世界の女戦士たちを総まとめ。美しく勇猛な女戦士はフィクション以外にも存在した!

ヴァイキングと聞くと略奪のイメージが強いですが、元々は農耕民族であり物資が不足したため海へ出たと言われています。有力者の家族で身分が高かっただけでは?という説もありますが、埋葬された彼女の膝のあたりにはゲームの駒もあり彼女が戦略をたてて支持する立場だったことの裏付けではと言われています。

女戦士ジャンヌ=ダルク

女戦士と聞いてまず思い出すのは人によって違うと思いますが、ジャンヌ・ダルクだという人もいるのではないでしょうか。百年戦争末期のフランスに突如として現れた農民の娘の活躍にスポットを当てます。

オルレアンの乙女

日に日にイングランド軍に追い詰められていくフランス軍。シャルル6世も急逝しイングランドとフランスはまだ幼いイングランドのヘンリー6世が治めることとなりました。その頃のことでした。ある日、ジャンヌは神のお告げによる「オルレアンを救いシャルル7世を王にせよ」という声を聞きました。

最初は誰も信じてくれませんでしたが、シャルルに謁見し真実を告げたことで信頼され軍の指揮を任されました。その結果、「オルレアン包囲戦」でイングランド軍を打ち負かしシャルル7世を王の座へと即位させました。戴冠式ではジャンヌも立ち会うことができました。

早すぎる処刑

しかし、1430年「ブルゴーニュ包囲戦」の最中落馬したジャンヌはブルゴーニュ軍に捕らえられ教会へと身柄を移されます。そこで彼女は異端審問にかけられることになり80もの罪状をかけられました。

そして、ほとんど字の読めなかった彼女は自らを死刑とすることを同意する文書にサインしてしまいます。不名誉な死刑は火炙りの刑とされ、復活を連想されないよう徹底して行われました。その亡骸はセーヌ川へと流されました。

後世の評価

後世、不当な裁判をやり直す復権裁判が行われました。その結果、ジャンヌの無罪が判明し1456年には殉教者として認められました。わずか19年という短い生涯でしたが、現在ではカトリック教会にも聖職者であると認められ、彼女に影響を受けた多くの作品が世に出回っています。

アジアにおける有名な女戦士

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ここまでは古代のヨーロッパ方面の女戦士を紹介してきました。しかし、アジア圏にももちろんいます。中国や中国の各時代の王朝に反乱を起こし自らも戦いに挑んだ3人のアジアンビューティー達を紹介していきます。

漢王朝と戦った徴側(チュン・チャク)

前漢の時代に中国に支配されたベトナム地方。後漢の時代にもその支配は続いていましたが、ここに反乱を起こしたのが豪族の姉妹、徴側(チュンチャク)と徴弐(チュンニ)です。これに怒った漢の光武帝は二万もの兵を差し向けました。

最後は漢軍に追い詰められ二人で手をつないで川に飛び込んだとされています。わずか3年ばかりの戦いだったと言われています。しかしながら、今でもベトナムでは独立のシンボルとして崇められています。

反乱軍を率いた趙氏貞(ちょう してい)

趙氏貞は最初は山賊として暴れまわっている姿が印象的でしたが、西暦248年兄と共に中国の呉国に対し反乱を起こし、次々と呉軍を蹴散らしたことで評価が変わり英雄となりました。しかし、最後は呉軍の陸胤(リクイン)に破れその生涯を閉じました。

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