花形敬とは?「伝説の喧嘩師」と呼ばれた素手喧嘩(ステゴロ)最強の男!

少年時代から体が大きく喧嘩っ早く「怪物」と呼ばれた

花形敬は物心がついてない頃か、つくくらいの年頃から既に、人よりもその大柄なカラダが目立っていました。大きかったのは見た目やルックスだけではありません。野心や態度も人一倍に大きい物だったと言います。

彼は少年から既にワルに目覚めていたのです。家庭環境が影響したとも考えられますが、肝心の両親や家庭の事については、ほとんど明らかとなっていません。

彼がアウトロー、ヤンキーとなったのは、突然のことだったと知人がそう語ります。元々は将来を見据えて、勉学に勤しむ真面目なガリ勉な生徒だったらしく、視力が悪くなってから、いつの間にかベクトルが大きくずれてワルになったそうです。

Comfreak / Pixabay

自分と同じように、真面目や勉強とは無縁の、尖ったヤンキーたちに目を付けられ、また目を付け己の拳だけでケンカを日常茶飯事に行い、暴力という原始的な方法でスクールカーストを上り詰めていったのです。

いつしか他の同年代のヤンキーや同級生、地域の少年たちから、花形敬の存在を恐れられるようになり、非凡で類まれなガタイとセンスで、この時すでに「怪物」と称されて、一目置かれるようになっていったのです。

国士舘中学校では石井福造と番長争いを演じる

Free-Photos / Pixabay

花形敬は問題行動や非行を多く起こして、自ら公立中学校を辞めると、今なお多くのオリンピック選手やスポーツ選手を輩出している、名門私立の「国士館中学校」に入学しました。

運動能力が抜きんでた生徒が多く所属する、その中学校には、後に今なお存在する博徒系暴力団組織の「住吉会」の石井会の初代会長である「石井福造」が在籍していて、石井はヤンキー・不良グループのトップに君臨する番長だったのです。

ただの公立の中学ではなく、運動能力や身体能力に長けた少年たちが多く在籍する中学が舞台であり、そこでの番長となればケンカの強さは折り紙つきであり、石井もまた怪物と呼ばれていたとしても何らおかしくありません。

WenPhotos / Pixabay

そんな新しく入学した中学のてっぺんにいる石井に、早々と不敵な笑みを浮かべて余裕を見せて、ケンカを挑んだのが、新参者の花形敬でした。

どのような殴り合いであったか、どのような格闘であったかは詳しく語れていませんが、恐らくお互いにあらゆる部位から血が流れ、痕やあざだらけになる激しいものだったはずでしょう。

石井は喧嘩の勝ち負けではなく、ある人物の繋がりを考慮して、花形敬に不良、ヤンキーのトップに位置する番長の座を付与しました。しかし間もなくして、中学を辞めさせられてしまいます。

安藤組に所属し安藤昇からの寵愛を受ける

花形敬がちょうど成人くらいの年齢になると、因縁の相手であり交流があったと考えられる石井の紹介により、株式会社東工業、マスメディアからは安藤組と呼ばれるような安藤昇(組長)率いる暴力団に所属することになりました。

株式会社と謳っているだけあって、業種も明確に定められており、水商売の仲裁役、警備、興行、賭博などです。いかにも暴力団、半グレ集団といったアングラ界に精通する組織らしい活動内容となっています。

その当時では、暴力団という位置づけになっていますが、指を詰めたり刺青などを禁止したり、サラリーマンと同じような背びれを義務付けていたり、どちらかと言えば現代的な半グレ集団のような組織だったと言えるでしょう。

Pexels / Pixabay

現代においても学生時代、少年時代に非行や問題行動に走るヤンキーが大人になっても、学校から場を社会に、問題行動が犯罪行為に変えて暴力団員になるケースが少なくないようですが、この当時から、その風習は変わっていなかったのでしょう。

花形敬は所属した当初から、下っ端ではなく、組長の直属の部下であり右腕とも言える「舎弟」として扱われていました。これまでの伝説、経歴が耳に入っていたからでしょうか。

