後の調査でJAL123事故はボーイング社による修理のミスによるものがこれほど大きな悲劇を起こす原因となったことが判明しました。しっかりした処置を行っていれば、多くの命を犠牲にすることはありませんでした。
JAL123が墜落した原因は伊丹空港しりもち事故の修理ミス?
JAL123機は実は1978年にしりもち事故を起こしていました。その際に不適切な修理を行っていた事が最大の原因です。
羽田発、伊丹着の飛行から着陸する際に機体の後方の腹を滑走路に接触させて着陸していまいました。圧力隔壁と呼ばれる機内に一定の圧力をかけるための隔壁がダメージを受け、交換修理の際に強度が不足していたために今回のJAL123の飛行に影響し、尾翼等の破損に繋がってしまいました。
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JAL123墜落事故には意外な真実があった可能性
実はJAL123事故の原因が解明されるとともに噂や謎が深まっています。先ほど解説したJAL123事故は修理ミスが原因ではない、とも言われています。様々なささやかれている噂について解説していきます。どれが有力な説なのか、正しいのかは判明されていません。どちらにせよ、もし事実であればとんでもない話です。事故ではなく事件だ、とも言われています。
JAL123墜落事故の真相?①救助が遅延したのはわざと?
救助が始まったのは翌朝13日の8時30分でした。要請がなされたのは12日の20時33分です。その後すぐに救難ヘリにより捜索されましたが、ヘリに夜間救助を行える装備が備わっていなかった為夜間捜査は取りやめられました。体に害のある放射性物質も検出されていた為待機の指示もありました。
また、ヘリによる地上との連携がうまく取れなかった点と、間違った情報が錯綜し、結果として救助開始までかなりの時間を要したことから、「捜索が遅れたのはわざとでは」と噂が広がる事になりました。
JAL123墜落事故の真相?②軍事演習の被害にあった?!
実は自衛隊や米軍の演習で使用していたと思われる何かの飛行物体が衝突したのではないかといった説もあります。自衛隊は訓練の為オレンジ色の標的機を飛ばしていたといいます。その後衝突しました。あるはずのないオレンジ色の物体が現場で発見されています。更に標的機の残骸の回収の為救助が遅れた、とも言われています。
また、「付近にぴったりと自衛隊機がついていた」と地上からの目撃情報や写真も公開されています。理由については今も尚判明していません。
1971年、岩手県にて全日空の旅客機と自衛隊の戦闘機が接触し、162名の方が亡くなりました。被害の状況についてこちらで解説しています。
JAL123墜落事故の真相?③黒幕は中曽根元総理?!
事故当時の首相であった中曽根元総理は、真相は「墓場までもっていく」と発言しています。知られたくない真相は何なのか様々な憶測が飛び交いました。中曽根元総理は昔から言い伝えのある種族、『出雲族』であったと言われています。この一族が崇拝するスサノオと呼ばれる神様的な存在の祖先であるのが『国常立尊』です。
国常立尊が蘇る
この国常立尊(くにのとこたちのかみ)は何千年も前に殺されたと言われています。昔からこの祖先を蘇らせる為に崇拝している人たちは520体の石仏を偶然にも後の墜落現場である場所に集めていました。蘇らせるには520名の魂が必要とされていて、当時の首相の陰謀によって520名を犠牲にし、蘇らせたと言われています。
犠牲になった人数とあまりにもつじつまが合うため、首相によって多くの人々が殺されたとも言われています。もし事実であれば許される訳がありません。
JAL123墜落事故の真相?④財界の大物4人の暗殺?!
実は20数年に及び、現場の機体の残骸等を収集し研究を続けたところ、米軍が使用しているプロペラ機の着陸装置やミサイル、航空機等の残骸も見つかったことが判明しています。当時、アメリカは日本に対し、円高を申し込んでいたとのことです。しかしこの要望に対して日本の財界が猛反対しました。この円高の合意に迫る為の脅迫手段として仕掛けたとの説も有力とされています。
JAL123墜落事故の真相?⑤実は秘密裏に核を輸送していた?!
