花形敬とは?「伝説の喧嘩師」と呼ばれた素手喧嘩(ステゴロ)最強の男!

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しかし百戦錬磨の花形敬は怖気づくことも、うろたえることもなく、「テメーに用心棒が務まるはずがない」と怒号を上げて、同じ怪物級の力道山を凍り付かせて、静かにさせたそうです。

腹の虫が収まらなかった花形敬は、力道山に後日、資生堂というビルに来て謝罪するように言い放ちました。

尚、用心棒とは、何か揉め事やトラブルが起きた際の仲裁役、強面な外見で騒ぎを起こさせないようにする抑止力的な存在であります。

本当の理由

先ほど、花形敬の怒号に恐れおののいて、何も言えず黙って手が出せなかった力道山。

と説明しましたが、実際は何も言えず手が出せなかったのは、相手が容赦ない暴力団であり、揉め事を起こしたらマズイ状況に陥ることを危惧したため、だという声も多く上がっており、普通に考えればその理由が真意なのではないでしょうか。

マズイ状況とは、自分の大切な家族や知人、関係者にも危害が及び、命も奪われかねないということであります。相手が容赦ない暴力団となれば、誰でも容易にその考えに至るはずです。

命を狙われた力道山と花形敬への謝罪

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力道山は、花形敬に言われた通りにはせず、代わりに弟子のレスラーたちを数名、資生堂に行かせました。この対応が更にヤクザである花形敬の怒りに触れてしまうことになりました。

花形敬は、安藤組の部下たちにその代わりの数名のレスラーたちに容赦なく、ハジキを向けさせ、拘束しました。

力道山を慕っていた1人のレスラーは、師を擁護するように漢らしく潔い態度を示し、その様子を買った花形敬は、レスラーたちをひとまず自由にして、謝罪がないままだったら、その間は命を狙うことを、力道山に伝えるように命じました。

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暫く、怯えて身を隠して生活していた力道山は、拘束されていたレスラーから忠告を聞くと、すぐさま謝罪を入れました。この時に居酒屋の用心棒をやらない事、酒を飲んで暴れない事を約束して誓いました。

力道山も裏社会に通じていたと言われている

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前述した力道山と花形敬のエピソードはほぼ実話であり、間違いないのですが、力道山は当時、プロレスラーとして活躍して日本で名を馳せて、しょっちゅうテレビなどのメディアに昭和の大スターとして露出していました。

そんな多くのファンを持ち、多くの人たちが憧れる1人の選手、1人のスターが反社会的勢力である暴力団と通じているのは、今も昔もそれほど珍しいことではありません。

また、その当時の時代背景では、力道山がいた格闘技や業界の世界においては、アングラ界で暗躍する暴力団が影にいて後押するバックがいることも当たり前だったのです。

花形敬の最期

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先ほどから何度かお話ししている通り、花形敬という1人の男の太く短い生涯は、30代という若い年齢で、幕を閉じました。

なぜ若くして命を絶つことになったのか、死因については冒頭部分でも簡単に触れましたが、その死の背景をご存じない方もなんとなく予想できそうできるのではないでしょうか。

こちらで最期に花形敬の身に何があったのかを分かり易く解説していきます。

東声会との抗争で刺殺された(花形敬刺殺事件)

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その頃、花形敬を特別可愛がって側近的な存在にしていた、組長はある事件で検挙されて豚箱とよばれる刑務所で服役していました。そのため株式会社東工業及び安藤組のトップは、幹部の1人である花形敬が代理で務めていました。

花形敬が世話をしていた弟分の更にその部下が、ある組織と取っ組み合いになり揉め事を起こしました。その揉め事を取り持って落ち着かせたのが、在日韓国人が頭の東声会という暴力団の人間でした。

部下は今度は取り持って落ち着かせた東声会の人間に怒りの矛先が向き、安藤組の下っ端を複数人連れて、東声会の人間を呼び出して、刃物を何度も振りかざして酷い怪我を負わせてリンチしたのです。

