許永中とは?フィクサーと呼ばれた男の生い立ちや現在!【イトマン事件】

許永中(ホ・ヨンジュン)は、戦後最大の巨額資金事件「イトマン事件」で名を轟かせました。アウトローな生き様に、許永中はフィクサーとも呼ばれています。今回は許永中のこれまでの経歴や、イトマン事件の概要、許永中の現在の様子について解説していきます。

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許永中(ホ・ヨンジュン)とは何者?イトマン事件の逮捕者?

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許永中はフィクサーとして、裏社会で暗躍した人物です。彼がどのように人心を掌握したのか、どうして、社会の第一線で活躍した人物が許永中に取り込まれて行ったのか、見て行きたいと思います。

許永中とは?これまでの経歴や生い立ち

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このごろは久しく許永中の名前を聞いていませんが許永中は実在の人物ですから興味は惹かれます。彼の健在ぶりは20017年に今あるテレビ番組に出演することでアピールしました。裏社会でも彼の今後の動向には密かに注目しています。

謎は解明出来ないかも知れませんが、覗き見だけでもしてゆきたいと思います。許永中という謎と人物を追って見れば闇の社会が見えてくるかも知れません。

大阪の韓国人地区生まれ

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許永中は大阪の大淀区中津で生まれました。中津は在日韓国人地区です。許永中は子供時代は大変貧しい生活をしていたと言っています。父親は漢方の先生、母親は家でどぶろくを売って生計立てる生活でした。

許永中は大阪府立淀川高校入学。許永中は上級生との喧嘩の度胸を買われ、周囲から一目置かれる存在になります。許永中はたとえ年上の相手でも怯むことなく向かっていったといいます。

大阪府立大学入試に失敗、許永中ははじめての挫折を味わいます。彼は大阪工業大学に入学しました。柔道部に所属するも3年で、中退します。許永中は韓国人コミュニティーの中で大学までこのエリアので過ごしたといいます。

トレードマークはスキンヘッド

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許永中と言えば丸刈りがトレードマークで人当たりの良さそうな笑顔に鋭い眼光を放つ瞳を持っていました。許永中は身長が180センチもあり大柄でひと目見ただけでもマフィアのボスのような風格でした。

許永中は闇世界の紳士と言われていました。あらゆる人脈に食い込んでいて、敵味方であろうとも双方に顔が効く、彼独自の人心掌握術はそれなりに評価されています。立場は裏社会の情報屋です。

許永中は韓国人コミュニティーの中で大学までこのエリアので過ごしたといいます。コミュニケーションのころに、やくざや同和会の仕事もしながら、人間関係を作っていったのです。

大阪工業大学を中退

許永中は大阪府立東淀川高校に通っていましたがその後は工業に進学します。しかし大学生になるとパチンコや麻雀などのギャンブルにハマり3年で中退します。喧嘩とギャンブルの毎日でした。

許永中は店に入り浸っているうちに、店からみかじめ料を貰いガードマンとして、雇われていたとも言われています。身長も180㎝体格よく、目立ちました。

働きながら経営を学んできた

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大学を中退した後は許永中の動向は掴みきれていないようです。許永中はボクシングの興行成功で、一目置かれるようになりました。不動の広告代理店で勤務します。

秘書兼運転手として勤め、働きながら経営学の勉強をしました。このころ許永中は藤田と言う日本女性と結婚しています。彼の偽名藤田はこの頃の姓です。

巨万の富を動かすと言う経済界の闇、許永中は普段はナチュラルな笑顔と柔らかい話し方で、若い頃から、酒と料理の接待にたけていました。

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許永中は一度掴んだ大物のパイプを大事にします。裏千家との繋がり、竹下登や福田赳夫、亀井静香と、政治家との繋がりを調べれば、次々と名前がでます。

許永中はときには暗殺されるのでは、と詮索されていますが、辛くも生き延びて行きます。許永中はより太いパイプを作り上げて、よく面倒をみます。

相手が許永中の闇の部分に気がついた時には断れないような弱みを握られ、またのっぴきならない程世話になっています。許永中は「人たらし」との異名を持ちます。

政治家や暴力団とも交友を深めフィクサーと呼ばれる

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許永中は多くの政治家と交流がありまた暴力団とも、親交がありました。本人は自分が悪い人間だと言いきります。それは生まれ育った環境もあると言っています。自然とそんな環境の中で生まれ育ったのだと。

貧しい環境で這い上がる方法を必死で考えたら、環境からしてそうなっていたのだそうです。経済は独学で学びました。許永中の周囲にはヤクザや暴力団関係の大人たちがしのぎを削っているエリアです。

