました。

小平事件と違うのは犯行動機

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小平事件は強姦が主目的でしたが、第二小平事件において犯人は金銭を奪うことを目的としていました。第二小平事件は強盗を目的としていました。

しかし、手口という点では女性の興味のある事柄を用いて言葉巧みに被害者を誘い出すというということで共通しているといえます。

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事件の起きた1946年~1947年にかけては終戦直後の混沌とした食料事情がほんの少しだけ落ち着き、食料は値段は張るものの闇市に行けば入手できない事もないといった状況に変化していきました。

そのような状況では食べ物そのものよりも就職先のほうが女性のこころを掴んだのでしょう。

事件の判決は小平事件と同様に死刑

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1947年1月の第3の事件以降、埼玉県大宮駅で就職先斡旋などを装い女性に声をかける怪しい男が捜査線上に浮かびました。

この男は3月に殺人容疑で逮捕され、その後5件の殺害事件について自供し、3件で起訴されました。

この犯人は起訴された事件3件で有罪となり、1950年2月3日に犯人の死刑が確定しました。

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