瓜田純士の現在は?嫁とラブラブでYouTuberに?小指を食いちぎった伝説の真相も

瓜田純士は、「キング・オブ・アウトロー」の名の通り壮絶な人生を歩んできました。獄中で文才が開花し作家デビューを果たし、現在はラッパーデビューもしています。この記事では、瓜田純士の生い立ちや作家活動の経歴、小指の伝説に関東連合との関与の噂まで紹介します。

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瓜田純士はキング・オブ・アウトロー!

皆さんは「瓜田純士」氏をご存じでしょうか?彼は生まれたその時から、ワルの道を歩むことが決まっていたかのように、アウトローな両親の遺伝子をひしひしと受け継いで育っていった、アウトロー界のサラブレッド的な存在です。

もちろんそのワルの血統も注目されますが、彼自身他のゴロツキとは一味も二味も違う、一風変わった特徴を持ち合わせています。まず外見、見た目は頭のてっぺんから足のつま先まで、黒いタトゥーがみっちり刻まれているのです。

そのどこもかしこもタトゥーという外見に驚かれる方は少なくないでしょう。そんな見た目からイメージ付きませんが、文才があり、ボキャブラリーに富んだ、インテリジェンスな一面も兼ね添えているのです。

瓜田純士の生い立ちと経歴

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瓜田純士という1人の人物が一般人とは程遠い、真逆の人間でワルであり、タトゥーだらけの見た目とは裏腹に文才がある存在感を放つアウトローだということは分かっていただけたのではないでしょうか?

簡単なプロフィール、概要だけではなく、今回の記事では徹底的に瓜田純士をクローズアップしていきます。

より詳しくどんな人物・人柄なのか知っていただくためにも、こちらではまず人となりがよくわかる、過去の生い立ち・経歴について掘り下げてお話ししていきます。

瓜田純士は東京都で生まれた

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瓜田純士が生まれた場所は、日本なのはもちろんですが、日本の首都であり、毎年、世界からも多くの観光客が訪れる大都会「東京都」です。

東京都の中にも、23区や西東京エリアなど多くの市町村や区が存在して、それぞれに色々な文化や町並みがあります。その中でも日本の繁華街を代表する夜の街、新宿区に存在する歌舞伎町が出身です。

ご存じの方も多いはずですが、歌舞伎町ではナイトクラブ、キャバクラ、水商売、飲み屋など、夜の時間帯に賑わいを見せるお店が多く、半グレ集団、暴力団といったワルやアウトローたちが多く蔓延るそんな繁華街なのです。

瓜田純士の父親は元暴走族

生まれた場所・土地が既に日本を代表する繁華街で、様々な反社会的勢力が蔓延るワルの街として知られていますが、それ以上に驚きの生い立ちが、瓜田純士は両親です。

なんと父親は元暴走族の総長であり、その暴走族は、昭和中頃から平成の初めまでに、関東圏を中心に勢力を拡大した、多くのヤンキーやワルたちから認知されている、「ブラックエンペラー」なのです。

また母親も詳細は不明ですが、特攻服を着用していたらしいので、一般人ではなくワルな女性だったと伺えます。冒頭で解説したアウトローのサラブレッドと称したのは、この事が所以だったのです。

瓜田純士は中学時代に強制転校

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瓜田純士はまだ物心がついていない幼少期の頃から、問題行動が絶えなかったそうですが、小学生になると家庭で溜まったフラストレーションや鬱憤を晴らすために、他の生徒に暴力を振るうなど、もっと素行が悪くなっていきました。

中学生になると、限度を超えたとんでもない悪さを続けて、教育委員会や学校側の意向で、強制的に他校に転校させられてしまいました。

転校先で知り合う2人の人物

転校先では、他校に殴り込みに行くなどワルのお手本のようなヤンキーになっていき、後に世間を何度も騒がせることになる半グレ集団の「関東連合」のリーダー・幹部という主要メンバー2人と知り合いました。

瓜田純士を含むこの3人は、いわば悪友同士でヤンキーならではの遊びをしたり、時に後にリーダーになる人物から制裁を受けるなど、以降も交流を続けてつるむようになりました。

