現存するデスマスクと誰も知らないデスマスクにまつわる謎めく逸話

森鴎外(1862年~1922年)は明治・大正の小説家。本名は森林太郎。東京医学部を卒業し軍医となる。ドイツに留学中にドイツ女性との恋愛をもとに書いた「舞姫」。多数の小説や随筆があります。デスマスクは1922年に新海竹太郎により取られました。

文京区森鴎外記念館

所在地:東京都文京区千駄木1-23-4 / TEL:03-3824-5511 / FAX:03-3824-0123  / 開館時間 10:00〜18:00(最終入館は17:30)/ 休館日:毎月第4火曜日(祝日の場合は翌日休館)/ 観覧料:一般300円、中学生以下無料

犬養毅

犬養毅(1855年~1932年)は日本の政治家。岡山県岡山市生まれ。ヨーロッパ留学できるほど学力がありましたが経済的に困難なため慶應義塾に入学。第29代内閣総理大臣となり半年後の5・15事件で暗殺されました。中学校の教科書にデスマスクが掲載されました。

犬養木堂記念館

所在地:岡山市北区川入102-1 / TEL:86-292-1820 / FAX:86-292-1825 / 開館時間:9時から17時まで(入館は16時30分まで)/ 休館日:毎週火曜日(祝日は除く)入館料:無料 / HP:http://www.maroon.dti.ne.jp/inukai.bokudo/mobile/

織田信長!謎のデスマスク

「桶狭間の戦い」の戦いで一躍天下に名を轟かせた戦国時代「安土桃山時代」の武将。本能寺で焼かれたはずの織田信長(1534年~1582年)のデスマスクが在るという噂があります。本当に実在するのでしょうか?

織田信長の最後

信長の最後といえば、1582年に起きた「本能寺の変」は誰もがご存知だと思います。明智光秀が総勢1万3000人を率いて、あの有名な台詞「敵は本能寺にあり」といって信長の首を取に本能寺へと向かいます。

奇襲攻撃の中で信長は自分の死を覚悟したけれど、自分の首を光秀に晒されることを回避したかったに違いありません。罪人として扱われてしまうのですから。炎の本能寺で信長が自刃し遺体を完全に焼き尽くしたのか。それとも誰かが遺体を外に運んだのかは今でも謎に包まれたままです。

本能寺で焼かれた遺体とデスマスクの謎

信長は弥助という黒人をボディガードとして雇っていたといいます。本能寺の変では自刃した信長の生首を持って持ち出して南蛮時に預け、弥助は光秀勢に捕まるものの、光秀は「黒人は何も理解できない動物、日本人でもないから殺すまでもない」と弥助を見逃したといいます。

信長によって、奴隷から日本史上初の黒人武士になった弥助がデスマスクを製作したのではないかといわれていますが、そもそも信長の死体が見つかっていないのです。本能寺の包囲の中、首を持ち出せたのだろうかと大きな疑問があります。

織田信長の子孫と骨格を比較検証!本物なのか?

信長のデスマスクを所有している人物は信長の孫にあたる秀信の子孫である西山氏。なんとフィギュアスケートの織田信成さんと顔の位置などを比較検証した結果、ほぼ一致するということです。確かに、デスマスクの顔を見ると信長のように見えます。もしかするとライフマスクを作っていたのかとも思いました。

著名人以外にも残るデスマスク

KELLEPICS / Pixabay

有名人以外にもデスマスクは作られていました。なんと犯罪者のデスマスクも作られたといいます。それは犯罪心理学の研究資料として、犯罪者のいる監獄で処刑後にデスマスクを保管して研究するためでした。オーストラリアでは犯罪者の骨格と犯罪者になる可能性の関連性を研究した事例があります。

犯罪者のデスマスク

geralt / Pixabay

オーストラリアの旧メルボルン刑務所では、犯罪者のデスマスクは心理学の研究のために処刑後に作られたといわれています。頭蓋の形や隆起に人間の性質があらわれるというもので、犯罪者には特有の頭蓋の形や隆起があるのではないかと考えられたのです。

NEXT ロンドンにある犯罪博物館