しかし、花形敬は仁王立ちしたままで、意識もそのままで、痛がる様子もなかったので、その様子に恐怖を感じて直属の部下はその場を逃げて立ち去りました。その後、花形敬は自力で病院に行き、治療してもらったそうです。
伝説⑤渋谷駅に止まる電車を脱輪させた
花形敬が所属していた、株式会社東工業、安藤組という暴力団が主に活動していたのは渋谷でしたが、令和となった現在も同エリアに存在する渋谷駅を舞台にした、本当であれば驚愕するような怪力エピソードがあります。
その時はまだ国営企業の日本国有鉄道が管轄していたであろう、渋谷駅に停車していた列車を前に、いきなり飛び出した大柄なアウトローの花形敬は、自らを「大江戸の鬼」と名乗り一喝しました。
そして金棒ではなく、金属でできた鉄パイプの様な棒状のもので、列車の操縦室がある前頭の部分をボコボコ殴り続けたそうです。
この時、その列車の中には、たくさんの乗客がいましたが、駅の構内、プラットホームにいた国鉄のスタッフや駅員は、異常な光景と、鬼の様な所業をしている花形敬を見て言葉をなくし、ただ立ち尽くすのみだったのです。
凄まじい勢いで振りかざす鉄パイプと、それを受ける列車の機体の甲高い打撃音が暫く鳴り響くと、いつの間にかその衝撃により、多くの乗客を乗せた凄まじい重量のある列車の車輪が、線路からずれて脱線していたのです。
繰り返す様にこのエピソードが本当かどうか定かではありませんが、もし本当であれば、彼は一体何をしたかったのでしょうか?己の怪力を見せつけたかったのでしょうか。なんにせよ人外の怪力っぷりには驚かされます。
伝説⑥前科7犯22回の逮捕歴を持つ
花形敬という1人の男はただケンガが強いだけではなく、根っからのワルで生粋のアウトローなのです。30代という若さでこの世を絶ってしまいますが、その太く短い人生の間に何度も警察に逮捕されて、刑罰を受けているのです。
出は一体どんな犯罪を犯していたのでしょうか?罪状や刑罰の詳細については明らかとなっていません。
ですが先ほどの伝説やエピソードから推測すれば、モノを破壊する「器物損壊罪」人に対して暴力を振りかざし「傷害致死罪」「暴行罪」が多かったのではないでしょうか?
一説には、花形敬を本気にさせた相手を、誤って最期までぶちのめして命を殺めてしまったので「殺人罪」も犯してしまったとも考えられそうですが、真実は分かりません。
Contents
花形敬と力道山の因縁の関係
先ほどは真実かどうかは分からない、花形敬の伝説と呼ばれるような様々な逸話の数々をご紹介していきました。本当であればますます、現実に生きたモンスターの様な人間、最強の男、と言った異名に匹敵する人物と言えます。
日本のプロレスの父と呼ばれ、ジャイアント馬場、アントニオ猪木という2代巨頭の師匠でもあり、相撲出身レスラーの「力道山」という昭和の大スターをご存じでしょうか?
そんな力道山と花形敬という、2人の怪物が一触即発の事態となった実話のエピソードがあります。こちらでそのエピソードの詳細をまとめてご紹介していきます。
力道山が用心棒をしていた飲み屋でトラブル
株式会社東工業、安藤組が経営することになった居酒屋に、顔を出しておこうと考えたのか、組長からの指令なのか、花形敬が足を運ぶことになりました。(開店した居酒屋から何も通達が無かったためというのが有力な説です)
すると、そこには既に意外な先客がいました。その先客とは、当時すでに世間に名を馳せていた、獰猛な野獣の様な男、力道山であり、威勢よく居座っていたのです。
お酒を飲んでいて出来上がっていたのか、詳しいところまでは明らかとなっていませんが、力道山の方が先に、何か文句あるのか?と言わんばかりに睨みを聞かせ、「俺がここの用心棒だ」と花形敬に向かって一喝しました。
しかし百戦錬磨の花形敬は怖気づくことも、うろたえることもなく、「テメーに用心棒が務まるはずがない」と怒号を上げて、同じ怪物級の力道山を凍り付かせて、静かにさせたそうです。
腹の虫が収まらなかった花形敬は、力道山に後日、資生堂というビルに来て謝罪するように言い放ちました。
尚、用心棒とは、何か揉め事やトラブルが起きた際の仲裁役、強面な外見で騒ぎを起こさせないようにする抑止力的な存在であります。
本当の理由
先ほど、花形敬の怒号に恐れおののいて、何も言えず黙って手が出せなかった力道山。
と説明しましたが、実際は何も言えず手が出せなかったのは、相手が容赦ない暴力団であり、揉め事を起こしたらマズイ状況に陥ることを危惧したため、だという声も多く上がっており、普通に考えればその理由が真意なのではないでしょうか。
