平家蟹にまつわる呪いと悲しい話:歴史に埋もれた平家の怨念とは?

1950年代、イギリスの進化生物学者ジュリアン・ハクスリーによって提唱されたのは、人為的な選択によってヘイケガニが憤怒の表情を持つようになったという説です。漁師による捕獲から逃れるために蟹自身が進化していった結果、人々から忌避される姿になり、今日に至るまで種を絶やさずに来られたのだとしています。

食用でない平家蟹に人為的選択説は当てはまらない

menglei / Pixabay

1980年代になると、天文学者カール・セーガンによる新たな説が誕生し、ヘイケガニの模様が呪いの為であるならば、下関に近いヘイケガニほど憤怒の模様が一目にも分かりやすく、海外に遠く離れたヘイケガニの方が模様が顕著に出ないのではないかと提唱しました。しかし、甲羅以外の手足も平く細いために、ほぼ食べる部分が無かったヘイケガニを食用としては捕獲していなかっただろうと結論付けられ、結局この説は否定されました。

シーボルトも恐れた平家蟹の呪い

ドイツの博物学者シーボルトが日本を訪れた際、長崎に滞在していたのは有名なエピソードですが、日本の自然の研究にも精を出していたシーボルトは江戸へ向かう旅の途中、下関を通りかかったところ、ヘイケガニの噂を聞きつけ強い関心を寄せました。帰国後、日本での研究を書籍にまとめ発行しましたが、その本の中にも「日本の怨霊が乗り移った怪奇な蟹」として紹介されています。

平家の呪いを恐れる人々

Gellinger / Pixabay

多くの死者を出した壇ノ浦の戦い。その犠牲者である安徳天皇を始めとする平家の怨念がいまだに宿っているとされるヘイケガニですが、その憤怒の表情には戦いの中で不慮の死を遂げた平家たちの悲しいエピソードが関係しています。

平家蟹は平家の怨念を持つ

一目見ただけで、それを食そうとは思わせない雰囲気をまとったヘイケガニ。江戸時代の文献にも残っているように、当時の人々もその外見を恐れ食用として用いられることは少なかったとされています。ここではヘイケガニが生まれるまでのストーリーを追っていきます。

壇ノ浦の戦い

朝廷との関係を密にしていき、徐々に地位を高めていった平家ですが、権力に溺れた結果自分たちの首を絞める事となってしまいました。無敗を誇っていた平清盛をなくした平家は支柱を失い壇ノ浦の戦いでは、ついに死の瀬戸際に追いつめられてしまいます。

安徳天皇入水

天皇家が代々所有する三種の神器をもって乗船していた安徳天皇。まだ幼かった彼は窮地に立たされ、ついには神器の一つ「草薙剣」と共に海へ身を投げ出してしまいました。安徳天皇の側にいた祖母、他の平氏たちもそれに続き海へ沈んでいきました。

源頼朝は死ぬ直前平家の呪いを恐れていた

壇ノ浦の戦いで見事勝利を納めた源頼朝でしたが、晩年の彼の死には不吉な噂が多く出回っています。はっきりとした死因は不明とされていますが、病死説や殺害説など様々な憶測が飛び交う中、実際の死因は乗馬中の頼朝の前に義経や安徳天皇の霊が現れ、それに驚いた際に落馬した事が死因ではないかという噂も浮上しています。

平家にまつわる悲しい話

kalhh / Pixabay

壇ノ浦の戦い後、残された人々は決して幸福とは呼べない日々を送っいました。安徳天皇までも失くした女性たちの毎日は辛く苦しいものだったとされています。そんなエピソードは後年まで語り継がれ、浄瑠璃や浮世絵として残され、現在に至るまで受け継がれてきました。

平家の女性たちが参拝する「先帝祭」

山口県の赤間神宮で毎年開催されている先代の天皇を偲ぶお祭りです。安徳天皇の崩御日とされる5月2日に、平家の子孫である平家会や漁業団体が中心として神事をつとめます。また、平家没落後、苦しい余生を余儀なくされた女性を偲ぶ上臈道中も行われ、花魁に扮した女性たちが下関市中を外八文字で踏み歩きます。

NEXT 平家の亡霊に耳をちぎられた耳なし芳一