瓜田純士はキング・オブ・アウトロー!
皆さんは「瓜田純士」氏をご存じでしょうか?彼は生まれたその時から、ワルの道を歩むことが決まっていたかのように、アウトローな両親の遺伝子をひしひしと受け継いで育っていった、アウトロー界のサラブレッド的な存在です。
もちろんそのワルの血統も注目されますが、彼自身他のゴロツキとは一味も二味も違う、一風変わった特徴を持ち合わせています。まず外見、見た目は頭のてっぺんから足のつま先まで、黒いタトゥーがみっちり刻まれているのです。
そのどこもかしこもタトゥーという外見に驚かれる方は少なくないでしょう。そんな見た目からイメージ付きませんが、文才があり、ボキャブラリーに富んだ、インテリジェンスな一面も兼ね添えているのです。
瓜田純士の生い立ちと経歴
瓜田純士という1人の人物が一般人とは程遠い、真逆の人間でワルであり、タトゥーだらけの見た目とは裏腹に文才がある存在感を放つアウトローだということは分かっていただけたのではないでしょうか?
簡単なプロフィール、概要だけではなく、今回の記事では徹底的に瓜田純士をクローズアップしていきます。
より詳しくどんな人物・人柄なのか知っていただくためにも、こちらではまず人となりがよくわかる、過去の生い立ち・経歴について掘り下げてお話ししていきます。
瓜田純士は東京都で生まれた
瓜田純士が生まれた場所は、日本なのはもちろんですが、日本の首都であり、毎年、世界からも多くの観光客が訪れる大都会「東京都」です。
東京都の中にも、23区や西東京エリアなど多くの市町村や区が存在して、それぞれに色々な文化や町並みがあります。その中でも日本の繁華街を代表する夜の街、新宿区に存在する歌舞伎町が出身です。
ご存じの方も多いはずですが、歌舞伎町ではナイトクラブ、キャバクラ、水商売、飲み屋など、夜の時間帯に賑わいを見せるお店が多く、半グレ集団、暴力団といったワルやアウトローたちが多く蔓延るそんな繁華街なのです。
瓜田純士の父親は元暴走族
生まれた場所・土地が既に日本を代表する繁華街で、様々な反社会的勢力が蔓延るワルの街として知られていますが、それ以上に驚きの生い立ちが、瓜田純士は両親です。
なんと父親は元暴走族の総長であり、その暴走族は、昭和中頃から平成の初めまでに、関東圏を中心に勢力を拡大した、多くのヤンキーやワルたちから認知されている、「ブラックエンペラー」なのです。
また母親も詳細は不明ですが、特攻服を着用していたらしいので、一般人ではなくワルな女性だったと伺えます。冒頭で解説したアウトローのサラブレッドと称したのは、この事が所以だったのです。
瓜田純士は中学時代に強制転校
瓜田純士はまだ物心がついていない幼少期の頃から、問題行動が絶えなかったそうですが、小学生になると家庭で溜まったフラストレーションや鬱憤を晴らすために、他の生徒に暴力を振るうなど、もっと素行が悪くなっていきました。
中学生になると、限度を超えたとんでもない悪さを続けて、教育委員会や学校側の意向で、強制的に他校に転校させられてしまいました。
転校先で知り合う2人の人物
転校先では、他校に殴り込みに行くなどワルのお手本のようなヤンキーになっていき、後に世間を何度も騒がせることになる半グレ集団の「関東連合」のリーダー・幹部という主要メンバー2人と知り合いました。
瓜田純士を含むこの3人は、いわば悪友同士でヤンキーならではの遊びをしたり、時に後にリーダーになる人物から制裁を受けるなど、以降も交流を続けてつるむようになりました。
瓜田純士は17歳の頃に暴力団入り
瓜田純士は中学生を卒業すると、高校には進まず、力仕事、土方のような職を転々としていました。後に関東連合のリーダーになる人物から、暴走族への加入を勧められましたが、それを断りました。
断った理由は父親が元暴走族の総長だったためで、実は彼が幼い時両親は離婚しており、母親に引き取られていて、父親を恨むほど毛嫌いしていたのです。同じ道に進みたくない。そういった反発的な意識の表れだったのでしょう。
彼は暴走族という道には進まず、東京都豊島区西池袋に拠点を置く、祭りの的屋などを主なシノギにする暴力団に入りました。暴走族という道には進まなかったもの、結局ワル、アウトロー路線は変わりませんでした。