米軍のプロペラ機やミサイル等が見つかった件については、もう一つ噂されている事があります。それが『核』の輸送です。秘密裏に核を製造し、大阪から国内へ航空機で運送しようとしていたと言われていて、アメリカは日本が核を内緒で製造している噂と、運送する情報を聞きつけて該当の航空機を追っていました。
日本で核を製造していたことが知られると惨事です。自衛隊により航空機を助けようと誘導して見せかけたところで米軍機と多くの人々を乗せている航空機も合わせて撃墜し、核の運送自体の証拠を隠滅したと言われています。
JAL123墜落事故には多くの著名人も搭乗していた
亡くなった方の中には多くの有名な方々もいました。「まさかあの人が・・・」と大きな悲しみに包まれました。それまでテレビに出演していたのに突然亡くなった悲しみは計り知れません。
JAL123墜落事故で亡くなった著名人①坂本九
歌手で、現代の若者も一度は聞いた事がある「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」等、有名な曲を世に出しました。当時、元マネージャーの選挙応援として大阪へ向かっていたといいます。せっかくの才能が失われました。
JAL123墜落事故で亡くなった著名人②中埜肇
実業家で阪神タイガース球団の社長であり、阪神電鉄の専務取締役鉄道事業本部長でした。当日、18時のANA便で大阪へ向かう予定でしたが、何かしらの事情でJAL便へ変更して搭乗したとのことです。
JAL123墜落事故で亡くなった著名人③浦上郁夫
ハウス食品の代表取締役社長でした。当時グリコ森永事件と呼ばれる、阪神のグリコの社長を誘拐、身代金を要求した事件をきっかけに食品会社に対する脅迫事件が立て続けに起きていました。その食品会社のひとつに含まれ、脅迫されていたとのことです。この事件が終息を迎えた際に、大阪の亡くなった父に報告する為に向かおうと搭乗していました。
JAL123墜落事故で亡くなった著名人④北原遥子
元宝塚歌劇団の雪組の娘役として活躍されていました。実家がある横浜へ帰省していて、大阪の友人に会うために飛行機に搭乗していました。残された友人の気持ちを考えるだけでも辛いです。
JAL123墜落事故で亡くなった著名人⑤竹下元章
元広島カープ捕手です。高2の息子が群馬代表として甲子園出場するため、応援に駆け付けようと飛行機に搭乗していました。息子さんの気持ちを考えるだけで心が痛みます。
飛行機で墜落事故に遭う確率
飛行機は便利な交通手段です。空の旅が好きな方も多いです。しかし事故に巻き込まれてしまう事も、今回のように実際に起きてしまっていることも事実です。飛行機が苦手な方は気にするかもしれませんが、頻繁に利用していたり、気にされない方は「まさか私がそんな滅多にない事故に合うなんて」と考えることは少ないです。
飛行機での死亡事故に遭遇する確率は0.0009%
飛行機に乗って死亡するかもしれない確率は0.0009%と言われています。極めて低い確率なだけあって、心配したり考えることも少ないのも納得です。身近な乗り物ですと、車での交通事故によって亡くなる確率の方がよっぽど高いです。
1986年以降は0件
JAL123の事故発生以降、日本での事故は0件です。もう二度と悲劇を起こさない、という誓いももちろん、安全面は流れる時代と共により性能も高くなりリスクもそれだけ減ってきています。そのため今日では多くの人々が安心して旅行や出張など、さまざまな目的で飛行機を利用しています。
JAL123にはあの大物有名人も搭乗する予定だった!
実は他にも有名人がJAL123へ搭乗する予定でしたが幸いにも被害に合わなかった方もいます。生きて帰ってこられた4名もそうですが、こちらも味奇跡的です。このJAL123ではほぼ満席でしたが乗り遅れて乗る事ができなかった為に助かった人もいます。
JAL123に登場予定だった明石家さんまら
今ではテレビで見ない日はない明石家さんまさんや怪談話で有名な稲川淳二さん、当時人気アナウンサーだった逸見政孝さんもJAL123へ搭乗予定でした。
明石家さんま
当時人気テレビ番組で誰もが知る「オレたちひょうきん族」の番組収録後にJAL123に搭乗する予定でしたが、早く終わった為に一つ前の便に搭乗し、JAL123事故から難を逃れました。
稲川淳二
健康番組収録後に搭乗予定でしたが、体調が悪く翌日に新幹線で帰りました。一方で番組を手伝う稲川さんの友人であった美容研究をされている方は収録後に大阪に用事がある為に別の便に搭乗する予定でしたが、早く空港に到着してしまいJAL123事故の犠牲になりました。
逸見政孝
家族で大阪へ帰る予定でしたが、息子さんの「新幹線が安い」の一言と、奥さんが飛行機が苦手な為、新幹線で帰る事になりました。その8年後、48歳の若さでがんの為亡くなりました。
JAL123墜落事件以後明石家さんまに心境の変化が?
