免田事件は最悪の冤罪事件|死刑判決から再審無罪となった事件の結末と現在

全てが警察に有利になっていくような中、裁判で絶望が頭を過ることもあったはずです。裁判の行方は、どうなっていくのか、裏側で行われていたことも知る由もありません。

アリバイを主張するも退けられる

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少しだけ触れましたが、当時では配給は台帳に記されています。それと同様に、宿泊したとされる特殊飲食店でのことも記されているはずです。今でこそ売春宿とも呼ばれていますが、正直にそこにいたことを証言しています。免田事件にはアリバイを証言してくれる人がいますが、改ざんという揉み消しによって、主張した内容は退けられてしまうのです。

事前に誘導されていたこともあり、無罪を主張するもアリバイはないとされてしまいます。状況的に見て難しいのは警察側のようにも思われますが、当時の傾向では殺人犯には疑う余地はない遠いう方向でもあったのではないでしょうか。

一審で死刑判決が確定した

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自白の強要も密室のことであり、信憑性に乏しいということから退けられてしまいます。自白をしたからには犯人、という流れで裁判は進んでいき、血液型にも触れ違いを訴えるも、証拠のないままです。アリバイだけが主張できる点であり、自白した内容だけが全ての判決が下される状況にどんな思いでいたでしょうか。

自白の強要についても、任意であり強要ではないとされるのです。犯人は死刑が妥当という流れから、一審で死刑判決が確定してしまいます。強要された自白だけに論点が集中し、アリバイは退けられ、証拠には触れられないままでした。納得のいく裁判でなかったことは言うまでもありません。司法にまで裏切られたかのような判決を、受け入れることは到底できないでしょう。

再審請求するも5回棄却される

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免田事件は一審で死刑判決が出たものの、そのまま納得し受け入れられることではないことは明白です。納得のいく判決が下されないまま、長い年月が進みます。再審請求をしますが、5回にも及ぶ全てが棄却されてしまうのです。

自白によって受けた創傷については触れられない、証拠についても触れられないままであるにも関わらず、全てが認められない状況で何を思ったでしょうか。納得のいかない中、諦めるはずもなく真実を明らかにできる時を待ち続けていたことは明らかです。時だけが過ぎていき、絶望に陥ることもあったのではないでしょうか。

恩赦も免田さんには適用されず

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そこで更に問題が起こりますが、司法のあり方を疑うような内容でした。GHQと呼ばれる、連合国軍最高司令官総司令部の占領下で数名の恩赦が検討がされるも、結果的に意味のないことになります。司法はどこまで、追い詰めていくのか目に見えないところで働く何かがあったのでしょうか。

内閣が決め、天皇が認証するとされる恩赦すら受けられないのです。残されたのは、再び行おうとする弁護団による再審請求に委ねられます。数名に行われた恩赦が適用されなかったことも、納得のいくことではありません。

6度目で再審が行われ無罪となる

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時はあまりにも長く過ぎ、逮捕されたのは1949年のことで、34年以上の月日が流れ、1979年にようやく6度目で再審が行われることになりました。新たな証言が提示されようやく動き出したのですが、迷走していた警察の不審な点も挙げられたのです。そこに至るまでの年月の間に、証拠を処分した警察のやり方が仇となります。

訴え続けた無罪という言葉が、認められるのです。そこで安心してはいけないのが今後に関わってくるのですが、見事勝ち取った無罪判決は、やっとの思いで得た喜びだったのではないでしょうか。ただし、日本で初めて冤罪になった免田事件は、長い年月がかかり、大きく1人の人生が狂わされたことも間違いないのではないでしょうか。

免田事件で無罪となった後の免田さんは?