マズイ状況とは、自分の大切な家族や知人、関係者にも危害が及び、命も奪われかねないということであります。相手が容赦ない暴力団となれば、誰でも容易にその考えに至るはずです。
命を狙われた力道山と花形敬への謝罪
力道山は、花形敬に言われた通りにはせず、代わりに弟子のレスラーたちを数名、資生堂に行かせました。この対応が更にヤクザである花形敬の怒りに触れてしまうことになりました。
花形敬は、安藤組の部下たちにその代わりの数名のレスラーたちに容赦なく、ハジキを向けさせ、拘束しました。
力道山を慕っていた1人のレスラーは、師を擁護するように漢らしく潔い態度を示し、その様子を買った花形敬は、レスラーたちをひとまず自由にして、謝罪がないままだったら、その間は命を狙うことを、力道山に伝えるように命じました。
暫く、怯えて身を隠して生活していた力道山は、拘束されていたレスラーから忠告を聞くと、すぐさま謝罪を入れました。この時に居酒屋の用心棒をやらない事、酒を飲んで暴れない事を約束して誓いました。
力道山も裏社会に通じていたと言われている
前述した力道山と花形敬のエピソードはほぼ実話であり、間違いないのですが、力道山は当時、プロレスラーとして活躍して日本で名を馳せて、しょっちゅうテレビなどのメディアに昭和の大スターとして露出していました。
そんな多くのファンを持ち、多くの人たちが憧れる1人の選手、1人のスターが反社会的勢力である暴力団と通じているのは、今も昔もそれほど珍しいことではありません。
また、その当時の時代背景では、力道山がいた格闘技や業界の世界においては、アングラ界で暗躍する暴力団が影にいて後押するバックがいることも当たり前だったのです。
花形敬の最期
先ほどから何度かお話ししている通り、花形敬という1人の男の太く短い生涯は、30代という若い年齢で、幕を閉じました。
なぜ若くして命を絶つことになったのか、死因については冒頭部分でも簡単に触れましたが、その死の背景をご存じない方もなんとなく予想できそうできるのではないでしょうか。
こちらで最期に花形敬の身に何があったのかを分かり易く解説していきます。
東声会との抗争で刺殺された(花形敬刺殺事件)
その頃、花形敬を特別可愛がって側近的な存在にしていた、組長はある事件で検挙されて豚箱とよばれる刑務所で服役していました。そのため株式会社東工業及び安藤組のトップは、幹部の1人である花形敬が代理で務めていました。
花形敬が世話をしていた弟分の更にその部下が、ある組織と取っ組み合いになり揉め事を起こしました。その揉め事を取り持って落ち着かせたのが、在日韓国人が頭の東声会という暴力団の人間でした。
部下は今度は取り持って落ち着かせた東声会の人間に怒りの矛先が向き、安藤組の下っ端を複数人連れて、東声会の人間を呼び出して、刃物を何度も振りかざして酷い怪我を負わせてリンチしたのです。
部下はそのリンチの事などを、自分が慕う兄貴分の兄貴分である花形敬に話して報告すると、自首して逮捕されました。その後、東声会に恨みを買ったこと、抗争が懸念される状況を悟った花形敬は、数名の関係者に助言を求めて接触しました。
そうして東声会の副会長と仲が良く交流がある人間に間を取り持ってもらい、花形敬は「謝罪をしたいので副会長に会いたい」という旨を伝えると、今は副会長はどこか遠くに出向いているらしく、「帰ってきたら連絡する」だけと伝えられました。
副会長は暫くして帰ってきていましたが、連絡がなかったのです。これはつまり謝罪に応じるつもりはない。というサインとなりました。そうとは知らずに花形敬、他関係者は謝罪に向けてお金などの準備をしていました。
そんな矢先に
花形敬は、いつものように仲間や同じ組織の人間とお酒を飲んだ後、1人でフランス車を運転して関東地方の神奈川県の川崎市に帰宅すると、そこには東声会の使いである刺客2人が待ち構えており、刃物で容赦なく襲われ、命を奪われました。
この惨劇が起こったのは、昭和36年9月27日の晩のことでした。十中八九、その刺客は揉め事を起こして、恨みを買ってしまった東声会の仕業であります。当然、東声会も暴力団なのでハジキと呼ばれる拳銃をもっていたはずです。
それなのにどうしてわざわざ危険を冒して刃物を振りかざして、命を奪ったのでしょう?それは花形敬に対して、強い憎しみや恨みを抱いていて強い復讐心があったからだと考えられるのです。
東声会とは?
