平家蟹とは
ヘイケガニ科の蟹。体は赤錆たような色で、幅は20ミリメートルほどの小型の蟹です。まっ平らな形をしており、真上から見た際の甲羅の模様や、九州に多く生息する生物であること、下関で過去に起こった出来事になぞらえてヘイケガニという名がつけられました。
平家蟹の生息地
日本の有明海をはじめとした九州地方、瀬戸内海などに多く生息するほか、中国やベトナムなど東アジア圏に幅広く生息しています。比較的浅い海底、水深30メートルほどの貝殻が多い場所を好みます。
平家蟹の特徴
最大の特徴はヘイケガニを真上から見た際の甲羅の模様です。丸みを帯びた甲羅には、つりあがった睨んでいる目に見える模様、その下には大きな団子鼻の模様、更にその下には歯を食いしばっているかのような横一直線の模様が浮かび上がっています。
平家蟹は正式名称である
ヘイケガニは俗称ではなく、正式な学名です。発見当初は二枚貝などの翼形類に分類されていましたが、1990年になると正式にヘイケガニ科が新設されました。
平家蟹は平家の呪いをもって生まれた!?
劣勢を極めて海へ沈んでいった平家の呪いが生み出したヘイケガニ。そんな噂が囁かれ始めたのは最近のことではなく平家没落後すぐのことです。現在に至るまでも、ヘイケガニに関する情報は当時の人々が語っていたものと変わらずに受け継がれています。
平家蟹の甲羅に浮かび上がる憤怒の顔
鬼面蟹という別名でも呼ばれていたように、憤怒の表情を浮かべるヘイケガニ。様々な辞書や資料にも「平家の怨みが蟹に宿ったもの」と紹介されている事からも、大昔からヘイケガニは怨霊による呪いの化身と言い伝えられている歴史が伺えます。
平家蟹で有名な下関は平家終焉の地
長らくの間権力を持ち続け繁栄していた平家ですが、徐々にその勢いは衰えついに壇ノ浦の戦いでは没落してしまいます。無念の思いを抱きながら海へ沈んでいった安徳天皇を始めとする平氏たちの魂が壇ノ浦に沈み、鬼の形相を持つヘイケガニが生まれたのではないかとされています。
平家蟹につく呪いは真実か?
凄惨な歴史の現場となった壇ノ浦ですが、はたしてヘイケガニの憤怒の表情は本当に平家の無念な思いからくる呪いのせいなのでしょうか?科学が格段に進歩した今、その真相に辿り着くことが出来るのでしょうか。
海外でも論争となった平家蟹の謎
ヘイケガニは日本のみならず、世界中の学者の関心を引きました。人面の模様を持つ生き物は他にも存在しますが、歴史に名を刻む出来事と深く関わっているのでは?という観点から成るヘイケガニの真相を追求した様々な研究結果が残されています。
平家蟹の顔は優性遺伝の結果だった?
1950年代、イギリスの進化生物学者ジュリアン・ハクスリーによって提唱されたのは、人為的な選択によってヘイケガニが憤怒の表情を持つようになったという説です。漁師による捕獲から逃れるために蟹自身が進化していった結果、人々から忌避される姿になり、今日に至るまで種を絶やさずに来られたのだとしています。
食用でない平家蟹に人為的選択説は当てはまらない
1980年代になると、天文学者カール・セーガンによる新たな説が誕生し、ヘイケガニの模様が呪いの為であるならば、下関に近いヘイケガニほど憤怒の模様が一目にも分かりやすく、海外に遠く離れたヘイケガニの方が模様が顕著に出ないのではないかと提唱しました。しかし、甲羅以外の手足も平く細いために、ほぼ食べる部分が無かったヘイケガニを食用としては捕獲していなかっただろうと結論付けられ、結局この説は否定されました。
シーボルトも恐れた平家蟹の呪い
ドイツの博物学者シーボルトが日本を訪れた際、長崎に滞在していたのは有名なエピソードですが、日本の自然の研究にも精を出していたシーボルトは江戸へ向かう旅の途中、下関を通りかかったところ、ヘイケガニの噂を聞きつけ強い関心を寄せました。帰国後、日本での研究を書籍にまとめ発行しましたが、その本の中にも「日本の怨霊が乗り移った怪奇な蟹」として紹介されています。
平家の呪いを恐れる人々