若い青年時代に逮捕され、途方もない長い年月が奪われました。全ては解決に向かったのでしょうか。自由になった身であることは確かですが、本当の生活を取り戻すのはこれからです。取り戻すことができないまでも、新たに前向きになる他ありません。

冤罪となった免田事件から34年という年月の間に、できなかったことは数多くあるでしょう。失った時間は帰ってきませんが、その後どのように過ごしていたのでしょうか。

無罪確定後に結婚した

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34年という年月の間に、できなかったことは多々あることは数知れずあるのではないでしょうか。全てを挙げていくときりがないほど、たくさん含まれていますが、中でも自由の身になりしたかったことの一つが結婚かもしれません。青年時代にできなかったことでもありますが、無罪確定後に11歳離れた女性と結婚しています。

結婚することができたことで、励みになったことも一つにあるでしょう。2人で細々と生活をしていたことが明らかになっています。生活という言葉は、待ちに待った時だったことではないでしょうか。

地元に帰るが居づらくなり転居

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一度は死刑判決まで至ったこともあり、結婚後に待っていたのは喜びだけではありません。免田事件に課せられた数々の隠蔽工作によって、その後の進展はありません。殺人事件自体の捜査が行われていないことが、警察の犯してしまった大きなミスでしょう。そのことで真犯人の特定がされていないことから、あってはならない噂はついて回るのです。

賠償金をもらったこともあり、地元に帰るものの、その場に止まることはできないことになります。その場に居づらくなって、転居を余儀なくされてしまうのです。噂に中で耐えることより、別の市に引っ越し妻を守ることを優先した姿が見て取れるかも知れません。

毎日釣りをして暮らしている

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免田事件によってできなかったことが多すぎると、何から手をつけて良いか迷うこともあり得ます。34年の年月の間必死に戦ってきたこともあり、ゆっくりしたい気持ちがあったのではないでしょうか。生活は一気に平凡になり、待っていたかのように毎日のんびりしていたのです。後には有意義に毎日釣りをして日々を過ごしているとされています。

免田事件はのんびり、という言葉からかけ離れた年月だったため、まさに待っていた時間だったかもしれません。また何をしたら良いだろう、と思わせるほど年月が過ぎていたことも伺えるのではないでしょうか。ようやく落ち着いた生活を送れるようになりますが、簡単に終わりません。社会全体からの偏見は避けられないことも確かだからです。

現在は死刑制度の廃止を世界に訴える活動をしている

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自由の身になったとはいえ、それだけで全てが解決したわけではありません。このようなことが起こってはいけないことも、一つに言えるのではないでしょうか。免田事件を経て、フランスやニューヨークなどにも趣き死刑制度廃止の活動を、同じ考えを持つ人と共に行なっています。そこには新たな出会いがあり、共に実体験からあり方を主張しているのです。

偏見が避けられない中、行動をすることも必死に訴えていたのではないでしょうか。死刑制度の訴えは今でも言われていますが、当時から行われていたことが伺えます。免田事件について日本のみならず海外に向けて発信することで、冤罪ということがあることに、より関心を深める意図があったのではないでしょうか。死刑制度を廃止する訴えは、日本のみならず海外でも言われている事柄だからです。

免田事件の賠償金はいくら?使い道は?

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拘留期間が長いこともあったこともあり、当然支払われる金額もあります。免田事件での賠償金ですが、拘留期間が長いことで高いのは当然であり、もらえることが特別ということではありません。31年7ヶ月という期間を考えると、あまりにも長い拘束期間だったのではないでしょうか。支払われた金額は、今の時代に換算すると大きな金額であることは伺えます。

31年間の人生をお金で判断することは難しいことであり、人生のほとんどが奪われ、更には時効になってしまい迷宮入りになった本来の事件を踏まえると、支払われる金額があるのは当然です。ではいくら支払われどのように使われたのでしょうか。受け取ることに賛否があったとも言われていますが、支払われた金額を受け取ることは当然のこととも捉えられます。

当時としては破格の9071万2800円

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今時点で計算すると、想像もできないほどの金額が支払われています。31年間以上の期間を計算することは難しく、お金に変えられることではないことも言えるでしょう。免田事件では考えられない年月とともに支払われた金額も、長い期間拘束されたということもあり破格の金額でした。今でも大きな金額ではありますが、当時ではあり得ない破格の支払いに再び世間での声が響きます。お金に変えられないとされるも、あまりの破格さにありもしない噂は後を絶ちません。

長い年月働いていたらどうでしょうか、きちんと受け取っていた給料があったでしょうか。奪われた時間の方が大きいことが見て取れるかもしれません。本来の殺人事件の真犯人が見つからないまま時効になったことも踏まえると、司法に裏切られた代価とも捉えられるでしょう。

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