日本の首都であり大都会である東京都に位置する港区六本木に拠点を置く、任侠団体、暴力団であり、昔からあの山口組と交流があり、近年更にその関係性を強めています。構成員は50名ほどですが、詳しくは不明です。
創立当初の名称は「初代東亜友愛事業組合」であり、「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念があります。
事件後の安藤組と花形敬の母の対応
花形敬が搬送された病院から、実の母親に連絡が行き、母親から株式会社東工業、安藤組に彼の死と、殺された事が告げられました。すぐさま組員や関係者が病院に駆けつけました。
すぐに犯人、黒幕が誰なのか察して、怒りをあらわにして報復や復讐をしようとする組員も少なくありませんでしたが、謝罪の準備などを取り持っていた関係者の1人がそれを必死に阻止しました。
後日、実家にて葬儀が行われましたが、そこで母親は参列した暴力団の組員たちに、復讐や報復をしないでほしいという旨を伝えました。同じように抗争に巻き込まれて命を落としたアウトロー「金村剛弘」に関する記事はこちらです。是非ご覧ください。
花形敬に子どもや子孫はいる?
花形敬は30代という若さで命を落としており、結婚したという経歴もないため、恐らくは最強の遺伝子を継ぐ子供、子孫はいません。
しかし根っからのワルでありアウトローであり、多くの女性たちと関係を持っていたので、隠し子がいても何らおかしくはありません。また子供をほのめかす1つの逸話がありますので、そちらも簡単にご紹介します。
信憑性もソースもありませんが、東声会の人間に襲われて意識を失うまえ、傷だらけとなりながらもその大きく太い拳で、娘に贈るつもりだった物を握りしめていたそうです。(噂に過ぎないので、事実無根の可能性が高いです)
花形敬は多くの映画のモデルとなっている
これまでの内容を振り返れば明らかですが、花形敬という1人の男には、様々な逸話、伝説、エピソードがあり、短い生涯ながらも色濃いアウトロー人生を送ってきたのです。
そのため、花形敬が命を落としてこの世を去った後でも、現代まで、彼自身がテーマ・題材となった数々の作品が生み出されているのです。こちらではそんな作品の概要をまとめていきます。
映画のモデル①安藤組外伝・人斬り舎弟
己の拳、素手のみスタンスを貫いたとされる花形敬が、組長からは何故か「人斬り」と称されて、タイトルにもなっているのが大変気になるところですが、視聴すればその理由も明らかとなる事でしょう。
株式会社東工業、安藤組にスポットが当てられていて、安藤氏本人が組長役として主演を務めていますが、作中のメインは昭和の名俳優「菅原文太」が演じる花形敬の生きざまを描いたアクション作品となっています。
映画のモデル②疵
2019年(令和元年)現在から約30年前の昭和63年に公開されました。今年で60歳を迎える「陣内孝則」が演じる花形敬の、その太く短い人生を1本の人情味溢れる映画にした作品です。実名がそのまま作中で使われたこの作品が初めてでした。
企画したのは、株式会社東工業、安藤組のトップである安藤氏本人です。
映画のモデル③修羅場の人間学
著者は、実際に株式会社東工業、安藤組の組員として奮闘した人物であり、花形敬のその凄みとケンカを渋谷で目の当たりにしていて、その様子や記録を鮮烈にまとられている一冊です。関係者たちから「実録」と絶賛されています。
映画のモデル④実録・安藤組外伝 餓狼の掟
先ほどご紹介した花形敬の実録と称される本と同じ著者であり、こちらは著者自身の修羅場の様な数々のエピソードが詳細に語られている一冊です。現代のビジネスマンも学ぶべき喧嘩の仕方が記されています。
映画のモデル⑤渋谷物語
先ほどピックアップした「疵」という映画と同じ監督がメガホンを握っています。こちらは株式会社東工業、安藤組を立ち上げて創業した、トップの安藤昇の自伝が映像化されている映画です。
安藤昇が題材となっているので、花形敬が主人公ではありません。花形敬を演じたのは元プロ野球選手で阪神タイガースに在籍していた「嶋尾康史」です。
花形敬は人気漫画のモデルにも
花形敬という1人のアウトローが作品のテーマ・題材となったのは映画や小説の実録シリーズだけではなく、有名な人気漫画に登場するキャラクターのモデルにもなっています。こちらではその漫画について簡単にご紹介します。
漫画のモデル①グラップラー刃牙シリーズ
週刊「少年チャンピオン」で連載された人気バトルもの漫画であり、作者曰く、地上最強がテーマとなっている作品です。作中に登場する主要人物の1人、名前も似た「花山薫」がまんま花形敬をモチーフとしています。
名前だけではなく、喧嘩師という肩書、トレードマークとなる外見などがほぼ一致しており、花山薫、バキシリーズを通して花形敬を知る人も少なくないです。
漫画のモデル②軍鶏
普通の格闘漫画ではなく、人間の心や社会の闇を描いた一風変わったテーマの作品で、作中に登場する「早乙女薫」が花形敬をモチーフにしています。
素手のみの格闘スタイル、大男、ケンカ最強といった特徴がそのままキャラクターにも取り入れています。
花形敬の墓はどこに?