組長はとにかく花形敬を慕い、信頼を置き、他の組員たちよりも特別に可愛がったそうです。後に引退して「俳優」として表立った舞台に立ったあとも、そんなかつての非凡な部下の事を伝説として語るのも、良くうなずけます。

安藤組の幹部まで上り詰めた

designwebjae / Pixabay

花形敬は、表向きは株式会社東工業、周りからは安藤組と呼ばれる様な暴力団に所属して、東京都内の若者たちが溢れる大都市である「渋谷」をベースにて、活動して勢力を大きくしていきました。

この時、具体的にアングラ界でどんな活動をして、どんな強面な相手と闘ってきたのか等は詳しく語られていませんが、組長に特別可愛がられていたこともあってか、いつの間にか組織の中心となる幹部にまで上り詰めていました。

株式会社東工業及び安藤組は、創業した安藤昇が社長、組長となり指揮して活動していました。

geralt / Pixabay

しかしある時、同じアングラ界で活動する他の組織と揉めて抗争が起き、それがきっかけとなり安藤は、警察に検挙されて豚箱と呼ばれる刑務所に数年間、囚人として服役することになりました。

そして、言い伝えがあったのか、他組員から推薦されたのか、実力、実績ともに申し分がない花形敬が、株式会社東工業及び安藤組を、組長代理として率いることになりました。

素手喧嘩(ステゴロ)最強の男!花形敬の伝説!

EliasSch / Pixabay

先ほどの事項では、今回の記事で徹底的にクローズアップしている、花形敬の太く短い生涯の、ワルに目覚めてケンカを覚えた少年時代から、アングラ界で活動する暴力団に所属して、その地位を確立するまでの経歴・生い立ちを解説していきました。

皆さんもお気づきだと思いますが、その名は現代でも多くの人から認知される有名人でありますが、具体的なエピソードや経歴、活動内容についてはあまり明らかとなっていません。

昭和初期から中頃までの時代を生きた古い人間であり、ましてやアングラ界で生きるアウトローだったわけですから、情報が記録されず、経歴が定かではないのは致し方無いでしょう。

lukaszdylka / Pixabay

確かに細かいエピソードなどの多くは、明らかになっていませんが、花形敬という1人の男の強さやケンカの実力は、伝説として確かに現代でも語り草となっているのです。

さてこちらではそんな彼の武勇伝、伝説と呼ばれる逸話の数々をピックアップして、どんなことをしてどれだけ凄いのかを嚙み砕いて詳しく解説していきます。

最強の遺伝子を持ち、漫画では豪傑な戦闘民族として描かれる、実在した武士「薩摩隼人」について興味のある方、気になる方はこちらの記事をご覧ください。

伝説①素手喧嘩(ステゴロ)で日本一の強さ

calibra / Pixabay

前述でも解説しましたが、花形敬は、中学時代には、運動能力や身体能力の長けた生徒が集まる学校の、不良、ヤンキーのトップに君臨する番長にまで上り詰めました。その際、己の拳とケンカの強さだけで周囲に存在感を示したのです。

きっと百戦錬磨、負けなしだったのではないでしょうか。更に株式会社東工業、安藤組に所属する前、大学時代にもケンカは日常茶飯事だったようで、その大学もあらゆる武道でトップクラスの成績を収める強者揃いでした。

そんな強者相手でも、武道やスポーツではなく素手のみというルールしか存在しない「ケンカ」においては右に出るものがいなかったようで、ここでも負け知らずの怪物として君臨していたのです。

aitoff / Pixabay

ただケンカが強い、殴り合いが強いというわけではなく、実際にその体格やガタイも超ヘビー級であり、拳の大きさも他の男たちの1周りも2周りも大きいので、その拳から繰り出されるパンチの威力は凄まじいと考えられます。

暴力団に所属して、早期にその組織の重要人物、中心人物である、幹部にまで上り詰めたことから、精神面においても忍耐力が尋常じゃなく、痛みにも強い男であると伺えます。

花形敬は昭和の古い人物であっても、あらゆる根拠や所以があるので、ケンカにおいては日本一と称されるのも素直に頷けてしまうのではないでしょうか。

NEXT 伝説②現役のボクサーにもワンパンで勝利