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許永中は部落解放同盟の幹部とも交流を深めて、被差別部落とのパイプを築いていたと噂されています。ベンジャミンフルフォードが出版した「ヤクザリセッション」という本があります。

その中で、許永中は在日韓国人であるが中津で権力を握る被差別部落民と懇意になることに成功したことによって、裏社会の出世を成し遂げたのだと言っています。許永中と同和会とのパイプはその後の力になります。

イトマン事件で逮捕

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許永中が運転手兼ボディーガードとして使えた、大谷貴義は戦後最大のフィクサーと言われた人物です。許永中はそこでフィクサーとしての仕事を覚えたのです。

大谷は表舞台にはほとんど登場しません。渋谷に1000坪の土地があります。使用人を10人も抱えていました。どこまで深いパイプを持っているのか、謎の人物と言われててました。

本業は宝石商ですが、政財界とも太い繋がりを持ち、福田赳夫とは特に親しい間柄がらでした。許永中は大谷の運転手の時に大人の恐ろしい世界を知ったと言っています。

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皇族や政財界のパイプはだいぶ暴かれてきていますが、もちろん表の部分です。

許永中はそこで早くも頭角を現し1975年には休眠会社だった大淀建設の買収に成功し、社長の座についています。その後山口組の宅見勝とも親交深めていきました。東邦エンタープライズを設立します。

許永中がイトマン事件が世の中を騒がせたのは平成3年のことです。大阪に拠点を構える伊藤忠商事に絡む闇の金で数千億円が闇世界に流れたとされる戦後最大の経済事件でした。バブル時代の証ようなストーリーです。

許永中が関わったイトマン事件とは

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許永中が関系したイトマン事件は伊藤萬が不動産取引に失敗し、巨額の赤字を出したという情報を握った許永中が、巧みに伊藤萬に入り込みイトマンに損害を与えた事件です。

伊藤萬から闇ルートに金が流れるトリックを作り出し、多額の金が闇ルートに流れました。まだそのルートは解明されていません。

許永中はイトマン事件のフィクサーとして逮捕されます。しかし、彼は無罪を主張します。イトマン事件では許永中自身が命を狙われていると言い、追ってから逃れるために、逃亡してしまいます。

伊藤萬が創業した会社「イトマン」

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明治から続く伊藤萬は大阪にある中堅の企業で、当時は不動産取引で巨額の赤字を抱えていました。赤字の補填に急ぐあまり闇社会とつながりを持ちます。

ゴルフ場開発や絵画の取引などで巨額の資金を闇ルートで海外に流出させていました。ロートレックの買取りは世間を騒がせました。しかし、大物政治家が絡むという闇ルートはまだ解明されていません。

伊藤萬がイトマンになるまでには、映画さながらの展開が待っていました。許永中は敏感にも伊藤萬の窮状を察知します。実は許永中ではなく大谷の指示によるものだと闇社会では当然の事実だと言われています。

多額の借入金を抱える伊藤に投資を持ちかける

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金額の借金に喘ぐ伊藤萬に話を持ちかけたのが許永中です。許永中は当時雅叙園観光の債権者でした。不動産売買で多額の借金を抱えて喘いでいる伊藤萬に甘いビジネスの話を持ちかけて行きます。

雅叙園観光は、雅叙園とは別の会社です。バブル真っ最中のことで、負債を抱えた会社にとって、それほど奇異な儲け話しではなかったのです。伊藤萬は東証1部大証1部に上場している中堅どころの会社でした。

経営悪化にともない、住友銀行の役員の河村良彦を社長にに迎え総合商社に移行している時でした。許永中の話しにまんまと乗ったのはまさにバブルのなせる技でした。

法外な価格の美術品676億円を売る

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伊藤寿永光は、雅叙園観光に融資していた200億が焦げつき焦っていました。融資先はコスモポリタンや大阪府民信用組合理事会長です。資金繰りのために、住友銀行の磯田や河村に接近します。

伊藤寿光は伊藤萬の常務におさまりました。住友銀行から伊藤萬を介して融資を受けるようになります。許永中はイトマンの再建処理に関わり、河村に美術品や絵画、貴金属などの投資話しを持ちかけます。

伊藤萬は許永中の会社の話しにのり許永中が持っていた絵画を676億円で買取りました。絵画はあり得ないほど、高価で買い取られています。許永中は後ほど、あまり儲かってはいないと言ったそうです。

そのほかにゴルフ場開発も投入させる

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絵画は鑑定評価書の偽造をし、2倍から3倍以上の価格が設定されてしました。河村と伊藤はこれを承知で伊藤萬に買い上げさせ、多額の損害を与えました。その金はどこに流れたかは解明されていません。

