JAL123墜落事故とは
JAL123は1985年8月12日、羽田から伊丹をフライトの最中に悲劇が起こりました。通常であれば45~50分で到着する事ができますが、この日だけは違います。JAL123は途中で群馬の高天原山と呼ばれる山岳へと落下してしまいます。このJAL123事故は単独機事故としては最悪となり、数多くの著名人や多くの犠牲者を出してしまうことになってしまいました。世界最悪の飛行機事故とも言われています。海外でも取り上げられました。
JAL123墜落事故の当日の様子とは?
JAL123は無事に何事も起きなければ当日は合計で6回フライトする予定でした。5回目の途中に異常事態が発生。お盆と帰宅ラッシュと、より多くの人が利用するこのタイミングでまさかこんなにも大きな悲劇が起きてしまうとは誰も予想もしませんでした。
JAL123は18時00分に伊丹空港へ向けて出発
JAL123は時日本人はもちろんアメリカ人、インド人、中国人、イタリア人等の外国人も複数人搭乗していました。お盆という休みだからこそ遠くの実家に帰省したり、計画した旅行を楽しみ、帰る予定だった人が主です。
JAL123の乗組員はみなベテランだった
JAL123の乗組員は皆ベテランでそれぞれの経験実績である総飛行時間も長く、その為不安要素は特に何もありませんでした。普段となんら変わりのない、普段通りのフライトとなるはずで、乗組員による人為的ミスもありませんでした。
JAL123の緊急事態発生から墜落まで
JAL123についてはよくテレビの特集等で取り上げられる事が多いので概要を知っている方も多いかと思います。上空へ飛び立ったばかりのJAL123の機体に一体何が起きていたのか、さまざまな検証後、判明されている点を解説します。
JAL123は18時24分緊急事態発生
JAL123は飛び立ってから12分で異変が起きました。つい先ほど飛び立ったばかりのJAL123から突如大きな衝撃音が響き渡りました。この後からJAL123の状況が制御不能なまでに悪化してしまいます。東京の地上からも異変が起きた機体の様子をカメラで捉えられました。
尾翼破壊
大きな音はJAL123の垂直尾翼と呼ばれる部分が破損した事による音でした。こちらの画像でご説明すると、米国旗の尾の部分です。役割としては横揺れを調整する役割をもつ大事な翼です。この部分と合わせて油圧や電力等を供給するための小型エンジンである補助動力装置と呼ばれる部分も喪失しました。
この尾翼が破損した原因は、後部にある圧力隔壁と呼ばれる機内を一定の気圧に保つための壁が壊れてしまった事が原因で尾翼の圧力が上昇してしまったことにより、耐えきれずに破壊されてしまいました。
操縦システムにダメージ
作動油が流れ出てしまった為、JAL123機首の上下を操縦するための昇降舵を操ることが出来なくなってしまいました。その為大きな翼についている補助翼と呼ばれる機体を旋回させるための翼を動かすことが出来なくなってしまう危機的な状況となりました。フライト中に上空で主要の翼のコントロールが出来なくなってしまう程恐ろしい事はありません。
激しい揺れを繰り返しながら降下
JAL123は上下左右に激しく揺れ続けながら17分間は高度を保ち続けます。18時40分、空気抵抗により下降させるため、車輪を降ろします。その後JAL123は、山梨上空で右旋回、埼玉上空を左旋回をします。その間JAL123の機体の破片を海等へ落としながら飛行していました。JAL123機の破片が後に海上で発見されました。
JAL123の緊急事態発生時の客室内の様子とは
機内の状況を、生存者の方々の証言をもとに解説します。数少ない助かった方がいたからこそ当時がどのような状況だったのかが判明する事になりました。亡くなった方が撮影したとされるカメラがとらえた様子も、現場から見つかっており、後にメディアに公開されました。
翼の破壊音直後
乗客は緊急時に自動的に流れる音声の指示に従いました。シートベルトの着用をし、更に救命胴衣の着用を行いました。衝撃に備えて頭を抱え込みます。
