役だけでなく、自身の人生の経歴においても荒波を乗り越えていきました。
乙羽信子の夫・新藤兼人には出会ったころに妻がいた
交際をされていた当時は、まだ他の女性と婚姻関係にあり、しかも兼人氏は二子の父親でもありました。
俗に言う不倫にあたるので、今でもワイドショーなどでは大騒ぎになるような話なので、当時と言えど、お忍びで注意をしながらデートを重ねていたのかもしれません。
さらに新藤氏の交際が始まった時の妻はすでに二人目の妻でした。そして、その妻との結婚から3~4年後には乙羽信子と交際に至っています。
確かに、結婚して楽しいのは3年までとは言われますが、そんな倦怠期とは別に、乙羽信子さんには特別運命的に惹かれる者があったのでしょうか。
後程、その後の夫妻となってからの、状況についても迫っていきます。
乙羽信子は新藤兼人と出会って27年目、妻との死別と共に結婚
兼人氏は、頻繁に乙羽信子さんを自身の作品に起用していきました、その間も二人の男女としての関係はずっと続いていたようです。
つに72年には離婚をするのですが、子供のことが気になってか、乙羽信子さんは求婚に対して首を縦に振ることはなかったそうです。
しかし、それから6年後に自体が動き出しました。それは新藤さんの元妻が亡くなってしまったのです。
それを機に、夫65歳、妻53歳という晩婚となりました。最初の出会いからなんと、30年にも差し掛かるような年月を得てついに結ばれました。
前の妻の子供達からは
実は結婚に踏み切ったのは、新藤さんの子らの影響がかなり大きかったと言われています。
ある日、兼人氏とその子供たちと、乙羽信子さんで食事になった時があったのですが、その時に子供たちが二人の結婚について後押ししてきたそうです。
子供を理由にプロポーズを断り続けた乙羽信子さんからしたら、子供にまで迎えられているという状況になっているので、決意をせざるを得なかったのかもしれません。
乙羽信子は結婚後も別居していた?
実は結婚後に二人のライフスタイルが急変するということはありませんでした。式をあげることもなく、結婚したからと言って一緒に住むという流れにもなれませんでした。
二人とも表現者もしくは創作者としての環境づくりなのか、兼人氏は逗子で、信子さんは渋谷で住むという、はたから見たら不思議な関係になっていました。
大多数の人からしたら、想像しがたい、特別な絆で結ばれていたのかもしれません。
乙羽信子の血のつながらない息子は近代映画協会の新藤次郎
すでに50代に入っていたからか、入籍をしても子供産むことはしなかったようです。
もしくは、高齢出産の懸念以前にどちらにしても、子を作ることは、何らかの考えのもと想定には入っていなかった可能性もあります。
乙羽信子さんは、前妻の子である次郎さんを自身の子のように育てたそうです。それが、母役の芝居のリアリティに拍車をかけていたのかもしれません。
月日が流れてから、「近代映画協会」の事業は、息子である次郎氏に引き継がれ存続をしているそうです。
新藤次郎の娘も映画監督に
ぎんこさんという娘さんがいるそうですが、詳しいことはわかっていません。
ただ、「転がれ!たま子」で脚本をかいているのが、「しんどうぎんこ」という方で、新藤兼人さんの娘なのではないかと囁かれています。
しかも、次郎さんの息子にあたる「風さん」が監督をしているので、なんらかの関りのあることは非常に濃厚のように見受けられます。
乙羽信子の夫、新藤兼人は2012年に100歳で老衰で亡くなった
2012年になんと百歳というとても長生きをして、お亡くなりになられました。葬儀には錚々たる面々が参列し、兼人さんの凄さを物語っているようでした。
日本政府は、多大なる業績に対して、従三位に追叙という閣議決定まで行いました。国まで関係してくるほど、映画業界の傑物だということを改め世の中の人々は認識させられました。
乙羽信子さんのように死の際まで、映画に従事していたという、生粋の人物だったというエピソードを一つご紹介します。
寝たきりの状態で身体もままならなくなってしまっても、舞台を夢の中に移し、そこでシナリオを思い描いて、演出に精を出していたと言われています。
新藤兼人の自伝「ながい二人の道 乙羽信子とともに」
東京新聞の出版局から出されたもので、新藤氏の頭の中で描いていたことや考えていたことが詰まった、至極の一冊となっております。
数々の名作に関するエピソードを交えながら、乙羽信子さんとともに歩んだ道のりについて書かれていて、改めて人生とは何かを考えさせられるようなおすすめの書籍です。
乙羽信子の最後の活動は?死因は肝臓がんだった?
