戸塚ヨットスクール事件とは?現在もヨットスクール継続中!
今回のメインテーマの水面下で暴力が及んだ『戸塚ヨットスクール事件』は、2019年『令和元年』現在から約40年ほど前の昭和後期に始まり、数年間にまでかけてに及んだ悲劇的な出来事。
お金を払って入門してスポーツを介して心と体を鍛えぬくような学びの庭の『塾』で、非常に行き過ぎた『指南』が行使されて、それは刑務所の処遇よりももっと酷い『体罰』なのです。
その処遇のせいでまだ未成年で子供の『受講者』たちが死に追いやられてしまった悲劇であり、センセーショナルな内容でしょう。徐々に解説。徹底的に考察。ピックアップしていきます。
戸塚ヨットスクール事件の概要と発覚まで
令和元年の現在でもずっと考え続けなくてはいけない我が国の現代社会、それを考えさせられる胸糞悪い『カタストロフィ』の様な出来事がどういった内容かこちらでまとめてご紹介していきます。
『悲劇』は数年間にわたって繰り広げられ、輝かしい将来が待っているはずだった未成年の男子たちが『命』を落とす事になった悲劇がいくつか起きています。
読者の皆さんにも『概要』を知っていただくためにも、なるべく分かり易く時系列ごとに解説していきます。いつ世間にあり得ない『実態』が明るみになったのかも考えながら読んでみていただけたら幸いです。
戸塚ヨットスクール事件①1976年に開校
2019年『令和元年』現在から40年ほど前の『昭和51年』に、創業者で、言いようでは『戸塚ヨットスクール事件』の『元凶』が学びの庭の塾が創業開始。
一番初めは元凶諸悪の根源『戸塚宏』という名字だけではなく名前まで、『学びの庭』の名称に含んだのです。日本だけにとどまらず世界に通用するようなエリートな競技者を生もうという、強い理念が掲げられた。
思えばその理念が後に世論のほとんどが強烈に批判するような、無茶苦茶な『体罰』に繋がったのでしょうか・・・?
戸塚ヨットスクール事件②1979年13歳の少年が死亡
1年後の『昭和52年』に前述の通り設立当初の理念が形を変えて、マスコミや世間からヤンキーな児童たちが『改心』『更生』すると称えられ、新たにあたらしい理念が掲げられた。
それは問題行動、非行、虐め等の対象にある『未成年児童』たちを徹底的な指導で『救う』テイで、大きく歯車が狂いだしていくことになった。
1人目の死者
始まりは2019年『令和元年』よりちょうど40年前の昭和54年。まだ小学6年か中学1年くらいの『未成年男児』が舞台の学びの庭にて命を落した。
どうして命を落したのか、原因は身体が冷え切ってしまったことによるもので、『戸塚ヨットスクール事件』が立件される事はありませんでした。
本当は1人目の『死者』となった若すぎる未成年男児も元凶かつ根源による、現代社会においては認められるわけないハードすぎる『体罰』のせいで心身共に衰弱している状況下も十分に考えられるでしょう。
戸塚ヨットスクール事件③1980年21歳の青年が死亡
続くようにしてその1年後の『昭和55年』に立件されて扱われている最初の『カタストロフィ』が起きてしまったのです。
命を落とす事になり他界した人物は、『学びの庭』に所属して1週間も経っていなかった受講生の1人、二十歳を超えた『男性』。なぜ彼は『戸塚ヨットスクール事件』の舞台で亡くなったのでしょう?
『死因』は驚くべきことに肉体的なダメージでした。つまり『元凶・諸悪の根源』を始めとする講師たちが及ぼした、惨烈な『体罰』という名目で何度も殴る蹴る等の激化した暴行で彼を痛み付けて死に追いやったのでしょう。
戸塚ヨットスクール事件④1982年15歳の少年2名が海へ飛び込む
更に悲劇が繰り返され犠牲者を生む事になりました。2年後の『昭和57年』には、驚くべき事に夢と希望に満ちた『未成年男児たち』2人が『死』に至らしめた。
責任者、元凶、根源の『戸塚宏』の発表によると授業中に『海』に飛び込んでしまい、そのまま消えてしまったらしい。
しかし何故消えてしまったのかも、飛び込んだのかも不明です。1つ推測するならば古い考えの『体罰』の惨烈な暴行によって、心身衰弱して『心中』のような行動に出てしまったとも考えられます。
戸塚ヨットスクール事件⑤1982年13歳の少年が死亡
まだ『戸塚ヨットスクール事件』に終止符が打たれたわけではなかったのです・・・。同年の『昭和57年』にまたしても、小学6年か中学1年くらいの『未成年男児』の命が奪われた。
『体罰』という名目のもと行使した殴る蹴る等の暴行を亡くなった未成年男児の遺体から悲痛な『実態』を露わにした。下記にどんな『傷跡』があったか記述して紹介します。
同じように『体罰』等が問題が起きた『日生学園高等学校』に興味のある方。気になる方はこちらを是非合わせて読んでみてください。
体罰と思しき痕跡
- アザの痕が多数
