小島一朗とは?新幹線殺傷事件の容疑者!
小島一朗とは、2018年6月9日の21時45分頃、東京から新大阪に向かう東海道新幹線のぞみ265号の車内で発生した、新幹線殺傷事件の犯人です。この事件で女性2名と男性1名が被害者となりました。
事件の凶悪さの一方で生い立ちや父親との確執が話題になりました。現在は公判待ちで拘留中となっています。
小島一朗が起こした新幹線殺傷事件とは?
新幹線殺傷事件は2018年に起こった事件なので、現在も記憶に新しい方も多いと思います。新幹線という逃げ場のない密室空間で怒ったこの事件は、いったいどういう経緯で起こったものなのでしょうか。順に追ってみましょう。
小島一朗が犯人の新幹線殺傷事件①2018年に東海道新幹線で発生
小島一朗被告は、のぞみ265号が新横浜駅を出発してからわずかに3分後の21時45分ごろに犯行に及びました。次に停車する名古屋駅までは約1時間近くもあり、「邪魔されずに目的を果たせると思った」と事情聴取で供述しています。
小島一朗が犯人の新幹線殺傷事件②乗客を鉈で切りつける
小島一朗被告は12号車後方の通路側に座っていました。犯行時刻、急に立ち上がって隣に座っていた女性に鉈を振り下ろしました。さらに通路を挟んで反対側の女性にも切りかかり、車内はパニック状態となりました。
小島一朗が犯人の新幹線殺傷事件③止めに入った会社員を殺害
その後、男性会社員が女性を助けようと間に入りますが、小島被告が男性に馬乗りになり男性の右頸動脈を裂傷。さらに隠し持っていたナイフで数十か所を刺し、男性は出血性ショックで死亡してしまいます。
小島一朗が犯人の新幹線殺傷事件④警察到着まで説得を続けた車掌
12号車の乗客が全員前方の11号車に避難したのち、車掌はトランクを盾にして小島一朗容疑者を約15分間説得し続けました。説得後、小島容疑者は刃物を下ろしましたが車掌と向かい合ったまま何も話さなかったそうです。
小島一朗が犯人の新幹線殺傷事件⑤緊急停止した車内で逮捕
小島一郎被告は被害者の男性に馬乗りになったまま、犯行から約20分後の22時4分ごろに緊急停車した小田原駅で待機していた警察官らに現行犯逮捕されました。以上が新幹線殺傷事件の時系列となっています。
小島一朗の事件の動機とは?身勝手すぎるその理由
さて、小島一朗はいったいどうして新幹線殺傷事件という残忍な犯行に及んでしまったのでしょうか。彼の動機は一体なんだったのでしょうか。
小島一朗の事件の動機①無期懲役になりたかった
小島一朗は、「自分で考えて生きるのがめんどうで、他人が決めたルール内で生きる方が楽だと思い、無期懲役を狙った」と供述しており、自分の人生を放棄するために他人を巻き込んだ故の犯行だったと見受けられます。
一方で死刑になることは恐れているようで、無期懲役になるために被害者を選定し、殺害も一人にとどめたのではないかという意見もあります。
小島一朗の事件の動機②むしゃくしゃしていた
「むしゃくしゃしていた、殺すのは誰でもよかった」と、被害者は無差別であったと推測できる供述もしています。
その他にも身勝手な言動ばかりの小島一朗
小島一朗の父親からは、「(小島一朗は)『この世は嫌だ』と『死にたいんだ』『俺は自由に生きたいんだ。それが無理なら死ぬんだ』とそういう話ばかりしていた」
「今年の1月に出て行った。『俺は旅に出る』『こんな所にいてもしょうがない』と言っていた」
との話がありました。
小島被告の犯行理由は大変自分勝手なものです。そして残念ながら、そういった犯罪は少なくありません。他にも身勝手な理由で行われた土浦連続殺傷事件についての記事もありますので、こちらもご覧ください。
小島一朗の事件後と現在の様子!裁判の判決は?
新幹線殺傷事件後の現在、小島一朗はどのような状況なのでしょうか。また、彼の事件後の様子と公判の状況についてまとめました。
小島一朗の事件後①逮捕後は精神鑑定にかけられる
小島一朗は逮捕されてからの1か月後である2018年7月から4か月間、鑑定留置期間そして拘留されました。現在は精神鑑定も終わり、刑事責任能力があると診断されました。
小島一朗の事件後②公判はまだ開かれず
事件から約1年たった2019年7月現在、まだ公判は開かれていません。小島被告は無期懲役を望んでいますが「死刑は嫌だ」と述べているらしく、どのような求刑を言い渡されるのか注目されています。
小島一朗は現在も独居房に拘留中
小島被告は現在も独居房に拘留されています。新幹線殺傷事件という大きなことを起こしたのに対して本人は自分の犯した罪の重さが現在も全く理解できていない模様です。
小島一朗は反省をしていない
小島一朗は「刑務所に入りたかった」「むしゃくしゃしていた」「誰でもよかった」と自分勝手な犯行動機ばかりですが、「自分に一切責任がない」とも供述しています。
自分の悲惨な境遇が今回の事件を引き起こしたと思っており、警察にもそう説明しているようです。自分の行動の全てが他人のせいと思っている様子で、被害者や遺族の方に対して謝罪の言葉はありません。
小島一朗は家族との面会を頑なに拒んでいる
事件後、家族である父親、母親と祖母が小田原署に面会に行きましたが、本人はドアを閉めて面会を拒否。さらには差し入れや手紙も受け取りを拒否し、現在も面会ができていない様子です。
小島一朗の生い立ちは?事件を起こすまでの足取りとは?