多くの死者を出した壇ノ浦の戦い。その犠牲者である安徳天皇を始めとする平家の怨念がいまだに宿っているとされるヘイケガニですが、その憤怒の表情には戦いの中で不慮の死を遂げた平家たちの悲しいエピソードが関係しています。
平家蟹は平家の怨念を持つ
一目見ただけで、それを食そうとは思わせない雰囲気をまとったヘイケガニ。江戸時代の文献にも残っているように、当時の人々もその外見を恐れ食用として用いられることは少なかったとされています。ここではヘイケガニが生まれるまでのストーリーを追っていきます。
壇ノ浦の戦い
朝廷との関係を密にしていき、徐々に地位を高めていった平家ですが、権力に溺れた結果自分たちの首を絞める事となってしまいました。無敗を誇っていた平清盛をなくした平家は支柱を失い壇ノ浦の戦いでは、ついに死の瀬戸際に追いつめられてしまいます。
安徳天皇入水
天皇家が代々所有する三種の神器をもって乗船していた安徳天皇。まだ幼かった彼は窮地に立たされ、ついには神器の一つ「草薙剣」と共に海へ身を投げ出してしまいました。安徳天皇の側にいた祖母、他の平氏たちもそれに続き海へ沈んでいきました。
源頼朝は死ぬ直前平家の呪いを恐れていた
壇ノ浦の戦いで見事勝利を納めた源頼朝でしたが、晩年の彼の死には不吉な噂が多く出回っています。はっきりとした死因は不明とされていますが、病死説や殺害説など様々な憶測が飛び交う中、実際の死因は乗馬中の頼朝の前に義経や安徳天皇の霊が現れ、それに驚いた際に落馬した事が死因ではないかという噂も浮上しています。
平家にまつわる悲しい話
壇ノ浦の戦い後、残された人々は決して幸福とは呼べない日々を送っいました。安徳天皇までも失くした女性たちの毎日は辛く苦しいものだったとされています。そんなエピソードは後年まで語り継がれ、浄瑠璃や浮世絵として残され、現在に至るまで受け継がれてきました。
平家の女性たちが参拝する「先帝祭」
山口県の赤間神宮で毎年開催されている先代の天皇を偲ぶお祭りです。安徳天皇の崩御日とされる5月2日に、平家の子孫である平家会や漁業団体が中心として神事をつとめます。また、平家没落後、苦しい余生を余儀なくされた女性を偲ぶ上臈道中も行われ、花魁に扮した女性たちが下関市中を外八文字で踏み歩きます。
平家の亡霊に耳をちぎられた耳なし芳一
有名な日本の怪談の一つ「耳なし芳一」も平家と深い関わりがあります。盲目の琵琶師であった芳一の元に、ある武士が訪ねて来て、貴族の前で演奏をして欲しいと頼む事から始まるストーリーですが、前途の貴族とは壇ノ浦で亡くなった平家達の事であり、芳一はこの世のものではない平氏達に得意としている壇ノ浦の弾語りを七日七晩披露します。
芳一を世話する和尚は連日朝帰りする芳一の異変に気づき事の真相を聞き出すと魔除けにと、芳一の全身に般若心経を写します。その晩芳一の元に現れた武士の霊は芳一の姿を見る事は出来ませんでしたが唯一、般若心経を書き損じていた耳を刀でそぎ落とし去って行き、二度と現れる事はありませんでした。
1人海から引き揚げられた建礼門院
平清盛の娘にして安徳天皇の実母である建礼門院。安徳天皇が海へ身を投げ出した姿を見送って自身も入水自殺を図りますが、のちに救助され後年に渡るまで生き延びています。戦後は京都に護送され余生を送り、死後は実子の安徳天皇が眠る水天宮で共に祀られました。
場所によって名前が変わる平家蟹
ヘイケガニ以外にも戦乱の時代に命を落とした武将たちの名前を由来とする蟹が日本中に存在します。どの人面蟹にも「海で戦死した武将」の冠している共通点があることから、当時の人々は戦で戦死した武将たちの無念が蟹に宿ったと考えたのだと推測されます。
キヨツネガニ
江戸時代の儒学者、貝原益軒によって書かれた大和本草という当時の生物学を著した書物によれば、ヘイケガニは「キヨツネガニ」と紹介されています。名前の由来としては、平安時代に豊前国(現在の北九州付近)で入水自殺した平清経から取ったとされています。