- 硬い歯が欠けていた(破損)
- いくつもの何かで殴られた『痕』
戸塚ヨットスクール事件⑥警察が事件捜査に乗り出す
『戸塚ヨットスクール事件』の舞台の学びの庭の塾でいけない対応、いけない指南の在り方だった『体罰』という名目のもと行使した暴行(殴る蹴る)で命が失った事態が明らかになる。
そうして日本国の対応した警官たちが慎重に捜査を進めていったそうです。
このとき強行して内部事情の調査や検挙に乗り出せなかったのは、当時の時代背景では、まだ昭和の古い間違った『指南』『指導』が普通だと世間が誤認して咎められなかった。と考えられなくはないですよね。
戸塚ヨットスクール事件⑦コーチの逮捕を機に実態を把握
警察がようやく捜査に乗り出したのは、あるエピソードが発端。それは舞台となった『学びの庭』の受講生ではなく、関係性の低い人物が被害者になったエピソード。
その人物とはバイクに乗りうるさい音を立てて迷惑走行する『暴走族』に所属するヤンキーでした。そんなヤンキーが『戸塚ヨットスクール事件』の舞台となった『学びの庭』の建物の前でたむろしてた。
それ気に食わなかったのか『指導』『体罰』と称してヤンキーに対して、複数の講師がエスカレートした暴行を振るったのです。(教育者たち全体がサディスト集団の可能性があるかもしれません)
ようやく戸塚ヨットスクール事件が立件
それにより加害者である講師たちが検挙したあと、『戸塚ヨットスクール事件』の舞台となった学びの庭の化けの皮が剝がれて、悪事が世間に明るみになっていきました。
戸塚ヨットスクール事件⑧ついに校長など関係者逮捕へ
『戸塚ヨットスクール事件』を引き起こした『張本人』全ての元凶と言っても言い過ぎじゃない、創業者、経営者等、舞台となった学びの庭の講師たちが次々と検挙。
犠牲となったあまりにも若すぎる年ごろで命を奪われてしまった、可能性に満ち溢れた若い未成年男児たちも、少しは念が晴れたのではずでしょう。深くお悔やみ申し上げます。
戸塚ヨットスクール事件の裁判と判決
さて当時もマスメディアや世間から関心が集まった、気になる『法廷』どのような結末を迎えたのでしょうか?
当然受講者たちの命が奪われて、死に追いやっているの所業を犯したので、重い罰が下されるのを遺族も世間も祈っていました。
こちらでは『戸塚ヨットスクール事件』を引き起こした張本人であり、全ての元凶である『戸塚宏』らがどのような刑罰に処されることになったのか、などについて解説していきます。
戸塚ヨットスクール事件裁判と判決①戸塚宏ら傷害致死罪へ
『平成4年』に初めの審判、いわゆる『第一審』が法廷にて開かれた。
『戸塚ヨットスクール事件』に関与した元凶などの犯罪者集団、講師たちに思い罪が下されるのが確定。
そして刑罰が処されることが確定して、このとき『執行猶予』が長期間設けられた。(これは留置期間が長かったことを考慮したためです)
戸塚ヨットスクール事件裁判と判決②控訴するも実刑判決
元凶及び犯人の『戸塚宏』をなどの犯罪者の講師たちが上記の判決結果に納得がいかず、もう一度裁判を執り行うように訴えました。そのため最終的な結果は次に持ち越された。
そして開かれた次の審判のその時の『裁判官』がその理論、体罰、暴行などをその強烈を否定して刑が『加重』されて処罰が決定したのですが、ここでも不服な態度を見せました。
戸塚ヨットスクール事件裁判と判決③上告も棄却される
加重されてより刑が重くなった事に対して更に納得がいかなかった検挙された講師たちの被告は、もう一度審判を執り行うように。その旨を申し立てました。
しかしそれ『最高裁』の裁判官は2回目の裁判にて決まった『処罰』最終的な結果に同意して、その申し立てを認めず処罰が確定。
『戸塚ヨットスクール事件』の元凶は5年以上の服役が確定、他の講師たちは、1年未満から3年の懲役刑がそれぞれが確定し執行された。
戸塚ヨットスクール事件裁判と判決④遺族へ支払命令
更に『戸塚ヨットスクール事件』の犠牲者となってしまって命を奪われてしまった、当時まだ若い少年の遺族の『母親』が4000万円以上の損害賠償を求めて、『審判』を起こしました。
当然ながら遺族の母親が『勝訴』して3000万円ほどを支払うようにの首謀者の元凶ら(講師たち)に命じられました。
こうしてすべての『法廷』が完了しましたが、初めの法廷から最後に開かれた法廷までの期間は19年にもわたったのです。
戸塚ヨットスクール事件のその後!戸塚宏復帰へ
今回の記事でクローズアップしている『戸塚ヨットスクール事件』は約4年にも悲劇が続き、水面下で所業が及んだ、ようやく事態が明るみになり容疑者たちが検挙され審判にて処罰が決定した。
こうして『戸塚ヨットスクール事件』は『無事解決』したかに見えますが、実はまだ続きがあったのです。どういうことなのでしょうか?