小島一朗は一貫して自分の境遇の悲惨さを説いていますが、彼をそこまで追い詰めたものとは一体なんだったのでしょうか。また、新幹線殺傷事件を起こすまでどのような足取りを取っていたのでしょうか。
小島一朗の生い立ち①1996年愛知県・一宮市に誕生
小島一朗は1996年に愛知県の一宮市で生まれました。家族は父親、母親、姉と父方の祖父母との6人暮らしで、母親は共産党員だったそうです。(現在はNPO職員)
小島一朗の生い立ち②中学時代に不登校となる
中学2年生のときに、「授業についていけない」と不登校になりました。また、この時期から家族、特に父親との関係が悪化し、15歳で別居してしまします。
小島一朗の生い立ち③自立支援施設に住みながら定時高校へ進学
自立支援施設で生活をしながら定時制高校へ進学。こちらでは約5年ほど生活したそうです。施設では率先して家事を手伝うなどをし、職員からの評判もよかったそうです。
小島一朗の生い立ち④職業訓練学校では成績優秀
定時制高校を卒業後、名古屋市内で1年ほど卒業訓練を受けています。職業訓練学校では成績優秀で、電気工事などの資格を取得しました。
小島一朗の生い立ち⑤就職し働き出すも退社
職業訓練を終えた19歳の時に、機械修理会社に就職。就職時には施設の年配の入所者から背広をプレゼントされたそうですが、職場では人間関係を理由に1年で退職してしまいます。
小島一朗の生い立ち⑥祖母達との同居生活が始まる
その後、一宮市に戻って一人暮らしを始めますが貯金が半年で尽きてしまい、岡崎市に住む母方の伯父と祖母と同居することになりました。同居は小島一朗本人の希望だったそうです。
小島一朗の生い立ち⑦家出を繰り返す
祖母と同居しても小島被告の生活は安定せず、「死にたい」と言って家出を繰り返しては警察に連れ戻されるということが続きました。
小島一朗の生い立ち⑧事件前「旅に出ます」と4度目の家出
ある日、祖母に「仕事を続けられない自分が恥ずかしい。旅に出ます」と告げ4度目の家出を決行します。祖母からは70万円入った口座のキャッシュカードをもらっていました。
小島一朗の生い立ち⑨事件直前までホームレス生活だった
祖母の口座からは毎月10万円ほど引き出されていましたがそれも尽き、事件の直前は長野県でホームレスのような生活をしていたそうです。
小島一朗と家族の複雑な関係とは?家族の現在も
小島一朗には家族との複雑な関係があった模様です。また、家族は現在どのような立場にいるのでしょうか。
小島一朗と家族①「死にたい、絶望だ」の発言が多かった
小島一朗は普段から「死にたい、絶望だ」「自由に生きたい。それができないなら死にたい」といった発言が多く、自殺願望があったようです。
小島一朗と家族②兄弟と差別されていた
小島一朗は、家族から実姉と自分は差別されていると感じていたようです。実際父親は小島一朗に対して厳しく、「姉のご飯は作ったるけど、一朗のは作らん」言って、実質的にネグレクトされていたと見受けられます。
姉には新品の水筒がプレゼントされたのに自分には中古の水筒だったときには、深夜に金づちをもって父親に襲い掛かったという話もあります。
小島一朗と家族③父親との親子関係は悪かった
父親の教育方針が「男は子供を谷底に突き落として育てるもんだ」という大変厳しいものだったため、小島一朗と父親との関係は中学のころからほぼ断絶状態でした。
父親は小島一朗に対してどこか他人的で、「現在は『元息子』という感覚。籍もなく家族ではない」と発言しており、名前を呼ぶときも「一朗くん」と距離がある感じです。
小島一朗と家族④母親は自分なりに愛情をかけていた
厳しい父親の一方で母親は母親なりに愛情をもって接していたようで、事件後は「私がどんなに一朗を思って行動していたか、恥ずかしくないです」と発言しています。
しかし母方の伯父からは「(小島一朗に)無関心で子育てに興味がない」とも思われており、愛情が小島一朗に届いていたかどうかは疑問が残ります。
小島一朗と家族⑤同居の伯父と度々衝突も
小島一朗は退職後に祖母と伯父と同居していましたが、伯父は「母(祖母)が死んだあとは面倒を見る気はない」「出ていけ」など乱暴な言葉を小島一朗に対して言っていたようです。
小島一朗と家族⑥両親は小島を放棄?祖父母と養子縁組へ
祖母と同居の際、小島一朗は父親母親の戸籍から外れて祖母の養子となっています。しかし家族会議は伯父抜きで行われ、大激怒したそうです。
この養子縁組は母親が提案したもので、本人も乗り気でした。父親は「一朗が真っ当に生きるために必要だった」と認識している模様です。