乗客の様子
誰もがパニックになるかと思われる状況ですが、取り乱したりせず皆冷静に状況を受け止めていたと言われています。乗務員も子供の抱き方等出来る限りの安全な方法を繰り返し伝えられました。乗客に繰り返し伝えられたと思われるメモも残っています。
JAL123の緊急事態発生から地上との交信の様子とは
JAL123とのやりとりについての様子を具体的に解説します。地上では何とか力になろう、助けようと諦める事なくJAL123と寄り添い続けます。本来は英語でのやりとりが行われるのですが状況を考慮され、日本語でのやりとりが認められます。特に何度も操縦不能の旨の言葉が繰り返し伝えられていました。
当初は引き返す予定だった
救助を求める際に使用される無線がコックピットより発信されました。東京の管制部が受信し、やりとりが始まります。機長の判断では羽田へ戻る旨へ伝えられ、羽田でも受け入れ態勢の準備を開始し、管制部からの指示を出した際に機長は「But Now Uncontroll」と返答しました。
距離が短い点と旋回等の負担を考慮すると名古屋へ着陸した方が良い旨提案されましたが、引き返す判断がなされました。
横田基地と羽田での受け入れ準備
米軍基地である横田と、要請された羽田の受け入れ準備を速やかに進められました。万全な状態で「いつでも最優先で着陸できる」と発信され、機関士が「了解しました」と返答したきり、その後は受信する事はありませんでした。
その後も横田から受け入れ体制が整っている旨発信され、周波数を横田基地へ合わせる旨案内されましたが、努力の甲斐空しく既にJAL123は墜落の後でした。
JAL123の墜落直前の機体やコクピットの様子とは
何とか無事に帰ろうと彼らは懸命に試みていました。32分あまりの音声記録が残されており、狭い室内で多くの命を背負う彼らの当時の緊張した様子が伝わってきます。取り乱すことなく、諦めずに、励まし合いながら出来る限りの事を行おうとしていました。絶体絶命の状況の中で発せられた言葉のやりとりが胸を締め付けます。
音声が途切れるまで
JAL123の墜落の10分前、機長や航空機関士らは落ち着き、互いに励まし合っていました。8分前には速度も落ちてしまい、警報装置も鳴り始めました。何度も機首の上げ下げが行われます。速度が不安定に変化しはじめ、速度に関しての指示等のやりとりが頻繁に行われました。
墜落直前、「PULL UP」と、機体の上昇を促す警告音が鳴りました。同時に「あー、駄目だ」と叫び声が残されていました。以降、音声は途切れてしまいました。
JAL123墜落事故の墜落事故現場の悲惨な状況
焼け焦げた木々や、周りに散らばった幼い子供の帽子、靴等ネット上でも目を覆ってしまう程の悲惨な現場の写真も公開されました。ひとりひとり、脈があるかどうかを触って確かめられました。現在では当たり前となったDNA鑑定は当時にはまだなく、身元不明者が多かったです。
せめて体の一部であっても誰のものなのか判明してほしいという願いも叶わない遺族の方も多かったです。
JAL123墜落で最終的に生き残ったのは僅か4人
当時12歳で北海道からの旅行帰りで大阪の親戚の家へ寄ろうとキャンセル待ちをし、乗る事ができた川上さん、乗務員として勤めていて当日は休みで私用の為利用していた落合さん、家族5人で兵庫から東京の実家へ帰省し、東京へ戻ろうとしていた吉崎さん親子、と助かったのがこちらの4名のみで、重症の状態で現場で一夜を明かしました。
無事に生き残った4名のその後は?
奇跡的に生きて帰ることができた4名ですが、嬉しいことばかりではありませんでした。トラウマを抱え、家族を失った悲しみや心の傷は一生癒える事はありません。心無い嫌がらせを受けたり、むしろ被害者なのに恨まれたり、ストーカーされたり、ということもしばらく続き、精神的に追い詰められてしまったと言われています。
それでも耐え続け、辛い過去を背負いながら生きています。
JAL123墜落当初はまだ大勢の生存者がいた?