JAL123はよく移動の際に利用していることもあって、ショックを受けたと言います。JAL123事故が起こって以来、東京から大阪間の移動は新幹線を利用されています。よく耳にする座右の銘「生きているだけで丸儲け」という有名な言葉もこの経験が元となっています。この言葉を短くして名前にしたのが、娘であるIMALUさんの名前です。生きているからこそ意味があるのです。
今回のJAL123事故を恐れて、電車を利用する方が増えたとのことですが、電車でも事故が起こってしまう事もあります。国内で起きた脱線事故では多くの方が亡くなりました。尼崎脱線事故についてこちらで詳しく解説しています。
JAL123は庶民の足を飛躍的に伸ばした機体
多くの犠牲者を出してしまったJAL123事故ですが、この機体は以前より多くの人々の空の旅の足となって活躍してきました。当時はいつもこのJAL123便をよく利用していたという方も多くいました。その為、事故が起きた際、とてもショックを受けた方が多かったです。
JAL123は庶民にとって画期的な飛行機
より多くの人達を乗せて飛ぶことができる飛行機としては初となる画期的な飛行機でした。それまでは遠方へ行くにしても地上で移動時間が大幅にかかってしまっていましたが、この飛行機が誕生したことにより、移動時間も短く、一般庶民にとって気軽に遠い場所に旅をすることができるようになりました。
ジャンボジェットの愛称で多くの人に親しまれる
ジャンボジェットは今や777シリーズも登場しています。JAL123は一番大きな超大型旅客機である747シリーズでしたが、現在は日本の航空会社から撤退しています。現在の日本で出回っているジャンボジェットとしては777シリーズが一番大きいです。トリプルセブンの愛称でも親しまれています。飛行機愛好家の間でも熱い人気があります。
政府専用機としても活躍
長い運航実績で安全性を証明している事から777シリーズの受注も多く、日本の政府専用機として2019年の4月にはこの777シリーズを2機運用開始となり、話題になりました。お墨付きとして活躍しています。
JAL123墜落事故以後の各界で様々な動きが見られる
JAL123事故後の問題点など、二度とこのような事が起こらない様に、様々な対策がとられ、このJAL123事故の教訓から活かされてきています。
JAL123墜落事故の影響①安全啓発センターを設置
大きな事故を決して忘れないように、風化させないようにとJALは安全啓発センターを2006年4月24日に設置しました。資料室・展示室からなり、JAL123の残存機体や遺品、遺書や事故現場の写真等が展示されています。一般の方でも見学が可能です。
JAL123墜落事故の影響②遺族会の設立
JAL123事故で大事な家族を亡くしてしまった遺族が集まり、『8.12連絡会』と呼ばれる遺族会を設立させました。遺族たちによる航空安全の推進活動や、JAL123事故関係者であるJALを含め、社会へ訴えかける等の活動を行っています。風化させない為に活動されています。
JAL123墜落事故の影響③自衛隊の装備の大幅更新
事故当日の夜間にも空からの捜索が行われていましたが、当時の自衛隊装備が不十分であったことから無念にも翌日となってしまった事から、大幅に装備を更新させ改善しました。夜間時の暗闇でも発見することが可能な赤外線可視装置がついたヘリが配備されることになりました。
JAL123墜落事故の影響④追悼施設の設置
翌年には現場に御巣鷹山慰霊碑と呼ばれる慰霊碑が設置されました。毎年8月12日には慰霊登山が行われています。2006年には遺族が高齢になっている事から、慰霊登山する際の体への負担を考慮し近くの工事用道路が一般開放され、現場までの距離を大幅に短縮させたと言われています。
JAL123墜落事故後、当時の機長の娘はJALの客室乗務員に
JAL123事故によって機長である父を亡くしてしまった娘さんである高濱洋子さんは後に客室乗務員として勤められました。彼女を支えているのは事故時のレコーダーに残されていた機長の声と、コックピットに写っている機長の写真とのことです。「父が飛行機を守ってくれている」といった思いから持ち続けているそうです。
お父さんがJAL123機長として乗客の命を背負って空の仕事をしていたと同様に洋子さんもまた、乗務員としてお父さんと同じ様に空の仕事へ就いていました。
JAL123の事故は決して風化させてはならない
当時は画期的で最新鋭旅客機でした。今でも特集を組まれるほどの大きな事故です。時が経つにつれ、遺族の方も高齢になり語り継ぐ人々も少なくなってしまうことも事実です。しかし、語り継がれてきた人たちは更に後世へ伝え続ける事はできます。多くの尊い命が犠牲となり、悲しみで包まれたこのJAL123事故を忘れてはいけません。
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