JAL123墜落事故の真相を徹底解説!生存者4人が生き残れた理由とは?

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JAL123の墜落の10分前、機長や航空機関士らは落ち着き、互いに励まし合っていました。8分前には速度も落ちてしまい、警報装置も鳴り始めました。何度も機首の上げ下げが行われます。速度が不安定に変化しはじめ、速度に関しての指示等のやりとりが頻繁に行われました。

墜落直前、「PULL UP」と、機体の上昇を促す警告音が鳴りました。同時に「あー、駄目だ」と叫び声が残されていました。以降、音声は途切れてしまいました。

JAL123墜落事故の墜落事故現場の悲惨な状況

焼け焦げた木々や、周りに散らばった幼い子供の帽子、靴等ネット上でも目を覆ってしまう程の悲惨な現場の写真も公開されました。ひとりひとり、脈があるかどうかを触って確かめられました。現在では当たり前となったDNA鑑定は当時にはまだなく、身元不明者が多かったです。

せめて体の一部であっても誰のものなのか判明してほしいという願いも叶わない遺族の方も多かったです。

JAL123墜落で最終的に生き残ったのは僅か4人

当時12歳で北海道からの旅行帰りで大阪の親戚の家へ寄ろうとキャンセル待ちをし、乗る事ができた川上さん、乗務員として勤めていて当日は休みで私用の為利用していた落合さん、家族5人で兵庫から東京の実家へ帰省し、東京へ戻ろうとしていた吉崎さん親子、と助かったのがこちらの4名のみで、重症の状態で現場で一夜を明かしました。

無事に生き残った4名のその後は?

Free-Photos / Pixabay

奇跡的に生きて帰ることができた4名ですが、嬉しいことばかりではありませんでした。トラウマを抱え、家族を失った悲しみや心の傷は一生癒える事はありません。心無い嫌がらせを受けたり、むしろ被害者なのに恨まれたり、ストーカーされたり、ということもしばらく続き、精神的に追い詰められてしまったと言われています。

それでも耐え続け、辛い過去を背負いながら生きています。

JAL123墜落当初はまだ大勢の生存者がいた?

救助に至るまで大幅に時間がかかってしまいました。地上では現場の場所が誤って伝えられた点や夜間の時間で、翌日の早朝にJAL123の発見、4名の生存者は翌朝11時に救助隊によって発見されました。証言では直後はまだうめき声が多く聞こえる家族や他の乗客もいましたが、時間が経過するにつれて声も聞こえなくなり、亡くなってしまいました。

少しでも早く、当日の夜に対処できればもっと多くの命が助かったはずです。様々な要因から遅れた事に対し、やり場のない怒りがこみ上げます。これが昼間だったら、早く助けられたのに、と誰もが「たられば」と口にしました。

JAL123墜落現場の生々しい現場

JAL123の機体は原形をとどめずバラバラになってしまい、散乱していました。焼け焦げた匂いや油の匂い等、白い煙が漂っていました。その中で520名もの遺体はほとんどが手や足の一部、といったように人体の一部が辺りにありました。遺品も散乱していました。

JAL123墜落事故の現場では多くの作業者が不調をきたした

辺り一面に焼け焦げた匂いや散らばった体の一部とみられる遺体等、写真でも公開されていますが見るだけでも辛い中で、何時間も続いた救助活動等にあたった人たちもまた、現場の言葉を失ってしまう様な状況に慣れる訳もありません。精神的にダメージを受け、心身ともに不調をきたす作業員が多かったと言われています。

JAL123墜落事故の遺族の遺体検証もまさに地獄絵図状態

体の一部が誰のものなのか、損傷が激しく身元特定に時間がかかりました。真夏の時期でもあり、暑い状況の中で腐敗が進む状態でした。

このJAL123で3人の大事な娘さんを失ったご両親が目の当たりにした検証の際の辛い経験もメディアに公開されています。

「あんなの人間の遺体やない!」叫び声も

geralt / Pixabay

全ての遺体は体育館へと運ばれました。亡くなった3人の娘さんのご両親である田淵ご夫妻は、娘さんとは到底思えない程の姿を見た時、「人間の遺体というよりは炭のようだった」と話されています。館内にこもる臭いも感じず、このときは涙も出なかった状態でした。娘さん達は燃料タンクの近くの座席に座っていたとのことで、火災により特に損傷が激しい状態でした。

せめて自分の家族だ、と認識できる状態であってほしい、そのような願いが叶った遺族は少なかったと言います。

安置所となった体育館

遺体が運ばれた当時の藤岡市民体育館は取り壊され現在は跡地となっています。多くの遺族たちが涙を流し、怒り狂い、地獄の状態だったと言われています。思わず目を覆ってしまう光景です。関係者たちは何度洗っても取れない臭いは自分では気付かなくても周囲の人は異臭に気付いた程で人が集まる公共機関も利用できなかったそうです。

JAL123墜落事故直前に書かれた遺書

皆取り乱さずに冷静に落ち着いて備えていました。その間に大事な家族にせめてもの思い出一言を残そうと遺書を書く人たちも多くいました。後に見つかった手帳や紙切に記された字は震え、殴り書きの筆跡でとにかく言葉を残そうと、思いが字から痛いくらいに伝わってきます。メッセージを書く彼らの姿を想像するだけで心が痛みます。

死を覚悟した人々の懸命な「生きた証」

自分がこれから死んでしまうかもしれないと思った時、冷静に受け止め覚悟を決めるのは簡単にはできません。どうにかして生きたい、パニックになってもおかしくありません。しかしその中で大切な自分の家族に向けて残された短い時間に生きた証としてメッセージを残していました。

JAL123墜落事故で生存した4人が生還できた理由とは?

Engin_Akyurt / Pixabay

4名の奇跡的に生きて帰ってこられた理由は座っていた場所の条件として2つあります。助かったとはいえ、それでも骨折をし重症な状態でヘリで病院へ搬送されました。助かったという事だけでもとても奇跡です。なぜ4名は助かったのかその訳について詳しく解説していきます。

JAL123墜落事故で生存できた理由①機体の後方部にいた

機体は前方と後方で折れ離れてしまいました。前方部分と違い、後方は木々がクッションになりながら落下するスピードを緩やかにしたために衝撃が少なく済んだと言われています。

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