また伊藤と許永中はイトマンに対してゴルフ場開発や、地上げ屋をやらせて、多額の資金を投入させました。イトマン事件はバブルを背景にしています。この時代に暗躍したのはバブル期に生まれた経済ヤクザの存在です。

特に手腕を発揮したのは、宅見組組長の宅見勝です、地上げや株の売り買いで、時勢に乗って行きました。宅見は一流企業を相手に面白いように収益を上げました。許永中を上手く使っていたと噂されています。

3000億円以上の資金が闇社会に消えることに

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イトマンは360億、全体では3000億以上の資金が消えました。闇ルートは解明されていない?資金は住友銀行からイトマンを介して暴力団等闇社会に消えていったといいます。

住友銀行は5000億の損失を計上しています。またイトマンの河村は、同社の定例会議で、解任されています。

戦後最大の疑獄事件リクルート事件の詳しい情報はこちらから

すでに河村を除く役員会で、解任が決定していましたが、定例会の席で解任されています。どんな人脈が絡んでいったのでしょう。

またマスコミ工作として流出した資金もありこれは裁判で明らかにされています。当時批判的に報道していた日経や新潮社に対しても資金の流出がありましまた。

しかし、どのようなマスコミ対策をしたのかは明かされていません。許永中自身が手にした金は、大した額ではなかったといいます。確かに金は許永中の手を通って闇社会に流れたのです。

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許永中を取り巻く闇社会の人間は、実に多彩な人間でした。表と闇を使い分けている面々です。

許永中に下った判決は?

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1991年の7月23日に大阪地方検察庁特別捜査本部が逮捕し、その後起訴しました。特別背任の疑いで伊藤と許永中と河村を含む6人が逮捕されました。当時は大きなニュースでした。

許永中の判決は懲役7年・罰金は5億円

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最高裁は上告を棄却、許永中については懲役7年6ヶ月で罰金は5億円、伊藤については懲役10年の刑が下り、河村は懲役7年の刑が確定しました。許永中は判決が下ったときに倒れたと言います。

2005年に収監され、2012年には本人の希望により、韓国に移送されています。2013年の9月には仮釈放になり、翌年9月には釈放されます。

巨額の資金の行方は謎のまま

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しかし3000億にも上る資金は未だに行方が分かっていません。噂によると、暴力団や政治資金に流れたのではないかと言われています。許永中が事件の真相を話さないことにはその向こうの巨大な闇は見えてきません。

経済界か、政治資金か、金融界か、銀行ももはや闇資金を流用します。国家でも資金調達は必須です。なんでも吸い込む巨大ブラックホールは一般人にはすぐ近くにあっても見えてきません。

6億円の保釈金を払った

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6億円の保釈金を払ったとされていますがそのうち3億円は弁護団によって支払われてました。弁護団によって保釈金が支払われたのは、彼を救いたい者がいたのか、話されたら都合が悪い者がいたのでしょうか。

許永中の関わったイトマン事件が起こした影響は?

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イトマン事件は、あちこちに大きな傷跡をのこしました。イトマン本体はなくなりました。関西新聞もなくなりました。許永中ばかりではなく、バブル紳士たちは潮が引くようにいなくなりました。

あの時代はヤクザさえ次々と廃業して行っ時代です。近畿放送は20年以上かけて、復活を遂げています。イトマン事件というより、日本はバブルの傷痕を未だに拭えていないのです。

許永中の影響①イトマンは吸収合併に

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結局、一部上場企業の老舗企業のイトマンはオイルショック以降急速に経営が悪化しました。メインバンクであった住友銀行は当時常務の河村美彦を伊藤萬の社長として送り出します。

当時伊藤萬の4台目社長の伊藤寛は代表権のない会社会長としてとどまりました。河村は手腕を発揮し伊藤萬を総合商社とし、社名をイトマンに改めました(1991年1月1日)。

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しかし、平和相互銀行の内紛のための力添えを住友銀行の磯田頭取から頼まれ内紛株の買い戻しをしました。その後泥沼にはまり初期に発覚したイトマン事件により経営破綻しています。

住金物産に吸収合併されたのが1993年のことです。110年続いた会社が幕を閉じました。現在イトマンの名を残しているイトマンスイミングスクールは、教育事業のナガセの系列会社です。

許永中の影響②関西新聞は倒産

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許永中が関与していたとされる関西新聞は不渡りを出し1991年の4月に倒産、廃刊に追い込まれました。経済情報が中心のしっかりしたな紙面構成でしたが、1990年に許永中に乗っとられます。

許永中の頃には、韓国の経済情報なども掲載していました。関西新聞(日刊)は、かつては関西新聞の子会社だった月間のタウン紙を発行していた関西新聞とは違います。

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