救助に至るまで大幅に時間がかかってしまいました。地上では現場の場所が誤って伝えられた点や夜間の時間で、翌日の早朝にJAL123の発見、4名の生存者は翌朝11時に救助隊によって発見されました。証言では直後はまだうめき声が多く聞こえる家族や他の乗客もいましたが、時間が経過するにつれて声も聞こえなくなり、亡くなってしまいました。
少しでも早く、当日の夜に対処できればもっと多くの命が助かったはずです。様々な要因から遅れた事に対し、やり場のない怒りがこみ上げます。これが昼間だったら、早く助けられたのに、と誰もが「たられば」と口にしました。
JAL123墜落現場の生々しい現場
JAL123の機体は原形をとどめずバラバラになってしまい、散乱していました。焼け焦げた匂いや油の匂い等、白い煙が漂っていました。その中で520名もの遺体はほとんどが手や足の一部、といったように人体の一部が辺りにありました。遺品も散乱していました。
JAL123墜落事故の現場では多くの作業者が不調をきたした
辺り一面に焼け焦げた匂いや散らばった体の一部とみられる遺体等、写真でも公開されていますが見るだけでも辛い中で、何時間も続いた救助活動等にあたった人たちもまた、現場の言葉を失ってしまう様な状況に慣れる訳もありません。精神的にダメージを受け、心身ともに不調をきたす作業員が多かったと言われています。
JAL123墜落事故の遺族の遺体検証もまさに地獄絵図状態
体の一部が誰のものなのか、損傷が激しく身元特定に時間がかかりました。真夏の時期でもあり、暑い状況の中で腐敗が進む状態でした。
このJAL123で3人の大事な娘さんを失ったご両親が目の当たりにした検証の際の辛い経験もメディアに公開されています。
「あんなの人間の遺体やない!」叫び声も
全ての遺体は体育館へと運ばれました。亡くなった3人の娘さんのご両親である田淵ご夫妻は、娘さんとは到底思えない程の姿を見た時、「人間の遺体というよりは炭のようだった」と話されています。館内にこもる臭いも感じず、このときは涙も出なかった状態でした。娘さん達は燃料タンクの近くの座席に座っていたとのことで、火災により特に損傷が激しい状態でした。
せめて自分の家族だ、と認識できる状態であってほしい、そのような願いが叶った遺族は少なかったと言います。
安置所となった体育館
遺体が運ばれた当時の藤岡市民体育館は取り壊され現在は跡地となっています。多くの遺族たちが涙を流し、怒り狂い、地獄の状態だったと言われています。思わず目を覆ってしまう光景です。関係者たちは何度洗っても取れない臭いは自分では気付かなくても周囲の人は異臭に気付いた程で人が集まる公共機関も利用できなかったそうです。
JAL123墜落事故直前に書かれた遺書
皆取り乱さずに冷静に落ち着いて備えていました。その間に大事な家族にせめてもの思い出一言を残そうと遺書を書く人たちも多くいました。後に見つかった手帳や紙切に記された字は震え、殴り書きの筆跡でとにかく言葉を残そうと、思いが字から痛いくらいに伝わってきます。メッセージを書く彼らの姿を想像するだけで心が痛みます。
死を覚悟した人々の懸命な「生きた証」
自分がこれから死んでしまうかもしれないと思った時、冷静に受け止め覚悟を決めるのは簡単にはできません。どうにかして生きたい、パニックになってもおかしくありません。しかしその中で大切な自分の家族に向けて残された短い時間に生きた証としてメッセージを残していました。
JAL123墜落事故で生存した4人が生還できた理由とは?