瓜田純士は17歳の頃に暴力団入り

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瓜田純士は中学生を卒業すると、高校には進まず、力仕事、土方のような職を転々としていました。後に関東連合のリーダーになる人物から、暴走族への加入を勧められましたが、それを断りました。

断った理由は父親が元暴走族の総長だったためで、実は彼が幼い時両親は離婚しており、母親に引き取られていて、父親を恨むほど毛嫌いしていたのです。同じ道に進みたくない。そういった反発的な意識の表れだったのでしょう。

彼は暴走族という道には進まず、東京都豊島区西池袋に拠点を置く、祭りの的屋などを主なシノギにする暴力団に入りました。暴走族という道には進まなかったもの、結局ワル、アウトロー路線は変わりませんでした。

18歳で若頭補佐になり「供攻社」設立

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瓜田純士は、10代という若さで暴力団の組員になると、さっそく同年代の少年少女たちに、薬物を売るなどの違法行為に走って活動しました。そういった活躍が幹部や上層部の人間の目に留まったのか、若くして組織での地位を築いていきました。

組織のシマで所有する、飲み屋・居酒屋などの店で揉め事やトラブルが起きた時の仲裁役、また客に問題を起こさせないようにするための抑止力的存在となる、用心棒の組織「供攻社」を立ち上げて、新たなシノギを確立しました。

立ち上げた組織のメンバーは、強面なメンツ、黒人系の外国人、タトゥーや刺青が入ったアウトローなど、用心棒に必要な強面で危ない見た目をした人物が中心となって構成されていました。

瓜田純士は2014年に4度目の結婚

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瓜田純士は、まだ幼気で小さな子供の頃、まともに母親、父親の愛を受けて育ってきていませんでした。それもワル、アウトローを目覚めさせた原因と考えられますが、真っ当な愛を受けなかった影響は他にもあったのです。

彼はワルであり、スマートな体格にキリッとした男らしい顔立ちなため女性には、困らなく向こうから寄ってくるという典型的なモテ男だったようですが、恋愛になるとものすごくドライで消極的であり、女性を1人の人間と見ていなかったのです。

どうやら女性はすぐ裏切る人と見限っており、常に用心して心を開かなかったそうです。そのことは、自らが口にしていて語っています。そういった恋愛を続けてきたため、これまでに何度も結婚・離婚を繰り返しています。

現在は?

今から5年前の平成26年に4度目の結婚を果たしており、4人目の妻は、どこまでも尖って愛がない瓜田純士に真剣に向き合って、接し続けたようで、彼もそんな4人目の妻の姿に心を打たれて、初めて女性に心を許すことができたそうです。

現在では、口喧嘩することはあるそうですが、過去のように暴力を振るったり、1人の女性である妻を突き離すといった、心無いことはしていないようで、良い夫婦生活を送っています。

4人目の妻も芸能人であり、名の知れた人物なのですが、彼女については後述して詳しくご紹介していきます。

瓜田純士は2015年頃パニック障害に

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2019年(令和元年)現在から4年前の平成27年になると、瓜田純士はある病気を患ってしまいます。

急に心臓の動悸が激しくなる。身体から冷や汗が出てくる。呼吸困難に陥る。震えがする。などの症状に見舞われてしまう「パニック障害」となってしまったのです。

主な原因は不安や恐怖心であり、もしかしたらこの当時、アングラ界に精通する組織に命を付け狙われていたかもしれません。自身は、花粉症により睡眠不足になってしまい、精神状態が良くなかったことが原因であると、考えているそうです。

「タトゥーナビ」で写真を不定期更新中?

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瓜田純士は、8年前の平成23年ごろから、自慢のイケてるタトゥーの写真を掲載して公開するようなサイトに、自身のカラダに刻まれたイカツイタトゥーを掲載しています。

現在でも不定期ではありますが更新しているようで、瓜田純士は、物心がついた中学生の頃に既にタトゥーを入れていたらしく、現在でもタトゥーが増えていることが伺えるので、いつしか全身真っ黒になってしまうかもしれません。

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