ここからは法廷から2019年(令和元年)今に至るまでについて解説していきます。
戸塚ヨットスクール事件のその後①スクールは運営を継続
実は『戸塚ヨットスクール事件』の元凶の創業者および校長、講師らが検挙されてどこかの刑務所に服役されている間も、舞台となった学びの庭である塾はそのまま他の人たちが運営を継続してたらしいです。
その間には『戸塚ヨットスクール事件』と同じ『カタストロフィ』になるような、受講生たち未成年男児たちが命を落とすといった悲劇は起きていなかったようです。
ということは学びの庭自体ではなく、まずい対応、現代社会においては許されるはずない『所業』を行った『戸塚ヨットスクール事件』の元凶らがやはり悪い存在だったのか・・・?
戸塚ヨットスクール事件のその後②戸塚宏が帰ってきた
上記でお話しした通り暫くの間『戸塚ヨットスクール事件』の舞台となった学びの庭ではニュースになるような出来事、不祥事などは一切なく本来のあるべき姿で運営されていました。
しかしある日を境にまたあの『悲劇』を生み出してしまうような施設に変貌してしまったのです。その日とは2019年(令和元年)より13年前の『平成18年』の6月のことでした。
その日、あの輝かしい未来が待っているはずだった未成年男児を死に追いやった『戸塚ヨットスクール事件』の元凶の創業者が服役を終えて、釈放されて『帰ってきた』のです。
もちろんシャバの世界に再び帰ってきたという意味でもありますが『戸塚ヨットスクール事件』の舞台となった学びの庭にも帰ってきたのです。
そうなんです。彼は再びハードでヘビーな行き過ぎた『指導者』として舞い戻ってきたのです。もちろん喜ぶ声も賛同する声も少なく、批判する声や反対する意見の方が多かったでしょう。
ですが彼はそもそも創業者で『オーナー』であるので、その全ての実権を握っているといっても過言ではない存在なので、このような結果になっても致し方ないでしょう。
戸塚ヨットスクール事件後も「死亡事故」が絶えない
水面下で凄惨な所業が及んでいて、受講者で未成年男児の命が奪われた、残酷なありさまとなった『戸塚ヨットスクール事件』は解決の『兆し』を見せたはずでした。
しかし服役を終えて釈放された元凶の彼が、舞台となる『学びの庭』にハードでヘビーな行き過ぎた最高指導者として再び君臨したのです。
それからは多くの人たちの『不安』が的中するように、またも受講者である若い未成年者たちが命を落としていくことになるのです。彼が戻ってから2019年今より凄惨な出来事を時系列ごとにまとめます。
戸塚ヨットスクール①2006年訓練生の水死体で発見
2019年(令和元年)現在から13年前の『平成18年』つまり『戸塚ヨットスクール事件』の元凶であり根源である、行き過ぎた指導者の彼が服役を終えて舞い戻ってきた同年に早速『事』が起きたのです。
舞台となった学びの庭の当時の受講生であった、20代半ばの男性が突如いなくなってしまいました。
後日、中部地方に位置する愛知県の南部に存在する『湖』にて遺体となって発見されたのです。亡くなってしまった20代半ばの男性には『精神疾患』があったらしく、『心中』したと考えられます。
影響はあったのか?
受講する前から『精神疾患』を抱えのていたのか、それとも受講した後で精神的苦痛を感じて患ってしまったのか定かではない。
後者であれば『戸塚ヨットスクール事件』を彷彿させる『カタストロフィ』が繰り返されたと言えるのではないでしょうか?
戸塚ヨットスクール②2009年訓練生が飛び降り自殺?
更にその3年後の『平成21年』にも、『戸塚ヨットスクール事件』の悲劇が繰り返されることになってしまいました。
当時受講生であった『女性』が学びの庭の施設の『3F』から、窓かバルコニーから身を投げ出して『心中』してしまったのです。
亡くなってしまった女性がなぜ心中を図ったのか、どんな心境であり、何に悩んでいたかは判明しておらず語られることはありませんが、もしかするとまたまずい対応である『教育』のせいかもしれません・・・。
戸塚ヨットスクール③2011年訓練生が飛び降り自殺?
そしてその2年後の『平成23年』に当時受講生であった『男性』が、心中した女性の後を追うように、『戸塚ヨットスクール事件』の舞台となった施設の3Fから身を投げ出して心中を図ったのです。
幸いにも一命を取り戻して『未遂』でとどまりましたが、またも『戸塚ヨットスクール事件』が続いているかのような悲劇が繰り返されてしまったのです。
また虐待か?
このような事態が相次ぎまた『虐待』のような教育、指導が行われているのでは?という疑惑が生まれてしまうのは無理ありません。