4名の奇跡的に生きて帰ってこられた理由は座っていた場所の条件として2つあります。助かったとはいえ、それでも骨折をし重症な状態でヘリで病院へ搬送されました。助かったという事だけでもとても奇跡です。なぜ4名は助かったのかその訳について詳しく解説していきます。
JAL123墜落事故で生存できた理由①機体の後方部にいた
機体は前方と後方で折れ離れてしまいました。前方部分と違い、後方は木々がクッションになりながら落下するスピードを緩やかにしたために衝撃が少なく済んだと言われています。
JAL123墜落事故で生存できた理由②最後尾の中央辺りにいた
座席の場所によっては山の斜面とぶつかった際の衝撃で即死となった方も多いです。機体の後方部、かつ最後尾の中央の座席に座っていたのが生存者である4名でした。重症であっても、奇跡的に助かったのは様々な条件が一致した為です。近くに座っていた周りの人々は亡くなってしまいましたが、遺体も綺麗な状態だったと言われています。
JAL123墜落事故の生存者のその後とは
- 川上慶子さん
JAL123事故で両親と妹を失ってしまった川上さんは祖母と兄との3人暮らしをしていました。10年もの長い間、興味本位によるストーカーや迷惑行為等も受けました。苦しみに耐え続け、周りからの励ましを支えに暮らし、看護師として人の命を救う仕事に就きます。プライベートでは趣味のスキューバダイビングを通し、パートナーを見つけ、国際結婚をし、家庭を築かれています。
- 落合由美さん
乗務員として勤める落合さんは当日は私用でJAL123へ搭乗していました。懸命に乗客へとアナウンスしたりと、乗務員としての役割を担っていました。マスコミを前に顔を出されていない為、定かではありませんが、航空関連の会社にて定年まで勤め、退職後は主婦として暮らされています。
- 吉崎博子さん
長女と共に奇跡的に助かった吉崎さんですが、ご主人、長男、次女と、大切な家族を失いました。直後は骨折等重症を負いましたが、回復されて後に東京で長女の美紀子さんと共に暮らしています。
- 吉崎美紀子さん
母親である博子さんと共に無事でしたが、母親と同様に重症を負いました。その傷の影響もあり、学校で心無いいじめや嫌がらせを受けてしまいます。心の傷は癒えません。現在に至るまで乗る事ができないとの事で、心に負った大きな傷や苦しみがあります。
安全に空の旅を楽しむ為には
もし万が一、JAL123のように危機的状態に遭遇してしまった場合、生き延びる為にはどのように気を付ければよいのかいくつかポイントをご紹介していきます。尚、基本中の基本ですが、フライトの際に必ず行われる乗務員による脱出方法等の説明は自分の身に起きたら、と考えて頭の中でシミュレーションしながら説明を聞きましょう。
他人を助けることももちろん大切ですが、まずは自分の身の安全が第一です。スムーズに対応できるようにしましょう。
座席の場所
先ほども解説してきたように、今回JAL123事故で4名が無事だった理由として『座っていた場所』がポイントでした。後方に座る事で40%も助かる確率がアップすると言われており、特に最後尾の真ん中が一番生存できる確率が高くなります。その為、ファーストクラスよりもエコノミークラスの方が必然的に助かる確率が上がります。快適さを選ぶよりも出来るだけ自分の命を守る方を選択したいものです。
席を予約する際には座席の場所を意識しましょう。
服装はおしゃれより体を守るものを
旅行中はおしゃれをしたい!と思う方も多いかと思います。ですが薄着をしていると皮膚に怪我や火傷を負ってしまいます。肌はあまり露出させず長袖、長ズボンを基本に、寒冷地へ赴く際には少し厚めのジャケットを膝にかけておくと安心です。できるだけ衣服で身を守りましょう。素材はコットン、ウールが燃えにくいためおススメです。
靴はもちろんヒールやサンダルではなく、足を怪我から守ってくれる靴を履きましょう。
自分の席は脱出口から何列目か
自分から近い脱出口はどこか一番最初に確認するのはもちろんですが、『そこが自分の席から何列目にあるのか』を把握しておくことも重要です。非常時にたくさんの人が混乱して通路がいっぱいいっぱいになったり、煙が充満して視界が悪い場合もあります。座席から手探りでも脱出口へ辿りつけるようにしておくと安心です。
シートベルトは腰骨のあたりで締める!
ただシートベルトをすればいい訳ではありません。腰骨の低い所でしっかりしめる事が重要です。ポイントは腰骨の上あたりが丁度ベルトの上と同じラインにさせる事です。そうすることでしっかりと上体を支えることができます。おなかで締めてしまうと内臓を圧迫します。席を立つ以外は寝る時もしっかり締めておきましょう。
まさかと思うかもしれませんが、いざとなると外し方がわからなくなる方もいます。冷静に外せるように確認しましょう。
衣服等で口元を覆う
亡くなってしまう人の多くは煙や炎によるもので、煙を吸い込むことによる一酸化炭素中毒によって亡くなってしまいます。目に見えない有毒ガスや火災による煙が蔓延してしまいます。吸い込んで気を失ってしまわないように、できるだけ低姿勢で口元を衣服等で覆い、指示をよく聞いて脱出しましょう。口元を覆う際は濡れている布であれば尚良いです。