今回の記事でクローズアップしている花形敬が眠る、墓は日本のどこにあるのでしょうか?こちらでその墓について概要を解説していきます。一度足を運んで、節度やマナーを守りお墓参りしてもよいかもしれません。
世田谷区の常徳院に墓はある
その当時、花形敬の実家があった東京都、世田谷に花形敬が眠る墓があります。墓があるのは、小田急小田原線「経堂駅」から歩いて5分ほどの寺院「常徳院」の中です。
墓石の表面には、施主として、生前、交流が深かった「安藤昇」「小池光男」「友人一同」の名が確かに刻まれており、彼がいかに慕われていたかが伺え、極道、任侠の世界で共に修羅場をくぐり激動した仲間の名を知ることができます。
花形敬とケンカして競り合った著名人
巷でステゴロ最強、ケンカ最強と囁かれている花形敬と同じように拳のみで格闘して、競り合った、つまり引き分けになったと自称する著名人がいます。自称しているので本当かどうかは分かりません。
その著名人もまた世間からケンカが強いと知られている人物なのですが、その人物とはいったい誰なのでしょうか?
真樹日佐夫
昭和15年生まれで、平成24年に亡くなっています。空手家であり、数々の漫画の原作を手掛けていたり、小説も多く執筆して、映画もプロデュースする多彩な著名人です。
自伝本も多く発売していて、その中でも度々自身のケンカの強さを題材にしています。空手は師範代クラスの実力者なので、花形敬と一戦交えて引き分けとなった噂ではなく、実話だという可能性も十分に考えられるのではないでしょうか。
クロのサングラスがトレードマークで、ミネラルウォーターを愛飲しています。
花形敬の様に名を馳せた他のヤクザ
今回の記事で取り上げている花形敬は、アングラ界に精通していない方、その道に興味のない一般人でも、認知されているヤクザですが、同じように伝説や逸話が生まれるほど、裏社会で暗躍して、名を馳せたヤクザは他にも存在していました。
こちらではそんなやばいヤクザたちを数名ご紹介していきます。
菅谷政雄
大正3年生まれで、昭和56年に亡くなっています。菅谷組の組長や、山口組の組長補佐を務めるなど、大きな勢力を持った人物です。
彼のトレードマークは、ジャケットにネクタイ姿にジーンズで、高級な外車を乗り回すといったハイカラなヤクザとして知られています。
加納貢
花形敬が渋谷なのに対して、加納貢は新宿を活動の拠点にしたヤクザです。「帝王」の名を欲しいがままにして、弱い立場の人間は手を下さず、やりたいことし放題のゴロツキには容赦なく殴るアウトローです。
巷では実は加納貢がケンカ最強、ステゴロ最強と囁かれており、重量あるパンチは「像」のものだと称されるほどです。
花形敬は今でも語り継がれる伝説の男
今回の記事では「花形敬」という伝説のアウトロー、伝説のステゴロ師を徹底的にクローズアップしていきました。彼は物心がついた少年時代に既に、人よりも身体と野心が大きく、ケンカに明け暮れていつの間にか「怪物」の異名がついていました。
ワルと喧嘩っ早い性分は変わらず大人になると、安藤昇に舎弟として可愛がられ安藤組の幹部として、アングラの世界で活動していました。何度も法に触れて逮捕されて多くの前科がついていますが、それも1つの伝説となっています。
どんな状況でも素手のみで格闘したり、拳銃を前にしても弾丸が肉体を貫いてもへっちゃらだったり、信じらない様な逸話が数多く存在して、今なお、花形敬という1人の漢自身や、その色濃い生涯が語り継がれています。