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花形敬と力道山の因縁の関係
先ほどは真実かどうかは分からない、花形敬の伝説と呼ばれるような様々な逸話の数々をご紹介していきました。本当であればますます、現実に生きたモンスターの様な人間、最強の男、と言った異名に匹敵する人物と言えます。
日本のプロレスの父と呼ばれ、ジャイアント馬場、アントニオ猪木という2代巨頭の師匠でもあり、相撲出身レスラーの「力道山」という昭和の大スターをご存じでしょうか?
そんな力道山と花形敬という、2人の怪物が一触即発の事態となった実話のエピソードがあります。こちらでそのエピソードの詳細をまとめてご紹介していきます。
力道山が用心棒をしていた飲み屋でトラブル
株式会社東工業、安藤組が経営することになった居酒屋に、顔を出しておこうと考えたのか、組長からの指令なのか、花形敬が足を運ぶことになりました。(開店した居酒屋から何も通達が無かったためというのが有力な説です)
すると、そこには既に意外な先客がいました。その先客とは、当時すでに世間に名を馳せていた、獰猛な野獣の様な男、力道山であり、威勢よく居座っていたのです。
お酒を飲んでいて出来上がっていたのか、詳しいところまでは明らかとなっていませんが、力道山の方が先に、何か文句あるのか?と言わんばかりに睨みを聞かせ、「俺がここの用心棒だ」と花形敬に向かって一喝しました。
しかし百戦錬磨の花形敬は怖気づくことも、うろたえることもなく、「テメーに用心棒が務まるはずがない」と怒号を上げて、同じ怪物級の力道山を凍り付かせて、静かにさせたそうです。
腹の虫が収まらなかった花形敬は、力道山に後日、資生堂というビルに来て謝罪するように言い放ちました。
尚、用心棒とは、何か揉め事やトラブルが起きた際の仲裁役、強面な外見で騒ぎを起こさせないようにする抑止力的な存在であります。
本当の理由
先ほど、花形敬の怒号に恐れおののいて、何も言えず黙って手が出せなかった力道山。
と説明しましたが、実際は何も言えず手が出せなかったのは、相手が容赦ない暴力団であり、揉め事を起こしたらマズイ状況に陥ることを危惧したため、だという声も多く上がっており、普通に考えればその理由が真意なのではないでしょうか。
マズイ状況とは、自分の大切な家族や知人、関係者にも危害が及び、命も奪われかねないということであります。相手が容赦ない暴力団となれば、誰でも容易にその考えに至るはずです。
命を狙われた力道山と花形敬への謝罪
力道山は、花形敬に言われた通りにはせず、代わりに弟子のレスラーたちを数名、資生堂に行かせました。この対応が更にヤクザである花形敬の怒りに触れてしまうことになりました。
花形敬は、安藤組の部下たちにその代わりの数名のレスラーたちに容赦なく、ハジキを向けさせ、拘束しました。
力道山を慕っていた1人のレスラーは、師を擁護するように漢らしく潔い態度を示し、その様子を買った花形敬は、レスラーたちをひとまず自由にして、謝罪がないままだったら、その間は命を狙うことを、力道山に伝えるように命じました。
暫く、怯えて身を隠して生活していた力道山は、拘束されていたレスラーから忠告を聞くと、すぐさま謝罪を入れました。この時に居酒屋の用心棒をやらない事、酒を飲んで暴れない事を約束して誓いました。
力道山も裏社会に通じていたと言われている
前述した力道山と花形敬のエピソードはほぼ実話であり、間違いないのですが、力道山は当時、プロレスラーとして活躍して日本で名を馳せて、しょっちゅうテレビなどのメディアに昭和の大スターとして露出していました。
そんな多くのファンを持ち、多くの人たちが憧れる1人の選手、1人のスターが反社会的勢力である暴力団と通じているのは、今も昔もそれほど珍しいことではありません。
また、その当時の時代背景では、力道山がいた格闘技や業界の世界においては、アングラ界で暗躍する暴力団が影にいて後押するバックがいることも当たり前だったのです。
花形敬の最期
先ほどから何度かお話ししている通り、花形敬という1人の男の太く短い生涯は、30代という若い年齢で、幕を閉じました。
なぜ若くして命を絶つことになったのか、死因については冒頭部分でも簡単に触れましたが、その死の背景をご存じない方もなんとなく予想できそうできるのではないでしょうか。
こちらで最期に花形敬の身に何があったのかを分かり易く解説していきます。
東声会との抗争で刺殺された(花形敬刺殺事件)
その頃、花形敬を特別可愛がって側近的な存在にしていた、組長はある事件で検挙されて豚箱とよばれる刑務所で服役していました。そのため株式会社東工業及び安藤組のトップは、幹部の1人である花形敬が代理で務めていました。
花形敬が世話をしていた弟分の更にその部下が、ある組織と取っ組み合いになり揉め事を起こしました。その揉め事を取り持って落ち着かせたのが、在日韓国人が頭の東声会という暴力団の人間でした。
部下は今度は取り持って落ち着かせた東声会の人間に怒りの矛先が向き、安藤組の下っ端を複数人連れて、東声会の人間を呼び出して、刃物を何度も振りかざして酷い怪我を負わせてリンチしたのです。
部下はそのリンチの事などを、自分が慕う兄貴分の兄貴分である花形敬に話して報告すると、自首して逮捕されました。その後、東声会に恨みを買ったこと、抗争が懸念される状況を悟った花形敬は、数名の関係者に助言を求めて接触しました。
そうして東声会の副会長と仲が良く交流がある人間に間を取り持ってもらい、花形敬は「謝罪をしたいので副会長に会いたい」という旨を伝えると、今は副会長はどこか遠くに出向いているらしく、「帰ってきたら連絡する」だけと伝えられました。
副会長は暫くして帰ってきていましたが、連絡がなかったのです。これはつまり謝罪に応じるつもりはない。というサインとなりました。そうとは知らずに花形敬、他関係者は謝罪に向けてお金などの準備をしていました。
そんな矢先に
花形敬は、いつものように仲間や同じ組織の人間とお酒を飲んだ後、1人でフランス車を運転して関東地方の神奈川県の川崎市に帰宅すると、そこには東声会の使いである刺客2人が待ち構えており、刃物で容赦なく襲われ、命を奪われました。
この惨劇が起こったのは、昭和36年9月27日の晩のことでした。十中八九、その刺客は揉め事を起こして、恨みを買ってしまった東声会の仕業であります。当然、東声会も暴力団なのでハジキと呼ばれる拳銃をもっていたはずです。
それなのにどうしてわざわざ危険を冒して刃物を振りかざして、命を奪ったのでしょう?それは花形敬に対して、強い憎しみや恨みを抱いていて強い復讐心があったからだと考えられるのです。
東声会とは?
日本の首都であり大都会である東京都に位置する港区六本木に拠点を置く、任侠団体、暴力団であり、昔からあの山口組と交流があり、近年更にその関係性を強めています。構成員は50名ほどですが、詳しくは不明です。
創立当初の名称は「初代東亜友愛事業組合」であり、「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念があります。