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部下はそのリンチの事などを、自分が慕う兄貴分の兄貴分である花形敬に話して報告すると、自首して逮捕されました。その後、東声会に恨みを買ったこと、抗争が懸念される状況を悟った花形敬は、数名の関係者に助言を求めて接触しました。

そうして東声会の副会長と仲が良く交流がある人間に間を取り持ってもらい、花形敬は「謝罪をしたいので副会長に会いたい」という旨を伝えると、今は副会長はどこか遠くに出向いているらしく、「帰ってきたら連絡する」だけと伝えられました。

副会長は暫くして帰ってきていましたが、連絡がなかったのです。これはつまり謝罪に応じるつもりはない。というサインとなりました。そうとは知らずに花形敬、他関係者は謝罪に向けてお金などの準備をしていました。

そんな矢先に

花形敬は、いつものように仲間や同じ組織の人間とお酒を飲んだ後、1人でフランス車を運転して関東地方の神奈川県の川崎市に帰宅すると、そこには東声会の使いである刺客2人が待ち構えており、刃物で容赦なく襲われ、命を奪われました。

この惨劇が起こったのは、昭和36年9月27日の晩のことでした。十中八九、その刺客は揉め事を起こして、恨みを買ってしまった東声会の仕業であります。当然、東声会も暴力団なのでハジキと呼ばれる拳銃をもっていたはずです。

それなのにどうしてわざわざ危険を冒して刃物を振りかざして、命を奪ったのでしょう?それは花形敬に対して、強い憎しみや恨みを抱いていて強い復讐心があったからだと考えられるのです。

東声会とは?

日本の首都であり大都会である東京都に位置する港区六本木に拠点を置く、任侠団体、暴力団であり、昔からあの山口組と交流があり、近年更にその関係性を強めています。構成員は50名ほどですが、詳しくは不明です。

創立当初の名称は「初代東亜友愛事業組合」であり、「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念があります。

事件後の安藤組と花形敬の母の対応

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花形敬が搬送された病院から、実の母親に連絡が行き、母親から株式会社東工業、安藤組に彼の死と、殺された事が告げられました。すぐさま組員や関係者が病院に駆けつけました。

すぐに犯人、黒幕が誰なのか察して、怒りをあらわにして報復や復讐をしようとする組員も少なくありませんでしたが、謝罪の準備などを取り持っていた関係者の1人がそれを必死に阻止しました。

後日、実家にて葬儀が行われましたが、そこで母親は参列した暴力団の組員たちに、復讐や報復をしないでほしいという旨を伝えました。同じように抗争に巻き込まれて命を落としたアウトロー「金村剛弘」に関する記事はこちらです。是非ご覧ください。

花形敬に子どもや子孫はいる?

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花形敬は30代という若さで命を落としており、結婚したという経歴もないため、恐らくは最強の遺伝子を継ぐ子供、子孫はいません。

しかし根っからのワルでありアウトローであり、多くの女性たちと関係を持っていたので、隠し子がいても何らおかしくはありません。また子供をほのめかす1つの逸話がありますので、そちらも簡単にご紹介します。

信憑性もソースもありませんが、東声会の人間に襲われて意識を失うまえ、傷だらけとなりながらもその大きく太い拳で、娘に贈るつもりだった物を握りしめていたそうです。(噂に過ぎないので、事実無根の可能性が高いです)

花形敬は多くの映画のモデルとなっている

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これまでの内容を振り返れば明らかですが、花形敬という1人の男には、様々な逸話、伝説、エピソードがあり、短い生涯ながらも色濃いアウトロー人生を送ってきたのです。

そのため、花形敬が命を落としてこの世を去った後でも、現代まで、彼自身がテーマ・題材となった数々の作品が生み出されているのです。こちらではそんな作品の概要をまとめていきます。

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