実は、死因になった癌になってからも撮影を続けていたそうです。まさに、強固な役者魂を持った方だったと言えます。実際に、どの映画の撮影時のことだったのでしょうか。
果たしてどのような最期を迎えたのでしょうか。ここでは死因についてより詳しくご説明していきます。
乙羽信子は「三文役者」でがんを悟らせぬ演技を披露
時は平成になり、ドクターからは末期だと宣告を受けてしまいましたが、仕事を休むことはなかったそうです。
想像するだけで壮絶ですが、週に一度抗がん剤を用いながら、激しい痛みに耐えて、映像に携わっていました。
入院して仕事を辞めて床に伏しながら死を待つよりも、女優として最後の最後まで活動することを選びました。
身内にあたる人々と病院の関係者以外には、末期ということは知っている者はおりませんでした。そして、命を燃やしながら仕事に除む彼女をご家族は制止することはできませんでした。
「三文役者」の時も、病気による苦しさから出てしまうような表情は一切見せなかったため、共演した人や、この映画に携わる人には気づかれないままでした。
実際、この作品は後に公開となったのですが、観たものは乙羽信子さんが苦しみをおくびにも見せない演技に、驚愕と共に、涙した方までいたそうです。
乙羽信子は「午後の遺言状」完成直後に上映を待たずに亡くなった
映画が公開されたものを自身で触れることなく、穏やかに息をひそめて亡くなられたそうです。
若い時から芝居に殉じ、輝かしい経歴や功績を残した大女優は、死ぬ間際まで女優でありました。
そして、最後の映画を見届けることのないまま、女優として前のめりのまま亡くなるという生き方は、人々の心に何かを訴えかけるような生き様と言えます。
乙羽信子は死亡後に「日本アカデミー賞助演女優賞」を受賞
有名な画家たちと同じように、亡くなってからも賞を受けた女優として、世の人々には作品とともに永遠胸に刻まれていくのでしょう。
自身の生き方や最後の在り方まで自身をつらぬき、死因が肝臓がんで亡くなってから賞をもらったことさえも、きっと本望だったかもしれません。
乙羽信子の死因は肝臓がんによる肝硬変
日本でも肝硬変が死因になることが多いのはなぜなのでしょうか。
それは、沈黙の臓器と言われるため、痛みや症状が出にくい為、発見が遅れがちになるので、どうしても死因として多くなってしまうからです。
乙羽信子さんが、いつ異常を感じた不明ですが、女優街道をずっとつっ走ってきた彼女にとって、肝臓がんが発覚するのは難しかったのかもしれません。
さらに、映画を最優先していたため、治療がなかなかできなく悪化していき、それが死期を早めた死因でもあります。
乙羽信子の墓は京都市にある
肝臓がんが死因でこの世を去り遺体となりますが、大半は京都市にあるお墓に収められることになりました。
しかし、遺骨の一部はある場所に散骨されることになりました。その場所とは、いったいどこでしょうか。
乙羽信子の遺骨の半分は「裸の島」の宿祢島に散布された
代表的なものでもある「裸の島」と撮った場所である、広島県にある三原市の宿祢(すくね)島に、遺骨の半分は撒かれることになりました。
本人の希望を組んでか、ご遺族の気持ちから散骨されたのか定かではありませんが、きっと乙羽信子さんも安らいでいることでしょう。